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tari textile BOOK 後編 #12「素材にふれる丹波布」第5話

第5話

 

 ガラッ。

 硝子がらす戸を開け、颯爽と染色室に入って来たタリとかせになったわたねくんたち。タリはキュッとエプロンの紐を締め、まずはささっと作業台とコンロ周りを軽く拭き掃除。忘れがちなガスの元栓も開け、準備は整った。

「わたねくん、まずは精練せいれんで汚れを落とすね。みんなで育てた綿だからそんなに汚れてないと思うけど」

「うん、でも精練は汚れを落とすためだけではなくて、繊維の1番外側にある撥水性の膜を取り除く意味もあるんだよ」

「え? そうなの? そんな膜があったの?」

「そうなんだ、この膜のおかげでぼくらは雨や泥水から身体を守って地面を転がることができて、海や川にもぷかぷか浮くことができるんだ。そうやってぼくらの祖先たちは子孫を増やすために移動してきたんだ。ついでにいうとこの膜があることで糸紡ぎも滑りよくスムーズにいくんだよ」

「そうだったのか。でもそんなに大事な膜を取り除いてしまって大丈夫なの?」

「その膜の下には、セルロース分子の束が網状になった第1壁、さらにその下には、セルロース分子が束になってしっかり繋って、層状に重なっている第2壁があるから、膜がなくても大丈夫なんだ」

「この細い繊維の中に、そんなふうにセルロース分子がぎっしり詰まっているんだね。だから綿製品は丈夫なんだ」

「そうそう、そしてそのセルロース分子の繋がりには所々に隙間があって、そこに水分子くんたちが入り込むんだ。染色の時には、水分子くんたちは染料分子を一緒にその隙間に連れてきてくれて、その後、染料分子がその隙間に定着すると、ぼくらはその色に染まったことになる」

「なるほど。そうしたら水分子くんたちがわたねくんの繊維内部の隙間に入り込めるようにするためにも、その1番外側の疎水性の膜は取り除かなくっちゃね」

 そうしてタリは大きな鍋にお湯を沸かし、中性洗剤を少し加え、そこにわたねくんたちを投入した。グツグツと30分煮こみ、その後湯洗いもして精練が完了した。

「みんな、お疲れさま、熱かったでしょう?」タリはいっそう白くなったわたねくんたち綛を干しながら声をかけた。

「いやぁ、とってもさっぱりしたよ。次はいよいよ染色だね。今回は何で染めるの?」

「今回は、伝承館特製の藍甕あいがめで、藍染めをするよ」

「いいねぇ」

 

 

   あい学園 藍甕組あいがめぐみ

 1年目のインドール組、2年目のインディガン組からなる藍の葉学園。その生徒は卒業後、インドキシルインターンシップを経て1人前のインディゴとなり、染料として活躍している。

 しかし、卒業のタイミングを逃し、藍の葉の中でインディゴになり乾燥し、その状態から抜け出せなくなってしまった者たちもいる。ここ藍甕組はそのように乾燥葉のなかに留まっている、いわば留年組だ。インディガンの段階で学園を卒業して外の世界に溶け出し、他の物質と結びついてからインディゴになる者たちと違って、この留年インディゴたちは、外の世界つまり水に溶け出せるインディガンの時期をとうに過ぎてしまい、そのままではもう水に溶けることができない。要領よく水分子と共に外の世界に溶け出したまわりのインディガンたちを横目で見ながら、どうすることもできずに乾燥葉の中に引きこもっていた留年インディゴ軍団を、外界に引っ張り出すべく始まったのがこの藍甕組だ。

 

「こんにちはー」タリとわたねくんたちは藍甕組の蓋を開けた。そこは独特の発酵臭が漂い、濃い紫色のどろりとした液体が静かに溜っている。

「わぁ、なんだかどよ~んとしていて、いかにも落ちこぼれ組って感じ。クンクン、でもこの匂い、なんだかクセになるな」とタリ。

 そこに現れたのは水分子くんだ。「よお、わたねくんじゃねえか、久しぶり。元気してたか?」

「どうも、ご無沙汰してます。今日は藍甕組のみなさんの力をお借りしたくて来ました。この人はタリさんといって、今の時代に活きる原始的かつかっこいい最高の布をつくることを目標に、織物修行・研究中の変わった方です」

