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「世界と初めて繋がれたのが音楽だった。」音泉温楽主宰 / 別府温泉ホテルニューツルタ 鶴田氏へのロングインタビュー:前編

『いいお店には愛がある。』小さなレコードバーを経営する1人として、とても大事にしている考え方で、これはお店だけではなくヒトやイベントにも当てはまるようにも思える。
今回インタビューをした音泉温楽主宰の鶴田宏和氏と私(深川)の関係は、今年で約10年。2013年に別府で出会い、当時大学生だった私に様々なおもしろい人や景色を教えてくれた。そんな彼と久しぶりに2時間も話し込んで感じたのは、出会った頃と変わらぬ強烈なまでの『音楽カルチャーへの愛』だった。
本当は1本の記事に収めるつもりだったが、多くの人に彼の思想や愛を知って欲しいと思い前後編の2つの記事で紹介する。後編は2月半ばに公開予定。

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鶴田宏和(ツルタヒロカズ)
1977年福岡市出身、大学卒業後音楽業界に進みエンターテイメントビジネスに長く関わる。2009年温泉旅館を貸切った温泉×音楽フェスティバル「音泉温楽」を長野・渋温泉金具屋で立ち上げ、その後全国の温泉地に展開、ユニークベニューを活用したイベントプランニングを得意とする。2013年婿入り結婚を機に別府温泉へ移住、北浜・ホテルニューツルタの経営に参画。別府ではナイトガーデンパーティー「The HELL in 海地獄」、ハイエンドウェルネスプログラム「北浜ウェルビーイングステイ」などのプロデュースを手掛けている。湯会株式会社 代表取締役。

音楽性を作り上げた原点

深川:今日は、音泉温楽などの様々な音楽イベントを作ってきた鶴田さんの考える、これからの音楽フェスや地域との関係性を伺えたらなと思ってますが、まずはいつも通り軽い話題からいきましょう(笑)これまでなんでこの話してなかったんだって質問なんですけど、初めて買ったレコードってなんですか?

鶴田:改めてだね(笑)小学2年生の時に買った『うしろゆびさされ組の「バナナの涙」『マクロスの「愛・覚えていますか」の2枚のepだね。当時はTVの「ザ・トップテン」とか「夜のヒットスタジオ」から音楽の情報を仕入れていた。地元が福岡のベッドタウンのヤンキーが多い地域だったこともあってか、中学入ってすぐくらいから、BOØWYとかBUCK-TICKを聴きだして、エアーコピーバンド組んで布袋さんのフリ真似してたね(笑)

当時、BUCK-TICKのギタリストの今井寿さんがYMO(YELLOW MAGIC ORCHESTRA)を推してて、初めて聴いた時はすごい衝撃だった。NHKでYMOの2ndワールドツアーの映像を見て、白塗りの細野さん(細野晴臣)がシンセベース弾いてて、無機質な演奏なんだけどめちゃくちゃかっこよくて、そこからYMOにどっぷりだね。

そのYMOがサンプリングの始祖みたいな存在なんだけど、当時はUKベースのセカンド・サマー・オブ・ラブ全盛のレイブカルチャーが日本にも入ってきていて、電気グルーヴkaratekaっていうアルバムだったり、フリッパーズ・ギターヘッド博士の世界塔って作品をサンプリングベースで作ったりしてさ、いろんな音楽を繋ぎ合わせて1つのものを作り出すっていうコラージュセンスにすごく影響を受けた。当時はUK主にマッドチェスターのサンプリングが多かったので、そこらへんを中心に掘り始めたね。
なので、自分自身を形作ったのは、YMOをゲートウェイにUKレイヴとサンプリングカルチャーが原体験として色濃いね。

音楽を通じて繋がる「世界」

深川:めちゃくちゃ濃い話ありがとうございます。今の話に鶴田さんの「今」が集約されてるのが伝わってきました(笑)レイブとかクラブが流行り出した頃って鶴田さんは高校生ですよね?

