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【め #9】自分への周囲の苦労や我慢がわかる辛さ

濱野 昌幸さん(前編)


 濱野さんは、先天性の白内障でおられる。生後早期に眼の水晶体が白く濁る病気で、視力は左右とも0.01と重度の弱視だ。「目の前に人が何人いるかは何となくわかるけれど、シルエットで人を覚えるため、良く間違える」。

 また、『眼振(眼球がけいれんしたように動いたり揺れたりすること)』や『斜視(右眼と左眼の視線が違う場所に向かっている状態)』といった症状もあるため、「(自分が)ものをじっと見ている姿を誰かに見られるのが苦手」。

 「人の顔をじっと見ると睨みつけているように見えるらしくって。でも自分の顔が見えないから確認して修正することもできないんだけどね。」と苦笑いした声で教えてくれた。


 生まれた頃からの弱視だったため、幼稚園から盲学校に行き始めるが、子供心に「面白くなくて」、小学校2年生で地元の小学校に転校する。

 濱野さんが通った盲学校は当時、小学1年生から6年生までで生徒が10人いるかどうか、同級生も3人いるかどうか。視覚障害の程度の違いのみならず、他の障害も併せ持つ子もいた。さらに、家から遠かったために寄宿舎生活だ。「家に帰れず、友達もいないことが耐えられなかった」。たくさん友達を作って遊びたい盛りとしては、当然の感覚だろう。


 ただ、小学校への転校は簡単ではなく、良いことばかりでもなかった。

 ご両親がご苦労して教育委員会に何度も掛け合い、毎日お母様が送り迎えするなどの条件で、知的障害など別の障害のある子供と一緒の特殊学級に入れてもらった。「クラスメイトは目が見えるから世話をしてくれたし、逆に少し頭を使わないといけないことは自分が助けることができた」と振り返られ、「お互いできないことを助け合う」という言葉が印象に残る。

 その後、転校後1年も経たないうちに、自分で通学し、普通学級に入る。なんと、「点字の教科書は使っていない」そうで、かつ黒板の一番前に座らせてもらっても「黒板も見えない」。もちろん先生は気を遣ってくれたが、どうしても「先生の話を聞く専門で、オーディオブックみたいなものだけ。やっぱり盲学校に比べると勉強はできなかったですね」と笑って話された。

 クラス対抗の球技大会も「楽しくない」思い出になってしまう。「何ができるの?と思っても、一人だけ試合に出さないわけにはいかないんですよね」と苦笑いされた。キャッチャーをするように言われ、ピッチャーは何を投げるか言い、でも球を取れないからすべて審判の先生がキャッチした。そこだけ「パスボールというルールがなかった」。打順が回れば、濱野さんだけラケットを持つ。それでも当たるもんじゃない。先生が二人羽織のように後ろから一緒にもってくれる。それでもヒットになるもんじゃない。「当たってよかったね!」と言ってくれるが、「やはり痛々しかった」。

 どうしても、「(周囲の)苦労や我慢の上に成り立っていることがわかってしまう」。それに感謝はするが、「楽しいかと言われると、楽しくなかった」。教室での学習環境を背景に成績が悪化したこともあり、中学からは盲学校に戻った。

 濱野さんはおっしゃる。「(盲学校のように)少人数の中で自分だけ見てくれる環境だけではなく、(地元で通った小学校のように)大勢の中での自分を体験できたことが非常によかった。」

後編に続く)



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