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安藤忠雄 「住吉の長屋」
「なぜ好きなのか」探究シリーズ 1
「住吉の長屋」をはじめて知ったのは、たしか大学生の頃、雑誌Pen(だったと思う。自信ないけど)で「美しい家」のような企画が掲載された時だと思う。とにかく、最初に思ったのは「美しい・・・、美しすぎる」ということである。
もちろん、とても狭い敷地にもかかわらず屋根のない中庭を建物の中央に突っ込むという大胆な着想、外壁には玄関以外一切開口部をつくらないという潔さ、建物内部に設けられた開口部の統一感のある美観、家の中の導線に必ずしも屋根がなくてもいいんじゃないかという自由な発想、階段や渡り廊下のシンプルな美しさなど、設計そのものにもほとほと感心し驚かされた。
安藤氏がいろんなところで話しておられる「住吉の長屋」の設計にあたって考えたこと、大切にしたこと、施主に求めたいことにも共感するところが大きかった。
しかし、なによりもわたしが惹かれたのは、その美しさである。
当時は、一体全体「住吉の長屋」のなにをそんなに美しいと感じるのか、あまり考えたりしたことはなかったのだが、「住吉の長屋」との出会いから30年以上がたち、今なおわたしにとっての理想の住宅であり続けていることから、改めて、「なぜ好きなのか探求」シリーズの第一弾として少し振り返って考えてみることにした。
結論から書いてしまうと、「デザインされた光の美しさ」に強く強く惹かれた(そして惹かれている)ということのようだ。「住吉の長屋」では建物だけではなく光までデザインされている。敷地の中央部に設けられた屋根のない中庭に降り注ぐ陽光。中庭上部に設けられた渡り廊下とその横に設けられた階段が創り出す陰影。中庭脇のキッチン室内の陰影。最も明るいところから最も暗いところまで、何層もの光と影のグラデーション。そして、これらの光と影のキャンバスとなるコンクリートの得も言われぬ美しさ。
単なる「採光」という考え方ではなく、光までもがデザインされている。敷地の中央に中庭を持つという「開かれた造形」が住まいに「デザインされた光」をもたらす。キャンバスとしてのコンクリートの美しさを追求することで、「デザインされた光」を美しく完成させる。少なくともわたしにはそのように感じられた。
わたしは建築のプロでもなければ愛好家ですらない。ただ、安藤忠雄の「住吉の長屋」と「光の教会」は、今でもとてもとても好きなのである。乃木坂にあるギャラリー間で行われた「住吉の長屋」の実物展示も、国立新美術館で行われた安藤忠雄展での「光の教会」の実物展示も見に行った。
住宅あるあるだが、「住吉の長屋」の実物展示を見に行った時、一緒に行った妻は「こんな家はイヤ」と言っていたし、わたしがこういう家に住むことはないだろうなぁと思うが、いまだに「住吉の長屋」が大大好きなのはなぜなんだろう、と考えてみた。
どうやら、その答えはこんなところのようだ。そして、それがより研ぎ澄まされて具現化されたものが「光の教会」なんだろう、わたしにとっては。
(画像は、「2021年 新春号 藤塚光政の写真術を読む‑ 住宅写真10選」より)