鶴田:そうそう。進学で高校時代は京都で過ごしたんだけど、当時の京都はクラブカルチャーの先端になってる空気を感じたね。KYOTO JAZZ MASSIVEがシーンをリードしていて、大沢伸一さんのMONDO GROSSOとか、その発信地だった京都木屋町のCOLLAGE(コラージュ)っていう箱が94年に僕が初めて行ったクラブ。
そして、同時期に一つの共通言語としての「音楽」が世界を駆け巡った。それがテクノ。今じゃ繋がるのが当たり前かもしれないけど、インターネットなんてない時代に自然発生的に音楽が「人」を通じて流通していったのは衝撃的で、国籍とか地域とか関係なく誰とでもサウンドで同じ話ができるというか、「世界と繋がってる」っていう感覚が初めてだったんだよ。

深川:僕は中学生ぐらいからインターネットでいろんなもの調べて、それについて友達と話したのが一番最初でしたね。その時はまだ世界と繋がっているっていう感覚はなかったけども、きっとそれが近しい体験かと思います。

鶴田:あの感覚は80年代の子どもの自分には全くなくて、例えばYMOは世界でも知られてるバンドのひとつだったけど、YMOのような道を辿るワールドワイドな日本発のバンドはまだいなかった。だから、テクノっていうひとつのカテゴリーが世界に拡張していく中で、「自分の好きなYMOがテクノの先祖じゃん!」みたいな感覚を得られるのがめちゃくちゃ新鮮でね。
ドイツではクラフトワークだったり、いろんなルートからテクノのムーブメントが出来てて、それの先端が日本でありドイツでありUKでありみたいなさ、それぞれがひとつのネットワーク化していくのがめちゃくちゃおもしろかった。当時は、DJがインターネットのように世界中を駆け巡って世界を繋げていった、それを準備したのがレイヴやクラブだった。

深川:世界を繋げるDJってめちゃくちゃかっこいいですね。インターネット以前と以後のDJのかっこよさとは少し異なるものでしょうし、クラブという場所も少し特別な場所のように感じますね。

鶴田:当時はとにかくテクノにどハマりしてた。クラブでお酒飲みたいとか、女の子と遊びたいとかじゃなくてさ、ただただサウンドに浸りたかった。いろんなクラブに行ってはTシャツがビショビショになるまで踊ってさ、喉が乾いたら水をめっちゃ飲んでた(笑)
中でも祇園のマッシュルームっていう箱が一番好きで、そこでは有名な海外DJが毎週末のようにプレイしていて、世界最先端の攻撃的なビートを全身で感じる体験が刺激的だった。スモークが消えて朝方フロアに転がってる無数のお兄さんたちを見ながら「こうはなりたくはないな」と思ったのも懐かしいな(笑)

深川:あ、その感覚はなんとなくわかる(笑)

社会のデジタル化の中で失われていく「揺らぎ」

鶴田:98年から大学進学で東京に行くんだけど、その頃には僕がイメージしていた「いい大学入っていい会社に入れば女の子にモテる」はずの東京が、バブル崩壊と共に無くなっちゃってた。ジュリアナ東京みたいな大きな箱も無くなっていたし、カルチャー自体が消滅していたんだよね。思い描いていた東京はどこに行ったんだ?って感じ(笑)

大学入ってからは、birdhouseっていう雑食な音楽好きが集まるニューウェーブのリスナーサークルに入って、先輩と一緒に渋谷新宿下北吉祥寺にレコード掘りに行ってたね。当時の東京は世界で一番レコードが集まってる街と言われるほどで、渋谷の宇多川町とか新宿にほんとたくさんレコード屋さんがあったんだよ、今とは違って。1枚100円とかでいいレコードがたくさん買える時代で、disk unionとかレコ屋の袋を下げてるのがおしゃれだった。

深川:その頃ってCDが全盛の時代だと思うんですけど、レコードに拘った理由ってあるんですか?

