あえて言おう、吾輩は謙虚であると
思春期に東大、京大、旧帝大医学部へとのちに進学する全国トップクラスの俊英たちに囲まれて過ごしたことにより、割と早い段階で上には上がいることを知った。
そのうえで、筆者は自身がとことん怠惰な人間であることを自覚し、許し、割り切り、早々に努力することを放棄した。ただ、親には教育にお金をかけてもらった恩があるので、とりあえず世間的に恥ずかしくない程度の大学には進学した。
そういった経緯もあって、結果の如何に関わらず、継続的に自己研鑽できる人はすべからく尊敬の対象だ。それは勉学に限らず、何においてもである。普段から滅多に感情を揺さぶられることはないが、オリンピックの舞台で戦う選手を見るといつも胸が熱くなる。競技力の向上に費やしてきた時間と労力、その結晶である肉体と技術と精神の純度たるや、筆舌に尽くしがたい。
よって、本当の意味で自身を高めることを見切った自分は取るに足らない、極めてちっぽけな存在なのである。ひたすら下を見て小賢しく生きてきた、クソしょーもないウンコマンなのである。そこに、自らを誇らしく思うようなプライドは一切ない。
その思いが心の奥底にびっしりと隙間なく根を生やしているため、自分は他人に対して偉そうに講釈を垂れるほど立派な人間ではないと認識している。ちょっと勉強ができたのも、偶然の産物だ。父と母の学歴、知力に鑑みて、結果が上振れしているのは時代や環境の違い、あるいは先天的な運の要素が大きい。
もちろん、こいつアホやなぁとか、ブサイクやなぁとか、しゃべりおもんないなぁとか、個体の属性について何かしら負の感想を持つことはある。だからと言って、その側面だけを見て存在を蔑んだり、無価値であると斬り捨てたりすることはない。動物に優しい、花を愛でている、人に親切など、スペックとは別の良さがあるかもしれないではないか。
だから、現実社会においては、背伸びせず、虚勢を張らず、いつでも謙虚に人と接しているつもりだ。それが逆に上から目線やねん!と言われれば否定はできない。ただ、家族、友人、仕事、社会に誠実であろうという意識だけは常々忘れないようにしている。それが向上心を投げ捨てた自分に唯一できることだからだ。