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就職氷河期〜パニック障害
2000年の就職氷河期に、専門学校の卒業と同時に、何とか親のコネクションで木造住宅のプレカット工場に就職できたものの、忙しい時は毎日6時間の残業(日付を超える日もしばし)に加え、土曜日も日曜日もなく14日連続で働いたこともある忙しい環境が待ち構えていた。
そんな時間まで残業するのは、そのプレカット工場で立ち上げ当初から非正規雇用されていた40代の出稼ぎ日経ブラジル人兄弟と私の3人で、毎日6時間の残業をしていた。工場長ですら残業しても20時ぐらいには帰っていた。(何のための責任者なんだ?と思っていた。)
土曜日と日曜日だけは特別に残業は無しで定時に帰れた。
ブラジル人の兄弟は、お金を稼ぐことが目的だったので残業をとても喜んでいたように感じた。
夜になると工場長の退社を知らせるかのように、工場内は大音量のサンバが流れ、ブラジル色に染まる。
このブラジル人兄弟とは、喧嘩もしたが、残業が早く終わったときには釣りをしたり、ブラジル料理をご馳走してくれたり、とても良い思い出があり、私があの辛い環境で頑張れたのも、あの兄弟のおかげでもあった。
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しかし、物語は突然に景色を変えた。
2004年ブラジル弟が癌を患い病院に入院することとなり、ブラジル兄は夕方になると弟の看病のために、病院へ行ってしまう。
その穴を営業マンや、役職の人間が代わりに入って何とか埋めていた。
享年46歳、癌は末期だったため、入院から1ヵ月も持たないうちに、ブラジル弟は天国へ旅立ったのだ。
おそらく、もっと前に体調の異変には気づいていたと思うが、病院に行く時間もなく、仕送りのために、がむしゃらに働いていたために自分の健康管理を後回しにしてしまった結果だろう。
会社としても大きな力を失った。
そして、たまの休みには大好きなパチスロに行ってストレス解消!のはずが、勝てる時は良かったが、負ける時の方が多く、ストレスを更にため込んでいった。そんな生活を続けていた2005年、5年目の梅雨時に事件が起こった。
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たまに体の不調は感じてはいたが、「一過性のものだろう」とやり過ごしていたが、ある日の帰り道いつものように会社から自宅に車で帰っていた時、急に心臓のバクバクとした動悸、そして息苦しくなり、体にも力が入らない、まともに車なんか運転できない。ハザードを点滅させ車を止め、いてもたってもいられなくなり、車から外に降りて目的地もない場所を徘徊した。
『なんだこの感覚は...』
それでも「他の車の交通の迷惑になってしまうから」という思いで車に乗り込むが少し運転しては、また車を止めハザードを.……
それを繰り返し、いつもなら20分で帰れる帰路を1時間以上かけて帰った。
そしてなんとか家に帰り、いつものようにシャワーを浴び、晩飯を食べ布団に入ると、なんと夏場だったのにも関わらず、背筋に寒気を感じた、その寒気からまた心臓がバクバクし、息苦しくなりお腹も痛くなった。
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『死んでしまう!』強くそう思い、ベッドから飛び起きて救急車を呼ぶしかないと思った。その時、同居していた家族と喧嘩していたが、そんなことを言っている場合じゃなく家族を起こし、救急車を呼んで欲しいと伝えに行ったら、その時には症状が多少和らいでいたので、父親に車で夜間病院に連れてってもらうようにお願いをした。
そして夜間病院に着き問診を受けたときには、症状がほとんどなくなっていた。しかしここまで来た以上、何かしらの薬を処方してもらいたくて、今は症状は治まったが、お腹が痛いという症状を伝え、ロキソニンのようなものを処方されたと思う。
そして翌朝、会社を休み市民病院の内科を再診したが原因がわからず、脳神経科にまわされMRI検査を受けても異常は見当たらず、次は精神科へと言われたが正直、「精神科なんて関係ないだろ!」と思った。
しかし、この精神科の医師から告げられた『パニック障害ですね』という淡々とした言葉ではあったが、一気に目の前の景色が変わったのだ。
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未成年のうちからタバコを吸ったり、お酒を習慣的に飲んでいたので、私の頭の中では「ガンかもしれない」という想いが強かったことも、この驚きを強めた。
目の前の霧が払拭され、初めて人を『神様』だと思えた瞬間だった。
F先生という女医の先生だったが、今でも鮮明に顔を思い出せる。
2週間の療養が必要だという診断書を会社へFAXで送り、療養期間が終わると同時に退職願いを出し4年2ヶ月で1社目にピリオドを打った。
この期間でブラジル弟の死と自身のパニック障害を経験し学び得たことは、『若いからといって、頑張り過ぎてはいけない』ということ、『自身の限界点を知れた』ということだった。
現代は、『働き方改革』や『ゆとり教育』により、我々の時代とは違うと言えど、まだまだBLACKの名残りは散見されるので、このメッセージが若い人達へ届く事を願ってます。
【次回予告】
『パニック障害と共に生きる』
乞うご期待👍
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