ポーランドと日本を結ぶ【奇跡の物語】
ポーランドと日本を結ぶ“奇跡の物語”
第一次世界大戦後、
ロシア革命と内戦の中、
シベリアの極寒の地で
次々と命を落とすポーランド人。
「両親を失った子供たちだけでも救えないか」
どこの国も拒否する中で、
765人の孤児を迎え入れたのが日本でした。
日本赤十字社
「本件は国交上並びに
人道上まことに重要な事件で
援助の必要があるため、
本社において児童たちを収容して
休養いたします。」
17日でポーランド孤児を助けることを決定。
この決議は異例の早さだそうです。
日本につくとポーランドの子供達に贈られた
新しい着物の中にあめやお菓子が
たくさんぽっけの中に入っていたそうです。
しかし、
ポーランド孤児たちは最悪の健康状態でした。
日本赤十字の看護師たちが
懸命に看護をします。
その中の一人が
腸チフスが流行、感染してしまい
亡くなってしまいます。
松沢フミさん(当時23歳)
彼女は
ポーランドの子供たちを
寝ずに看病したそうです。
『人は誰でも
自分の子供や弟や妹が病に倒れたら
己が身を犠牲にしても助けようとします。』
『けれども、
この子たちには、
両親も兄弟姉妹もいないのです。
誰かが
その代わりにならなければいけません。』
『私は決めたのです。
この子たちの姉になると。』
医者がこの子は
もう助からないかもしれないという子供を
寝ずに看病し、
奇跡的に一命を取り留めました。
『どうせ死ぬなら
私の腕の中で死なせてあげよう』
と毎晩、抱き寄せて寝ていたそうです。
彼女の自己犠牲の精神は
自分の命と引き換えに子供の命を救いました。
元気になった子供たちが出発の時には
全員のサイズに合わせて新しい服を与え、
渡航中に寒くないように
毛糸のチョッキも全員に贈りました。
その他にもおもちゃや衣服を
たくさん与えたそうです。
船に乗るとき、
お世話になった日本人と離れるのが嫌で
ポーランドの子供たちは
泣いて船に乗ることを嫌がりました。
そして船に乗ると、
覚えた「アリガトウ」という言葉を繰り返し、
泣きながら「君が代」を歌いました。
船の船長さんは毎晩、
一人一人寒くないように
毛布を首までかけてあげ、
頭をなでて熱が出ていないか
とても気にかけていました。
その後、ポーランドは
阪神淡路大震災の時に
被災孤児となった日本の子供たちを
ポーランドに呼び、
3.11の震災の時には支援協会を立ち上げ、
被害に遭った宮城県の幼稚園を
無償で立て直してくれています。
地球の反対の国である国でありながら
日本人はポーランドの子供たちを
自分の子供のように愛しました。
交わることなかった国が
愛で結ばれた奇跡の物語。
名もなき日本人の自分を犠牲にしてまでも
他を愛するという精神があり、
日本を慕ってくれる国があります。
先人が築いてきてくださった日本を
未来にも誇れるように
この愛情と思いやりの心を
どうか忘れないでください。
共に歩んでくれる方を探しています。