結晶みたいに繋がって、離れて、今日も新しい景色が生まれる
最近文字を書く機会が減っている気がする
もちろん企画などで定期的に書いているし、その内容も個人的には力を入れているつもりだ。
ただ、それは明確な締め切りを設けた上での執筆という背景もある。
以前は何か書きたいことがあれば、もっと自由に好きなタイミングで書いていた。
勝手に書きたい言葉が溢れ出ていたから。
けれども、いくら溢れ出てくるとはいえ、強い思いの言葉や気持ちには限りがある。
何より文字だけが表現の場というわけでもない。
昔よりも随分と他の方法で気持ちを表すことも上手になった気もする。
気がつけば、文字の価値は変わらなくても、物事の優先順位としてはだいぶと変わってしまった気がする。
やりたいことは思い浮かんでも、やるべきことはそう簡単に芽生えてこなくなった。
だから、納得のいくものを書けるイメージがそうそう湧かない。
表現をかたちにすることは何と難しいことなのだろう。
何かを作り上げるためには、ときに何かを諦めなければいけない場合がある。
少なくとも僕は、あの頃と同じような気持ちでどこか書こうとしてしまってあるのかもしれない。
今の僕にしか書けない文章があるはずなのに。
現在に目を向けなければ、本当に自分のやりたいことに気づくことはできない。
全てを大事にするだけでは見えない景色がある。
交わるはずのない何かも僕という媒介を核にして、繋ぎ合わせて、自己という人格が生まれてくる。
言葉で表すほど容易じゃない。
だけど、どうもそれは不可能ではないらしい。
瞬きの一瞬ほども正しくなくて、鮮やかな景色を黒く塗り潰しても、自分の大切な要素さえも切り捨てて、新しい景色を生み出したバンドを知ってしまった。
これはもう今の僕にはおあつらえ向きのテーマだ。
そんな今この時にしか作り上げることのできなかった…XIIXの最新アルバムについて今回は執筆していきたい。
XIIXの3rdアルバム「XIIX」は約2年半ぶりの最新アルバムであり、同時にセルフタイトルを冠した意欲作でもある。
1作目の「White White」は斎藤宏介が紡ぎ出す音楽性を前面に押し出した新境地であり、2作目「USELESS」は時代の唸りに負けないような果てしなさを内包した力強い作品となっていた。
どちらも一貫性を持った作品であり、XIIXが凄まじい強度を持つバンドであることに疑いようがないことは明白である。
そんな歩みを踏まえた3作目では、斎藤が「アルバム3作分でバンドの自己紹介になるようにしたい」と述べていたように、これぞXIIX!と呼べるような作品に仕上がった。
と思うことは正直なかった。あくまで個人の見解ではあるが。
それは作品の出来に納得できないとかではなく、あまりにも過去の作品と比べると、異質な完成度であったから。
きっと過去2作と並べても、すぐに適切な評価をすることはできない。
それくらいにこれまでとの繋がりは希薄であったように思う。
まるで新しいバンドと出会ったかのような…それぐらいの真新しさを感じる作品であった。
ただ、この音楽はどう考えてもXIIXだ。それもまた断言することができる。
体は同じでも、人格は違う…そんなイメージ。
一体これまでと何が異なるのだろうか…疑問はいつまで経っても消えないので、少しずつ自分なりの感性で作品を紐解いていこうと思う。
"今すごく綺麗な花に 水を差すよ"/シトラス
"水を差す"という言葉が一般的に使われる際、うまく進んでいることを邪魔する意味合いで使われる方が圧倒的に多い。
なるほど…確かに1.2枚目とバンドしては確実に評価されていたはずであり、その根幹には斎藤の一貫性のある表現が大きかったように思う。
それは須藤の影が感じられない…というわけではなく、純粋に斎藤のなかで生まれた音楽をカタチにするという経緯が感じられるものになっていたから。
少なくとも我々聴き手サイドからすれば、好意的な意見を目にすることが多かった。
今まで埋もれていた音楽が芽吹いてキレイに花開いたのだ。こんなに尊いものはない。
文脈だけを読み取ってしまえば、彼らはそれを台無しにしたことになる。
本当にそうなのだろうか?
"水を差す"は熱いものに冷たい水を注ぐことが語源となっているようである。
確かに熱くたぎっているものに水を足してしまうことは台無しにすることなのかもしれない。
では、"花"の場合はどうだろうか?
