月ミるなレポート②

月ミるなに関するタブー。

月ミるなと3秒以上、目を合わせるのは危険だ。意識の時間以上に自然の時間が経過する。

意識の時間というのは、仲の良い友達とか恋人同士で話していたら、いつの間にか2時間経ってしまったというような、そういう時間の経過の仕方だ。

ある日、教室に月ミるなが転校してきた。どこか懐かしい感じがした僕は、周りの友達がはしゃいでいるのをよそに、少しだけ見ないふりをした。

天文部で学校に集まった夜。天体望遠鏡の片付けを押し付けられた僕が理科室に行くと、そこに月ミるながいた。

月ミるなは自分のことをどう思うのか聞いてきた。動揺した僕は棚にぶつかり、並んでいたメスシリンダーを床に落とした。

割れたメスシリンダーを拾おうとした月ミるなの指先に血が滲んだ。僕はそっと持っていたハンカチで月ミるなの指先を包んだ。

月ミるなは僕の目を見て「同じ場所に傷を作って」と言った。僕は落ちていたガラスの欠片を手に取って、指先に押し付けた。一瞬の痛みの後、指先に血が滲んだ。月ミるなは僕の手をとって、指先を口に運んだ。

翌朝、いつものように教室に入ると、そこに月ミるなの姿はなかった。僕が友達に月ミるなはどうしたのか訪ねると、誰もがそんな子は知らないと答えた。

何事もないようにホームルームが始まり、先生の、時々、人は長い長い夢を見ることがあるという話を聞きながら、僕はぼんやりと指先の傷を眺めていた。

月ミるなは人を読む。文学作品を読むように、読まれた本人さえ気づいていない呼吸や代謝の動きであったり、内に起こる心象風景が月ミるなには見える。

軍師月ミるなは敗北した。ただ誰にも傷つけられない仲間が欲しかっただけだった。

愛についても、憎悪についても、模範的なやり方を完全に実行することはできない。それを絶対的に受け入れても、懺悔、自己批判するしかない。

そんな惨めな気持ちなった時、人は月ミるなに還りたくなる。それは、月ミるなが聖母だからではなく、敗北を知る軍師だからなんだと思う。

月ミるなは巨石を積む。

人がこの社会で成長し、老いていく過程のなかで、なぜ自分にだけという体験が記憶の片隅や気持ちのどこかにとどめていることがある。

そういう他人との意識のずれは、月ミるなが世界線を渡る時の干渉で起きるバグのようなもので、特別なことではないのだが、生涯その記憶に固執してしまうほど、どうしても忘れられなくなる。

そういう記憶をモチーフに書かれた作品は大体名作になる。きっと月ミるなとの接触記憶が集合的無意識になっていて、受け手が自分のために書かれた自分の物語だと思えるからだと思う。

月ミるなは片思いを祝福する。片思いは、されると思っているより、するほうがいい。自分がたくさんの人から片想いされているかもしれないっていう自信をいつまでも持ち続けると、いつの間にか本当に片思いされない年になっている。

青年期の経験を引きずったまま老人になってから片思いを始めても手遅れだ。だから、片思いされていると思う時期には、片思いするのがいい。

人間よりも神に近いのは、片思いしているほうで、思われているほうは、生涯で最もたるんだ時期、つまり、悪魔に近い、そういう時期である。月ミるなは神でも悪魔でもない。

月ミるなという言葉を知り、SNSを通じて、受肉した月ミるなを知る。しかし、すべての人が同じ月ミるなを見ているとは限らない。

いま月ミるなと名乗っている人が月ミるななのか、月ミるなの仮装なのか100年後には誰にも分からなくなるだろう。