「ちょっとわたねくん、変わった人とは失礼な。とはいえなかなか的確な紹介、さすが。水分子くん、今日はよろしくお願いします」

「わはは、なかなか面白いコンビだな。あんたの言うその原始的な最高の布っての、なんだかわくわくするじゃねぇか。藍甕組の奴らも良い役割を果たせそうな気がするよ」

 タリはまずわたねくんたち綛状の糸を水で濡らし、よく絞った。これは染めムラを防ぐ効果があるとされている。

「水分子くん、今日の藍甕組の状態はどうですか?」わたねくんは水分子くんに尋ねた。

「おぅ、いい感じだぜ。奴ら、初めは頑なで外の世界に出るなんてまず無理、心も身体もササクレ立ったカサカサの乾燥葉だったんだけど、まずは発酵させて『すくも』になって、その後おれたち水分子と微生物で力を合わせて還元したんだ。今じゃインディガン時代の柔軟さを取り戻して水に溶け出て、藍のはなを作るまでになったよ。ほら、藍甕組の中をかき混ぜてみな」そう言って水分子くんはタリに竹の棒を渡した。

「わぁ、水面に藍色の泡が溜まってきた!」とタリは藍甕の中をかき混ぜながら思わず声をもらした。

「さすが水分子くんと微生物くん。すくもの中で固まっていたインディゴたちがいい感じに還元されて、ロイコ体になって水に溶け出ていますね」とわたねくん。

「ああ。石灰でpHもアルカリ性に整えてるし、微生物の好物の日本酒も入って、この藍甕の中はいい感じにハイだぜ」

 

 外からはなかなかわからないが、なんとも大人な雰囲気が漂うその藍甕の中に、タリは心を鎮めてわたねくんたち綛をぽちゃりと浸す。

「よぉーし、藍甕組の野郎ども、綿の繊維の隙間に連れて行くから俺についてきな」そう言って水分子くんは、藍甕組の中を漂っていたロイコ体を引き連れて、わたねくんたち繊維のセルロース分子の隙間にやって来た。

「みなさん、ようこそ。ぼくらは相性がいいから安心して」とわたねくんはロイコ体たちに声をかける。

「タリさん、彼らを隙間に押し込んであげて」わたねくんは、タリに藍甕の中で糸をよく揉み込むように促す。

 精神的にも物理的にも背中を押された藍甕組のロイコ体たちは、わたねくんたち綿繊維の分子の隙間に落ち着いたようだ。

「よーし、タリ、静かに引き上げてくれ」と水分子くんが号令を出す。

 引き上げられたわたねくんたち綛は、どろりとした青緑色になっていた。

「あれ? 藍色じゃないね、藍甕組のみんな、外の世界に上手く馴染めてないのかな」とタリは心配そうにそう言った。

「まぁまぁタリさん、焦らずに。絞ってよくさばいてみて」とわたねくん。

「うん」タリはそう言って綛を絞り、両手でよくさばいた。すると青緑色だった糸がだんだんと鮮やかな青に変わっていった。

 水に溶け出たロイコ体たちは綿繊維の隙間に入ったあと、空気中の酸素に触れることで酸化し、その隙間の中で再び不溶性のインディゴになり、糸を爽やかな青い色に染めたのだ。この作業を何度も何度も繰り返すことで、繊維に内部に定着するインディゴの数が増え、濃い藍色を得ることができる。タリは自身のイメージする布にぴったりな青色になるまで、藍甕の中に綛を浸し、空気中でさばく作業を繰り返した。その後水洗いで余分な成分を落としつつさらに酸化を進め、無事に藍染めを終えた。

 

「藍甕組のみんな、落ちこぼれだなんてとんでもない、甕のなかで成熟していたんだね。藍染めも古代から世界各地で行われているし、とても魅力的な染料だな。それにこの匂いも、私の中の古代人のDNAが反応したのか何かクセになるし……それにしても微生物くんの仕事も見事で奥が深い……」とタリはなにやら一人ぶつぶつと感慨にふけっている。

「よぉ、お疲れ。こいつら、なかなかよくやっただろ?」と水分子くんも嬉しそうだ。「普通の植物染料と違って、こいつらは媒染剤の仲立ち無しでうまく綿繊維に定着できるし、まぁ、これで安心しておれもこの狭い綿繊維の隙間から蒸発して広い空気中に飛び出せるってことよ。そんじゃ、あとはよろしくな!」そう言って水分子くんは、わたねくんの繊維内部、セルロース分子の隙間から空気中に蒸発していった。あとに残された元藍甕組のロイコ体、今では立派なインディゴたちは、その隙間にしっかりと留まり、爽やかな青色になって風に吹かれて乾かされていた。


作品NO.21

→経糸:落花生(石灰)、落花生(みょうばん)、落花生(木酢酸鉄)
 緯糸:落花生(石灰)、落花生(みょうばん)、落花生(木酢酸鉄)
 整経本数306本、半反

 

 

 

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