鶴田:DJだね。当時はまだデータでDJができる時代ではなかったのもあるけど、原体験としてのレイヴやクラブの影響は強い。特にレイヴではDJが神様だったんだよ。それまではステージの方を向いて生演奏を聴いていた人たちが、その反対側にあるDJブースを見ながら踊り始めた。それこそがレイヴの誕生。あの頃は特にレコードがかっこいい時代だったね、今もまたそうかもだけど。
だけど、98年にMicrosoft Windows 98が出て世界的なイノベーションが起きたことで、アナログだったものが全てデジタルに変換されていくんだよね。MP3が流通して、その記録媒体としてのUSBが出てきて、CDJの流通とともにレコードDJからデジタルDJが主流になっていった結果、フィジカルというかグルーヴが無くなった。決してデジタルを否定するわけではないけど、その結果カルチャーとしてアナログなものが無くなって「揺らぎ」も無くなっていったなと。
だからこそ今でも「揺らぎ」は欲していて、だからこそ今は自分でその「揺らぎ」を作るイベントを目指しているし、アナログのグルーヴィーな揺らぎを常に意識している。

深川:「揺らぎ」っていい表現ですね。記憶に残ってるパーティって体感として感じる何かがあるように思います。鶴田さんって、ただこの音楽が好きっていう話じゃなくて、その背景に何があって、どういう経緯でこの音楽が好きっていうのがはっきりしているじゃないですか?そういう掘り方って昔からそうなんですか?

鶴田:そうだね、サウンドディガーというよりも、カルチャーディガーなんだよね。サウンドを通して、当時のカルチャーを知ることができるのが面白い。例えば、レイヴがなんでマンチェスターでカルチャーとして出来上がったのかとかね。きっかけを作ったのは先進的なレーベル「Factory Records」を作ったトニーウィルソン。僕はとにかく彼とFactoryの考え方が大好きで、当時のUKにありながらソーシャルな思想が強かった。そのFactoryが作った「Hacienda(ハシエンダ)」っていう箱がレイヴカルチャーの聖地と言われていて、当時イビザで流行っていたバレアリックなDJスタイルとドラッギーで精神性を高めるようなパーティスタイルを「ハシエンダ」に持ち込んで、そこにいろんなサウンドを掛け合わせてカルチャーをアップデートしていった結果、DJが神様になっていった。

なんでニューオーダーとかハッピーマンデーズがマンチェスターから生まれたのか?って質問に対してトニーウィルソンが「それは簡単だ。80年代を通じて世界で一番いいレコードはみんなマンチェスターに集まって、それを披露する場所もあったからだ。」って答えたんだよ。彼の思想にはとても影響を受けているし、僕自身も「音楽はインターネットであり、社会資本だ」っていう視点でフェスを作ってる。

深川:別府という街で、学生でも楽しめるレコードバーを運営するものとして、何をすべきなのかのヒントをもらえるような話ですね。より多くの若者に音楽に触れて、発信する機会を提供することの重要性を感じました。

後編へ続く

深川謙蔵 / the HELL オーナー, the HELL MAGAZINE編集長
1990年佐賀県生まれ。立命館アジア太平洋大学卒。卒業後は株式会社オプトに入社し、新卒採用担当として勤務。2019年3月から別府に移住し、「遊びの入り口」をコンセプトにしたレコードバーthe HELLを開業。コロナ禍では、別府の風景を販売するチャリティの企画や、複数の飲食店と協力して朝ごはんを提供するイベントを運営。2021年5月より、「街の人が、街の人に学ぶ『湯の町サロン』」を主宰。
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多久島皓太 / ライター
1998年生まれ大阪出身の23歳
the HELLには開店当初から通っており、当マガジンの趣旨やオーナーの想いに共感しライターとして参加。現在起業準備中で日々の苦悩や葛藤、また趣味であるサッカーに関してなどSNSを通して幅広く発信している。
英国の伝説的ロックバンド oasisの大ファン
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