黒ツナギの話、ついでにバットの話
黒いつなぎで衣装を統一する演出を、『Faust』、『蜘蛛の巣』、『お國と五平』、『京の園』、『わが友ヒットラー』と繰り返し採用してきた。はじめのころはとりわけ深い考えがあったわけではない。専門の衣装スタッフ自体が数多くないなかで、多くの団体が自前でいろいろと創意工夫を凝らしているけれども、専門でやっている人からすれば当然みずぼらしいものに映るに違いないだろう。まれに素人拵えが、常識を打ち破るというようなことがあるかもしれないとはいえ、それはあくまで「まれな」ことである。よく意味がわからないとしたら、自分が本気で取り組んでいる、あるいはプロとしてやっている仕事を、一朝一夕に、それも片手間でやっている様を見たときのことを想像してみてほしい。ほとんどの場合、舐められたもんだと、腹が立ったり、悲しい気持ちになったりするものであろう。それでも、文字通りの丸裸で舞台に立つわけにはいかない。裸は裸として、強烈な意味を帯びる。中途半端な趣向で俳優を舞台に上げたくもない。何か、「意味」を可能な限り排除する方法はないものか。そこに身体が存在していること以外、視覚的に何の情報も持たないもの――
例えば、わが国の伝統芸能には「黒子」(黒衣)というものがある。確かにこれはここまで述べた意図に沿うのかもしれない。しかし「黒子」は、やはり伝統芸能という強烈な文化的な文脈を意識させてしまうし、存在自体を無き者とするための演出なのだとすれば、少なくとも存在しなくてはならない舞台俳優の衣装としては、必ずしも適切な選択とは思えない。
そこで、黒いツナギならどうだろうかと思い立ったわけである。小生のような引き算の家演出にとって、黒色には抗いがたい魅力があるように感じられてしまう。意味を排除し、見せたい部分を徹底的に絞りたいとき、大事な部分以外を黒色にすることで、観客にとっても、俳優にとっても、演出家にとってもストイックな表現が実現できるのである。また、黒色は電子機器の液晶ディスプレイでは表現が難しいから、ひょっとすると黒色の表現が舞台芸術に残された数少ない可能性の一つであるとも考えられる(有機ELがすでにそこまできているけれども)。ツナギは、必要以上に身体を引き締めることもない。だからそれが即エロティシズムに結び付くようなこともない。さらに、視覚的具体性を隠蔽することも期待できるだろう。上下を分けてしまうと、この具体性が徐々に露わになってしまう恐れもある。市販の衣服の多くが「ユニセックス」ではない。市販の衣服では、身体的性差を意識した最適化がなされたものが多くを占める。それによって、それを「あえて選び取った」ことを意識させたり、男性であることや女性であることといった「味」を否応なくつけられてしまう。
また、読んだ時期的には後付けに思えるかもしれないが、谷崎潤一郎が『陰翳礼讃』のなかで、谷崎が以下のような性癖を披露してくれていた。かなり長くなるが演出を思案する上で、参考にした箇所を引用する。
「人が人を人のように演じる」ことには限度がある。「ある人は、また別のある人に、成ることはできない」。そしてこのことは、「ある人は、また別のある人のように、見えているに過ぎない」、というような認識論的な話になってしまわざるをえない。もちろん、それでも形而上学に挑み続けることに意味がないと言い切れるほど、この嗜好の歴史は浅いものではない。
しかし、この浅くない歴史は日本の文化からは遠いところにある。人より自由度の低い存在にあえて身を委ねてみてはどうだろうか、というのである。
女の人形、ではなく〈舞台上の俳優に〉は顔と手の先だけしか〈いら〉ない。胴や足の先は裾の長い衣裳の裡に〈ではなく、黒いつなぎとともに闇に〉包まれてゐるので、人形使ひが自分達の手を内部に入れて動きを示せば足りるの〈ではなく、俳優は必要な分のみ動くだけでよいのだ〉が、私はこれが最も實際に〈というよりむしろ舞台上であるべき身体に〉近いのである。
それ以外にも削られたものは多い。刀が金属バットになった。小道具らしい小道具はそれだけだった。わが国の伝統芸能に「落語」というものがある。そこではしばしば、扇子がキセルや箸に変わる。扇子が箸に変わってよいのなら、バットが刀や杖に変わってもいいはずである。この二つを同じ土俵に立てられないのだとすれば、「落語」と「小劇場」に優劣があるということになる。それとも、小生が及び知らぬ、伝統や歴史といった「時間」に依存しない、重大な意味があるのだろうか。そうだとするならば、どうぞ侮蔑的な顔つきで教えてほしい。文化とは、しばしばマウンティングを意味する。
なお、落語も、『お國と五平』の演出で積極的に参照した文楽や歌舞伎も、小生は一切観劇したことがない。小生は文脈から手法を引きちぎって、奪い取ったというつもりでいるそれだけでなく、ミュージカル、オペラ、バレエ、それらを観ることのできる場所、美術館、博物館、図書館といった一切に縁がない。図書館は幼い頃にギリギリあったかもしれないが、少なくとも10代のうちには足を踏み入れた記憶がほとんどない。小生は文脈から手法を引きちぎって、奪い取ったというつもりでいる。この問題は次作の『文化なき国から』に引き継ぐことにしたい。
撮影:佐々木啓太
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