【め #1】少年時代は本が大好きで、漫画も含めてたくさん読み…
吉泉 豊晴さん(前編)
社会福祉法人日本視覚障害者団体連合情報部で部長を務めておられる吉泉さんは、生まれつき目が弱く、右目は生まれつき見えなかったが、左目の視力は0.8程度あった。少年時代は本が大好きで、漫画も含めてたくさん読み、歩くことにも不便はなかった。
「網膜剥離」という言葉をご存じだろうか?眼球の内側にある網膜というカメラでいうとフィルムの働きをする膜が剥がれて、視力が低下する病気だ。何も知らない私は、激しいパンチを受けるボクサーがなってしまう病気程度に思っていたが、眼の状態によっては(ある種の弱さを抱えている場合)ちょっとした刺激でもなる可能性があるのだと知った。
吉泉さんが中学に入学して間もない6月末のこと。友達と遊び外を走り回っていただけで、目や頭をどこかにぶつけた記憶もなく、「がくんと目が見えなくなった」。
友達に家に連れて帰ってもらい、翌年の2月まで入院。目に刺激を与えてはいけないので「立って歩くことも許されず、ずっと寝たまんま」。術後は顔も動かしてはいけない手術を4回も受けた。
退院した後、中学2年生から盲学校に入学し、ご家族と離れて寄宿舎に入った。それまで盲学校を知らなかった吉泉さんは正直におっしゃった。「入る前は、きっとみんな暗いんだろうなぁって思ってたんですよ」。しかし、良い意味で見事に裏切られた。「音楽で盛り上がりすぎて、近所からうるさい!と怒られたり。仲間同士だから、楽しかったんですよ」。
勇気づけられもした。当時、寄宿舎には男子寮と女子寮には洗濯機が一つずつしかなく、小物は手洗いする必要があった。「自分より小さい小学校1、2年生の子が当たり前にハンカチや靴下などを自ら手洗いしていてね。自分も頑張らないとって思いました」。
その年齢にして視力を失い盲学校に入ったことについて聞いた際の答えの背景には、そういった経験もあったのだろう。「(自分よりも)離れて暮らす親の方が心理的に大変だったと思う。社会人になり仕事をもってから視力を失う人もいる。それに比べれば、子供時代は親に守られている。(社会に出る前の)場面場面で少しずつ受け入れることができた」。なかなか言える言葉ではないだろう。
目が見えないと「スピード感覚を得られるチャンスがない」のだそう。驚くべきことに、盲学校時代は「学校の友人とスケートに行き、慣れてくると一人で一般の人にも交じって滑ってました。指導員からも「技術ないのにそんなにスピード出しちゃダメだよ」なんて注意されながらね。」と笑顔で教えてくれた。高校の時は東京の後楽園ホールでローラスケートを滑り、大学の時は友人のオートバイの後ろに乗せてもらって「気持ちよかったなぁ」と振り返られた。
そんな積極性は他にも発揮された。上京した後も「田舎の秋田に一人で帰れるように」と、上野駅に行けるように訓練した。「代々木公園に新宿御苑に六義園、浜離宮や靖国神社、羽田空港も一人で行ったかな」。当時は、スマホはおろか、点字ブロックも今ほど多くなく、音響信号機もなかった時代。「親切な人がしばらく歩いてくれたり、公共交通機関で駅員さんに聞いたりしてね」。テクノロジー以前に社会が試されている気がした。
(後編に続く)
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