花は熱い環境のなかではきっと枯れてしまう。
太陽の光だけで生きてはいけず、その美しさを保つためには地面を潤す水が不可欠だ。
"水を差す"行為が生きる上で大切なものになっていくのだ。
このまま枯れるのか、望まぬカタチでも望んだ存在であり続けるのか…正答は一生出ない問答かもしれない。
何を選ぶかはきっとその人次第。
ただ、当人たちにしか見えない底知れぬ"覚悟"を垣間見た瞬間でもあった。
"どうでもいいや"
"君の声はいつも痛いところをつく"
"変わらずにいたいなら 変わらなきゃいけないと"
"今この世界には君がいる それ以外もうどうでもいいや"
"また会うときは笑ってて"
3rdアルバム「XIIX」の先陣を切る「魔法の鏡」には印象的なフレーズが数多く散りばめられている。
自分自身に望まぬ変化を強いており、その葛藤が垣間見える温度感に触れると、強い確信と不安が否が応でも伝わってくる。
この選択は間違ってない…いや、間違ってないはずなのに、いつかの自分が待ったをかける。
変わることを求めた人間にはよくある光景なのかもしれない。
間接的な結果ではあるが、人生における選択は過去の自分を裏切ってしまうことがままある。
物事が理想通りに行くことなんて、そうあり得ることではない。
きっとどこかで何かを選択して、そうなった瞬間に捨てざるを得ない何かも同時に存在している。
大切なのは、過去も現在も未来もなかったことにならないような結果に繋げること。
人生には、"喜びも悲しみも同じくらいに"ある。
ただ、それを余すことなく享受するためには、健全なままで日々を過ごさなければならない。
"次の朝へ"を向かうこと…誰に何を言われようとも、音楽を続ける資格を得るために選び続ける"覚悟"が脳内にこびりついて離れない。
"やばい どうなっちゃってんだよ 明るい未来 ドレミだけじゃ辿り着けない"/10.うらら
未来は明るい。当然である。
未来は不確定でもある。自明の理。
未来で幸せになれるわけではない。真実だ。
未来は華やかで儚くて残酷なのだ。
それを望んだものにしていこうとするならば、並大抵の努力では叶うことはない。
まず足を踏み入れる"覚悟"が必要になる。
人生を風の向くままに委ねることは、多少望まぬことはあるかもしれないが、感情が介在しにくい分だけ心持ちはだいぶ楽だと思う。
多くは望まないのだ。それがどんな結果になっても責任感は多少薄らぐ。
だが、望んだ結果を引き寄せようとすると話は変わってくる。
必ずしも自分の手元にないものもあるなかで、欲しい未来を実現させることは容易ではない。
それでも自分の選んだ結果で未来がどうなるのか見ていたい。
人生という自由すぎる命題に対してあまりにも責任感が有りすぎるし、自分の足で歩むことの尊さも同時にわかっているんだろう。
"春を追いかけて夢中になった ただ気付けなかった"
"永遠と手を繋いだつもりだった 振り絞るようなまたね"
"笑ってさよなら 僕と君は 違う空で羽ばたけると信じているんだ"
詳細はいくら考えてもハッキリはしない。
ただ、何かを諦めたような結末が示唆されている。
"永遠はなくても 絶対はなくても そばにいれたらそれでいいんだ"/White Song
このささやかな願いだって叶えるのは簡単じゃない。
じゃあ、それを実現させるために何を諦めたのか…ひとつだけ言えるのは、決して絶望に繋がってはいないということ。
"足りない 足りない 足りない 足りない 足りない 足りない 足りないまま"/月と蝶
綺麗な蝶のままでは足りないものがある。
だからこそ、月に焦がれて光へと吸い込まれていく。
目的地は見えるはずなのに果てしない場所にあるのだから。
もしたどり着いたとしても、美しいままではいられないのだろう。
浮世に似つかわしくない…畏怖されるような存在になってしまうかもしれない。
そんな危険を孕んでも目指すべき景色がそこにある。
たとえ、我が身を滅ぼす結果になったとしても。
刹那的な衝動に見舞われた"覚悟"はきっと聴き惚れてしまうほどに美しい。
"きっと大丈夫"/All Light
気がつけば、どんな側面から掘り下げても"覚悟"を問うような内容になっていた。
様々な顔を見せる曲たちが収録されているこのアルバムの"核"はここにあるのかもしれない。
そして、諦めが漂う"どうでもいいや"から始まった作品の終幕は上記の歌詞で締めくくられる。
覚悟の先には確かに足跡が刻まれた未来が待っている。
そんな救いが待っているのだろうか?
