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ピンチをアドリブで乗り越える技 50/100(螺旋)

自問自答を繰り返しながら、
アドリブと演技の関係を
追求していってみようと思い立ちました。
100回(?!)連載にて、お送りします。


この連載も今日で50回目を迎えました。いつも「いいね」を押して下さってたり、Twitterでのリツイートなどして下さり、本当にありがとうございます。

ここのところ続けてお話ししている「己」に関する投稿も、今日で終わりにして、明日からは演技の要である意志、つまり

「演技に感情を込めない」

という話をしていきたいと思います。

前回、螺旋の形式を取ることによって、学びを深めることによって、
自分の軸≒「己」
というものを、自己認識するとお話ししました。

螺旋の中心に「己」があるという感覚は、昨日、本当に書きながら気がついたことなので、この連載を続けてきた甲斐があったと思うと同時に、演劇学校卒業からもう14年も経つのに、いまだに新しい発見や解釈に出会うということに驚いています。

演劇学校で得るのは知識と経験、そして、それに裏打ちされた、適度な自信です。

でも、その点と点がつながったり、それらの掛け合わせによって新たな発見をする、ということは卒業後、実戦を重ねていく上で、幾つになっても起きることです。

難関オーディションを突破して、入学直後は、私たちは未だにその事実を信じられずにいました。

「申し訳ないが、合否にミスがあった、合格は取り消しだ」

と、いつ言われるかと、みな一様にビクビクしてたのを覚えています。

特に、英語圏の同級生の中たった一人、いや、学校の歴史の中で初の日本人だった私は、なかなかこの現実を信じることが出来ませんでした。

そんな中、1番最初の授業で私たちが言われたのは、

「入学おめでとう。まだ信じられないかもしれないが、自分たちこうしてここに居る資格がある、ということを受け入れることから始めなさい。」

と言われました。

いつまでも自分を疑っていては、前に進めません。

今ここに自分は居るということを、自己認識するのが、最初の一歩です。

その上で、あらゆる癖を強制的に取り除く努力を重ね、限りなく「真っ白なキャンバス」に近い状態まで持っていくのが、最初の1年間。

2年生からは、その空っぽな状態に、ありとあらゆるツールを装備していきます。詰め込めるだけ詰め込むのです。2年目は非常にハードです。

螺旋の中で、1番遠くに居た状態から、元の自分へと戻っていきます。

なかなか捨てきれなかった自分の癖は、もしかしたら個性なのかもしれません。

「真っ白なキャンバス」という、ある意味で非人間的な状態から、人間らしさを取り戻していきます。

そして、3年生になる直前の夏休みに、私たちはイタリアのとある小さな村へ行きます。

そこでは、世界各国の演劇学校の生徒が一緒になり、数週間同じ授業を受けます。

いままで、学校内でただがむしゃらに螺旋の学びをしていた私たちは、外の世界へと放り出されるのです。

それによって螺旋は一周し、以前よりも高みに居る自分に気が付かされる、という仕組みになっています。

そして自分の手元に目を落としてみれば、そこにはこれからの実戦を生き抜くための、ありとあらゆる道具が実装されていることに気付かされます。

日本の伝統芸能では、これと似たような学びの過程を「守破離」と表現しています。

少し違うかな?とも思うのですが、非常に似てはいると思います。

しかしこれは、演劇学校と言う閉鎖的な空間に集中して在籍していたことによって、成し遂げられた方法であり、日々の生活を送っている読者の方々にとってみては、また違った学びを模索しなければいけませんね。

「真っ白なキャンバス」を日常生活を送る中で、見つけていくのは、非常に難しいですよね。だって、ほぼ人間味がない状況ですから…

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