年賀状についての一家言
松葉杖生活の記事が中だるみしてきたので、いったんコーヒーブレイク。ズズー。
今や廃れていく一方の年賀状だが、うちはまだ細々と続けている。遠い親戚や、昔お世話になった方々への生存報告と、彼らの生存確認がひとつの目的だ。もし相手が送ってこなくなったら、次の年からは送らない。そうして1人、また1人とやり取りが絶えていくのだが、それはそれで味わい深い。
そんな年賀状について、どうしても耐えがたいことがある。周囲の人間には幾度となくこの強い思いを吐露しているし、飲み会でちょっとしたネタとして話すこともあるが、心の中はいつもマグマのように燃え盛っている。今回はそのことについてぶちまけたいと思う。
耐えがたいのは、以下の2点である。
子どもや犬「だけ」の写真をプリントして送ってくるな!
何でもいいから、一言添えろ!
なぜこんな簡単なことがわからないのか。できないのか。腹立たしくてしょうがない。そもそも、お前んちの子どもや犬なんぞに全く興味はない。イケメン、フツメン、ブサメンなどの感想はあっても、そこには1オングストロームの思い入れもないのだ。
ただ、子どもや犬に罪はない。彼らは無邪気で、尊い存在だ。問題はそれを何の考えもなく、みんながやっているからと思考停止状態で右へならうお前の未熟で幼稚な精神である。想像力の欠如である。lack of imaginationである。何で英語にしたん?
まずはお前も子どもや犬と一緒に写れ。顔面を、肉体を晒せ。話はそれからだ。共同体の意識がない奴に生きものを育てる資格などない。わかったか!わかったら、お詫びとして播磨屋本店の高級豆おかき、「御やきもち」をよこすんだ。思想は強いが、味は絶品だ。
次に、年賀状に何のコメントも添えない奴ら、前へ出ろ。お前らは何もわかっていない阿呆だ。年賀状は単に形式的な慣習ではない。気持ちの、心の通い合いである。テンプレで済ませたいなら、LINEであけおめ!ことよろ!とでも送っておけ。お前らのような愚図にはそれがお似合いだ。
過去の記事でも書いたが、古来からの風物詩は乗っかってナンボである。そして、どうせなら歴史を、作法を知ることだ。アレンジしても構わないが、そこには意図があってしかるべきである。子どもや犬の写真に謹賀新年とだけ印字して送ることがいかに無粋か、賢明な人間なら理解できるだろう。
わかったか!ノーコメの盆暗ども。直筆こそ正義だ。わかったら、お詫びとして播磨屋本店の高級おにぎりせんべい、「はりま焼」をよこすんだ。思想は強いが、味は絶品だ。