ひとつぶの夢 #KUKUMU
鬼が人を襲うと恐れられていたのは、随分と昔の話だ。本物の鬼を見たことがある人間など、もうこの現代には残っていない。
かつて鬼退治に精を出していた人間たちは、いつの間にか人間同士で戦うことを好むようになったらしい。人間は弓矢だけでなく、銃と呼ばれる飛び道具を使うようになり、そのうち火が出る車に乗るようになった。暴力に特化した生物に生身で立ち向かうほど、鬼も馬鹿ではないのだ。
人間が増え、自然が減っていくとともに狂暴な鬼たちは居場所を失っていった。人間から姿を隠して生きていくことを決めた穏健派だけが生き残り、今は小さな山々に散って、ひっそりと暮らしている。
「じいちゃん、これなに?」
雀山(すずめやま)に住む黄鬼のキイタが貨幣を初めて目にしたのは、5歳のときだった。
冬場になると片側だけが茶色く見えることから名付けられたその山は、険しく小さい。もちろん道も整備されていないため、登山好きでなければ入山しない場所だ。
山で生きる鬼たちは、身体の色によって仕事が分けられている。動物を狩る赤鬼、洞穴を作る青鬼、山の落とし物を拾い集める黄鬼、植物を収穫する緑鬼、そして人間の侵入を監視する黒鬼だ。10歳で成人すると、山で生きていくか地獄で働くかを選択できるようになり、大人の仲間入りを果たす。従来、地獄で人を苦しめるのが鬼の喜びであり、人間で言うところの出世街道であったのだが、穏健派の鬼ばかりとなった影響か、近年は山に籠ってのんびり過ごしたがる若い鬼も少なくない。これには、閻魔大王も頭を悩ませているという。
「見てみぃ」
キイタを横に座らせた祖父のキイゾウは、土で汚れた財布を開けて硬貨と紙幣を取り出した。
「紙と石?」
薄い紙には既に人物の絵が描かれており、物を書くには向いていないが、良い燃料になりそうだった。
「石じゃない。金属じゃよ。人間の世界では、これがあれば大体の物と交換できるんじゃ。数字が書かれてるだろう。数が大きいほど、良い物と交換できる」
キイゾウは、紙幣に書かれた「10000」の字を指した。
「大切なものなんだね。こんなにペラペラなのに」
ニヤっと笑って、キイゾウは1万円札をキイタの巾着に押し込む。
本来、鬼の世界では人間の物を勝手に使ってはならない。各色の鬼にはリーダーが定められており、黄鬼たちによって回収された人間の持ち物は赤、青、黄、緑、黒の5匹のリーダー陣によって使い道が決められる。……はずなのだが、自分勝手な性分の黄鬼たちは周りの目を盗んで金をくすねていることも多い。なんせ、リーダーのキイゾウがやりたい放題、盗みたい放題だ。よっぽどのことがなければ配下を咎めることもなかった。
「1枚とっときなさい。他の鬼には内緒じゃよ」
キイタは知らなくてもいい人間の知識を、キイゾウにたんと仕込まれていた。幼い頃に両親が地獄へ行ってしまったため、キイゾウは親代わりとしてキイタの世話をしている。他の大人からは聞けない刺激的な話の数々に、キイタはいつも胸を踊らせ、将来は祖父のように山のリーダーになることが夢だった。
***
「お前さ、豆って興味ある?」
その日、キイタは幼馴染でミドドの家の洞穴で一晩中酒を酌み交わしていた。ミドドはまともに仕事もせず、親の蓄えを分けてもらいながら、その日ぐらしをしてる怠け者だ。鬼は日本人の50倍ほど酒が強い。一升瓶をカラにしたところで、ミドドは話を持ちかける。
「そりゃあ興味ないことはないけどさ、でも俺みたいな庶民には無縁だろ」
鬼にとって、大豆は身を亡ぼす危険な食べ物だ。豆を食べるたびに、鬼の命である角が擦り減る。そして身体も小さく細くなって、怪力と妖力を失ってしまう。最後は鬼とも言えぬ、かといって人間とも言えぬ、哀れな化け物として死ぬときを待つしかなくなるのだ。
しかし同時に、鬼にとってはどんな食べ物よりも美味という噂。手を出してはいけないとわかっていながらも、密かに憧れている者は少なくない。口にすれば大きな幸福感を得ることができるため、かなりの高値で取引されている。
煎り大豆1粒に対して、山ぶどうなら100粒、筍なら5本、狸なら1匹といった具合だ。
