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【短編小説】薄暮の夢

 嫌な夢を見た。
 そこでは、私はまだ詰襟の学生であった。夕暮れ時。校舎に残る者は少なかった。私はふらりと彼のいる教室に出向き、窓際の席に座っていた彼に向かって手招きをする。彼は立ち上がり、私のもとまでふらふらと歩いてくる。私は彼の手を取り、廊下を進んだ。彼は困ったような、悲しいような顔をして、私について来た。そして立ち止まり、大きな窓から遠くの海を眺めた。彼が私に何か言い、私はそれにつまらない冗談を返す。そうしていつまでも過ごしていた。
 そういう夢だった。
 幸せで残酷で、嫌な夢だった。
 気分が落ち込んだ日は決まって彼の夢を見る。
 彼は当たり前のようにそこにいて、私もそれを不思議であるとは思わない。夢から醒めた時には彼のいない現実だけが目の前に広がっている。

 彼が死んだのは、中学二年の六月。放課後、校舎の屋上から飛び降りたらしい。私と彼は美術部で知り合った。大抵の部員がただ籍を置くだけで活動には参加していなかったが、私と彼だけは放課後、毎日美術室で顔を合わせていた。彼とはそれなりに話もしたし、それなりに仲が良かった。そう思っていた。
 私が彼の死を知ったのは、彼が飛び降りた翌日の全校集会でのことだった。校長が「悲しいお知らせがあります」と前置きをしてから、彼が飛び降りたこと、搬送先の病院で息を引き取ったことを重々しく伝えていた。生徒たちがどよめく体育館の景色が、嫌に薄暗く見えたことを今でも鮮明に覚えている。頭がぼうっとして、立っているのがやっとだった。自分だけが置き去りにされたような感覚に襲われた。彼が死んだことをどうしても受け止められなかった。彼はまだ生きていてきっとどこかでまた会える。そうとしか思えなかった。そう思うしかなかった。
 その日の放課後、私は美術室に足を運んだ。人気のない廊下を歩き、扉に手をかける。開ければ彼がいつも通り「遅かったね」と迎えてくれるような気がしていた。それだけですべて悪い夢だったのだと安心できるはずだった。しかし、そこにあったのは夕焼け色に染まった美術室だけだった。スケッチブックの上で気ままに鉛筆を滑らせる彼はいなかった。他愛もない冗談で無邪気に笑う彼はいなかった。彼はもう、死んでしまったのだ。
 それでも私は茜色の美術室で彼を待った。彼を待つ時間が一秒一秒重なる度に、彼とはもう会えない。彼はもうどこにもいないという実感が大きくなっていった。結局、下校のチャイムに促されるまま、胸にできた大きな空白を抱えながら私は帰途についた。

 彼のいない日常にも慣れた頃、私は夢を見た。放課後の学校の夢だった。美術室に向かい、少し建付けの悪い扉をがらがらと開けると、彼がいた。 
 「あ、遅かったね。待ってたよ」
 そういって私を出迎える。
 ああ、そうか。彼はずっとここにいたのだ。どこにも行っていない。ここに確かに存在している。全部悪い夢だったんだ。
 私が酷く安心して泣きそうな顔になっているのを見て、彼は立ち上がり、心配そうに声をかける。「大丈夫。大丈夫だから」と私は繰り返すが、涙があふれて止まらない。しかし、自分がなぜ泣いているのかわからなかった。放課後に美術室に行けば彼がいて、一緒に話したり、絵を描いたり、下校したり。そんな当たり前の、なんてことない日常なのに、どうしてこんなに切ないのだろう。彼は私が落ち着くまで、ずっとそばにいてくれた。
 目を覚ますと、涙が頬を伝っていた。そこでようやく夢だったのだと悟った。彼はもう、どこにもいなかった。
 彼がなぜ飛び降りたのかを、私は詳しく知らない。彼が飛び降りてからしばらくの間、ひどいいじめを受けていたとか、家庭環境が原因だとか、そんな噂が校内を飛び交っていた。しかし、私に本当のことはわからない。少なくとも美術室で過ごしたあの時間の中で、彼はそんなことおくびにも出さなかった。
 彼が死んでから、もう八年が経った。それでも私は今でも彼の夢を見る。放課後の校舎、琥珀色の夕陽。彼の声、彼の仕草、彼の笑顔。あの美しい幻想を何度も何度も繰り返している。私は夢の中で、彼の亡霊と何度も逢瀬を重ねた。いっそもう目覚めなければいいのにと何度も思った。それでも朝が来れば彼は私のもとを去っていく。彼のいない現実の中、私のまぶたの裏に彼の姿が焼き付いて離れない。


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