ずっと人見知りで神経質だと思っていたが、実はそうでもなかった話

幼少期から周囲の大人に「アンタ人見知りやな」とか「神経質やな」と言われることが多く、まあ年長者の言うことだからそうなんだろうな、と自然に自分をそのカテゴリの人間だと思うようになっていた。

ただ、結果としてそのことは必ずしもマイナスに働いておらず、幼稚園から小学校、中学校、その後どのステージにおいても、環境や人間関係について真剣に悩んだ記憶はない。元来楽観的で、マイペースな性格だったのもあるかもしれない。

人によっては、大人が何気なく発した言葉が呪いのごとく心の奥深くに刻み込まれ、考え方や行動に影響を及ぼすこともあるだろうが、筆者の場合は単に特徴の一つぐらいにしかとらえておらず、さして気に留めることもなかったようだ。(今思えば、だが)

そうして年を重ね、大学やバイト先やどこぞの馬の骨が集う匿名掲示板で知り合った人たちと交流していく中で、ふと疑問が浮かんだ。「俺って本当に人見知りで神経質なのか?」と。そもそも、人見知りや神経質の定義ってなんやねん、と。

人見知りって初対面で話したり大人数で会話したりするのが苦手で、緊張しやすい人のことを指すんだろうが、それってたいていの人はそうなんじゃないか?人見知りの度合いは打ち解けるまでの時間の長さに比例するのでは?いや俺、まあまあすんなり色んな人と話せてるような…気のせいか?

神経質って細かいことを気にしすぎたり、外部からの刺激に対して過敏な人のことを指すんだろうが、俺の場合は漫画の単行本が1巻から順番通りに並んでないとか、違う種類の食器が重ねられてるとか、そういうのに耐え難い気持ち悪さを感じるだけで、それって別に特別なことじゃないのでは?

いやお札はお金が貯まりやすいように下向きに揃えて財布に入れるのが古来からの習わしやろ!ちょ、そこの水入ったコップ、汗かいてびっしょびしょやないか!綺麗に拭きとって四角に折りたたんだおしぼりの上にちょん、て乗せなあかん!ポテチの袋を縦に切り裂くなああああああああああ

えぇ、十分神経質ですね。それは認めよう。けど、どうやら人見知りではなさそうだ。初めて会う人や関係の薄い人と話す際に口ごもったり、話題を繋ぐのに窮したりすることはあまりない。街中で見知らぬおばさんに突然話しかけられても、普通のテンションで対応できる。うむ、間違いなかろう。

余談になるが、飲み会等で周囲が盛り上がっている中、端っこでモジモジしている人や所在なさげな人を見ると話しかけずにはいられない性分である。彼ら彼女らから興味のある話題を引き出せたり、心身の距離が近づいた感触を得られると、RPGのクエストを攻略できたような達成感がある。

単に口下手なだけだとか、周りに溶け込みたい気持ちはあるけど勇気が出ないだけの人たちって、実は素朴で善良なことが多いように思う。その純粋で繊細な心に触れることができた時、不純で粗野なわたしの心は癒されるのだ。詩人なう。キモス。

閑話休題。結局のところ、幼少期に人見知りだと言われたのは、自宅で過ごす時間が長かったこと、一人遊びが好きだったこと、こだわりが強かったことなどが原因と思われる。その後社会化が進むとともにそういった要素は薄れ、本来の性格が顕在化してきたということだろう。

さて、そこから20年余りの月日が流れ…相変わらず大して人見知りしない人間として、近隣のパパ友やママ友と挨拶を交わし、子どもの学校や学習塾の担任との懇談会で聞かれてもいないことをしゃべりまくり、職場のややこしい何とかハラじじいどもにあえて自分から話しかける日々を送っている。

そして、かつてあれほど神経質だった性格にはとてつもない変化があった。若かりし頃、デスクトップのアイコンはごみ箱1個のみでないと心の平穏を保てなかったが、今では何と!5個まで許せるようになった。すばらしい。めざましい進歩を遂げたと断言して差し支えなかろう。


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