1度食べると病みつきになり、大豆を食べる前の生活に戻れない。まともな鬼ではなくなってしまうことから、雀山の掟では豆の摂取はもちろん、栽培や所持すらも禁止されている。
「じゃあ、手が出せるようになったとす・れ・ば……?」
ミドドは巾着から豆を2粒取り出した。楕円形でカサついた煎り大豆は、キイタが想像していたよりもはるかに小さかった。もちろん、お目にかかるのは初めてだ。こんなに小さな豆に、噂されるような特別な効果があるとは思えない。
「おいおいおいおい、どうしたんだよ。これ」
キイタは思わず小声になる。
「うちのお得意さんが、酒と交換させてくれって言ってきたんだ。1合につき2粒だから破格だぞ~」
「まったくこれだから酒屋は……」
大酒飲みの鬼たちにとって、酒屋は重要な職業だ。ミドドの店には、食べ物を豊富に蓄えている裕福な鬼が出入りしている。
「とにかく1粒噛んでみな。すっげぇから」
「いいのか?」
黙って頷くミドド。キイタは1粒つまみあげ、大きな口に放り投げた。奥歯で豆を噛むと、細かく砕けて香ばしさと粉っぽさが広がっていく。噛めば噛むほど甘さが増す。確かに、キイタこれほど美味しい物は食べたことがなかった。
「うますぎる……」
同時に豆を食べたミドドを見ると、目をつぶって鼻歌を歌っている。伸びきった爪をぱちぱちと鳴らしながらリズムを取っていた。
キイタも追いかけるように目をつぶった。するとどうだろう、頭の中で太鼓と鐘の音が鳴り始めたのだ。楽器の音はみるみるうちに大きく鳴り響き、遠くでは若い女が民謡を歌っている。狸や兎も集まってきて、音楽に合わせてけんけんぱをし始めた。極めつけは、頬にこぶの付いた老人だ。優しそうな顔で上手に踊っている。この踊りがまた達者で、キイタは音楽に合わせて手を叩きたくなった。薄れていく意識の中、楽しいという気持ちだけがキイタの体を包む。
「……イタ!……キイタ!」
ミドドに身体を揺すられ、キイタは目を開く。口から大豆の味は消えていた。その代償か、角に違和感があり、両手で触れてみると少しだけ角が短くなっているような気がした。
どうやら大豆の幸福感とは、舞の幻想らしい。あれだけはっきりと聞こえていた音楽を、キイタはもう既に忘れてしまっていた。どれだけ耳を澄ませても、川の流れと、風で木の葉が擦れる音しか聴こえない。どうってことない、いつも通りの静かな山ではないか。
「な、良かっただろ?」
夜空の満月はどこへやら。洞穴の入口から差し込んだ光が、ミドドの大きな顔を微かに照らす。垂れさがった瞼、太くて茶色の髪、薄い眉毛、どこをどう見てもいつも通りのミドドだった。
あれだけ鮮明に見えた宴が全てが幻だった事実をどうにも受け入れられず、キイタは茫然とした。
「お前にも聞こえてたのか?」
「音楽も踊りも、毎回違うんだぜ。酒を飲んだ後にはぴったりだろ?」
ミドドは得意げだ。こんな楽しいもの、鬼だったら気に入らないはずがないのである。
***
生まれてこの方、山を降りるなど考えたこともなかったキイタだが、仕事の合間にこっそり抜き取った貨幣の数々を見て、自分であればミドド以上に豆を手に入れることができると気がついた。山を降り、人間の店で豆を買うのだ。
貨幣の使い方も店の場所も、既にキイゾウから習っていた。呪術は得意でないものの、1時間であれば人間に化けることもできる。中に虎柄のパンツを履いているとはいえ、上から服を着てしまえばその姿は人間そのもの。日本人と違うのは目の色だけだ。
自分ならやれるはずだ。あの夢のような心地良さを得たいという思いだけで、キイタは仕事を抜け出し、山の麓へ駆けていった。
駆ける、駆ける、駆ける。
決して黒鬼に見つかってはならない。笹を踏みつけながらキイタは走る。人間には目視できないスピードで、真っすぐに麓へ向かう。ムクドリの群れが空に飛び立っていった。
辿り着いた店は地方チェーンのスーパーで、平日の昼間はまだ人が少なかった。キイタは生まれて初めて人間を目にした。昔の鬼たちは人間を食べていたとも聞くが、ちっとも良い匂いはしない。これならカエルでも食べたほうがマシだと思った。