あれだけ焦がれた月の光もまるで祝福してくれているみたいに。
いや、多分違う。
"きっと"大丈夫なのだから、これもまた"覚悟"のひとつのカタチであるのだ。
大丈夫という言葉は、簡単に口をついてしまうと、途端に無責任なものに変わってしまう。
口に出すハードルは果てしなく低いはずなのに、それについてまわる責任は山よりも高い。
向き合ったもの対する思いが強いほど、簡単に"大丈夫"なんて言えなくなる。
それでも、
あの日、消えてしまった音楽を忘れないために。
焦がれた思いを失くさないように。
生まれてきた音たちを祝福するように。
どんな道でも、携わる全ての事柄に対しても、全てを満足させることを決意した何より強い"覚悟"が宿っているのかもしれない。
どんな曲にも"覚悟"という名の核が存在することはわかった。
でも、曲から見える"表情"や"感情"はてんでバラバラだ。
よくよく耳を凝らさなければ、共通項なんて見つけられないくらいに。
おそらく気を抜けば離れ離れになってしまう程の…そんな危ういバランスで成り立っているように感じた。
それでも彼らがこのアルバムをリリースしたのは何故なんだろう。
3年という歩みが突き動かしたのか?
XIIXというバンドをしっかりと昇華させるための意地か?
それとも始めてしまった故の責任感からか?
僕はどれも違うように思えてしまった。
彼らにとって、音楽は"音を楽しむ"ものなのだ。
当たり前のことを言っているのはわかっているが、これは重要なことだと思う。
要は音楽の本質を掴み続けていたいのだ。
音楽が常に良いものであって欲しい。
"個人"のエゴよりも"バンド"のエゴが真ん中に立っている。
それは人の醜い欲望を表出させるより何百倍も難しいことだ。
そして、そのためには溢れ出る音楽に寄り添い続ける"覚悟"がいる。
決して根幹になることはないが、細く…けれども強固な"核"となって中枢を担っている。
そうなると、そこに含まれる"感情"は何だっていいのかもしれない。
最初っから"ロー"なテンションでも、ちっぽけなままで"舞う"ことになっても、彼らにとっては造作もないことなんだろう。
生まれ出る何かを享受して、それを音楽で表現する
どんなものでも音を乗せる"覚悟"ができた彼らなら、この先も音源で、ライブで…活動に携わる全ての者にとって納得のいくものを放ち続けていくに違いない。
それは些細なことで繋がって、離れて、結晶みたいに掴んだら消えてしまいそうな…実体を感じにくいものになのかもしれないけれど。
強くハッキリとその輝きを示し続けている。
きっとXIIXというバンドが存在する確かな"アカシ"になっていくのだろう。
たとえ"まばたき"程度の一瞬だとしても。
"有り金全部置いてきな 或いはそれに匹敵する何かを"/あれ
彼らが進むために払った代償は如何ほどなのか?
もしかすると持っているものは全部置いてきたのかもしれない。
まあでも…"きっと大丈夫"
どんな環境でも、咲いた花が美しくないはずがないのだから。
そして、それを愛でれないほど、彼らの度量は狭くない。
壮大な自己紹介を終えた、結晶のように儚くて、ダイヤモンドのように強固な"覚悟"を持ったこのバンドの行く末はいずこに。
案外、予想もしない展開が待ってるのかもしれない。
どうやら答えは眠気まなこを擦った先にある明日にならないとわからないらしい。
だとしたら、聴き手にも生きる"覚悟"が必要になってくるかもしれない。
彼らに見合うぐらいのとんでもないやつが。
どうやら生半可な気持ちで生きることはできなさそうである。
ああ、何て難儀なバンドなんだ!
だからこそ、人生が楽しくなる。
簡単にクリアできないくらいの方が僕らにとってはちょうどいい。
このどうにもならない気持ちを今日も愛おしく思っていよう。
そこからまた新しい景色が生まれてくるかもしれない。