しかし、それでも自分の正体がバレてしまってはどんな目に合うかわからない。緊張で呪術が解けてしまいそうになる。キイタは、息を止めながらパーカーのフードで角を隠した。
周りの人間をよく観察しながら、不自然のないように動く。歩みが遅く、歩幅が小さい生き物だ。キイタからすれば亀の歩みで、気を遣ってゆっくりと端から店を回る。
お目当ての大豆は乾物の棚に。1袋120gの煎り大豆がたった200円で売られており、キイタは目を疑った。山では恐ろしいものとして教えられてきた豆は、肉や野菜と同等に、いや、むしろそれ以下の扱いで平然と陳列されている。それに、これだけ素晴らしい物を人間はなかなか手に取らない。弱々しいと馬鹿にしていた人間たちだが、相当な精神力を持っているようだ。
「660円です」
キイタから千円札を受け取った店員は、マニュアル通りに接客をして釣銭を返す。黙って目を泳がしている青年を、誰も気に留めていなかった。
いとも簡単に手に入った劇物をカバンに入れ、キイタは周りを見渡す。店の出口までが永遠のものに感じられ、一歩進むごとに身体が強張った。固く、重くなった足を無理矢理動かして14歩。店の外に出て息を吐いたとき、キイタは自分が息を止めていたことに初めて気がついた。
山に鬼が住めるほど人が少ない地域である。店から離れて数キロの所で、キイタはまた山の中腹に向かって駆けていった。黒鬼の監視を掻い潜り、服を脱いで鬼の姿に戻る。キイタは、自分の腕を嗅いだ。少しだけ、変な匂いがする。山には無い匂いだ。
***
「ねぇ、キミ。豆の匂いがするねぇ」
キイタが豆を食べるようになってから2ヵ月程経ったあるとき、仕事中に偶然すれ違った赤鬼に背後から声をかけられた。
「え……いや、なんのことでしょう」
目を逸らして先へ行こうとするが、赤鬼はキイタの腕を掴んで離さない。
「わかんだよ。俺もハマってるから」
鼻から深く息を吸うと、赤鬼からは微かに大豆の匂いがした。
「本当に、少しだけ」
誰かに聞かれていたら不味い。小声で早口になって、キイタは返した。
「誰から買ってんだ?」
「誰からって?」
思い浮かんだのは、店でレジ打ちする人間の顔だったが、毎回その人物は違う。女のときもあれば、男のときもある。年齢もバラバラ。ヤマダであったり、タカオであったり、イヌイであったり、誰から買っているのかキイタにははっきりと言えなかった。
「売鬼から買ってるんじゃねぇの?」
「俺は山を降りて買いに行っているので」
朗報を耳にした赤鬼は、ぴくりと眉を上げた。人間の生活に詳しい鬼は貴重だ。直接買い付けができる鬼が多いほど、大豆愛好家にとって都合が良い。
「兄ちゃんも売鬼、やってみるか」
キイタは人間から豆を仕入れ、山で売りさばいている鬼が他にもいることを赤鬼から聞かされた。売鬼はチームを組んで助け合っているらしい。豆の取引は、紹介でしか入ることができないある洞窟の中でに行われており、毎晩そこに売鬼と客が集まっているというのだ。山の掟に背く者たちの秘密組織があるなど、キイタは考えたこともなかった。
「……豆ならありますから、連れてってくれませんか」
ラクして得する気ままな暮らしに心を揺さぶられた。今のように半日も歩き回って、落とし物を探す日々とはおさらば。これからは仕事をせずに、山と店の往復だけで生きていけるかもしれない。
「おう。もちろん口利きしてやるよ。5粒でどうだい」
この赤鬼、最初から仲介料が目的だったようだ。
午前3時、アカヤと名乗る赤鬼と再集合し、洞窟へ向かう。話に聞いていた通り、中では至る所で豆の取引がされていた。気分よく踊る者もいれば、声を出して歌っている者もいる。どいつもこいつも角が短いのは、明らかに豆の影響だ。
「まずは元締めに挨拶だ。あのお方の許可がなければ売鬼にはなれねぇ」
最奥に控える鬼はローブを被り、眼鏡をかけている。しかし、鋭く光る黄色の瞳を見てキイタは「元締め」が誰なのかすぐにわかった。
「じいちゃん……!」
***
文:よしザわ るな
編集:栗田真希