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【短編小説】山椒魚

 山椒魚は悲しんだ。彼は彼の棲家から外に出てみようとしたのであるが、頭が出口につかえて外に出ることができなかったのである。

 無理矢理出ていこうと試みれば、彼の頭は出口を塞ぐコルクの栓となるにすぎなかった。それはまる八か月の間に彼の身体が発育した証拠にこそなったが、彼を悲しませるには十分であった。

 「あぁ、なんということだ!」

 とは、言わない。彼は喋らない。彼は目を閉じたまま、じっとしていた。じっとしたまま、悲しんでいた。

 ある時、彼は彼の棲家の中を泳ぎまわってみようとした。けれど、あまりに狭すぎた。脚を縮めておかなければ、壁にぶつかってしまう。彼は満足に全身を伸ばすこともできなかった。幾度か壁を蹴ってはみたが、ぬるりとした感触が足から伝わってくるのみだった。

 ある時、彼は自分の身体から一本の糸が伸びていることに気が付いた。はじめ、彼はそれを水草か何かだと考えていた。しかしそれは水草にしては太く、それでいて、なかなか切れそうになかった。糸は壁まで伸びており、まるで彼をこの暗闇に繋ぎ止めているかのようだった。自分と棲家を繋ぐこの糸がある限り、自分はどこにも行けないのだと彼はそう信じていた。

 山椒魚は、悲しんだ。

 ある時、彼はふと考えた。

 私はどこから生まれ、どこに行くのだろう。

 彼は自分がどこから生じたのか見当もつかなかった。気がついた時にはこの暗闇の中にいた。温かい水の中で身体を縮め、ただただ考え込んでいた。同じように、彼は自分がどこに消えてゆくのかも分からなかった。

 しかし考えてみれば、行き先は既に決まっている。この暗闇だ。このまま動かなければ彼はこの暗闇の中から逃れることはできまい。そうしてそのまま、一生を終える。闇以外のものを知らないまま、誰にも知られないまま、一生を終える。

 彼は、棲家の外に出なくてはならないと決心した。いつまでも考え込んで、行動を起こさない者ほど、愚かな者はいない。
 彼は全身の力を込めて出口に向かって突進した。けれど彼の頭は出口の穴につかえて、動かなくなった。抜け出すには、再び全身の力を込めて後ろに身を退かなければならなかった。
 彼は再び脱出を試みた。しかしそれは徒労に終わった。彼の頭は、出口につかえたままである。
 彼は必死でもがいた。しかしもがけばもがくほど、彼の身体は前へと進み、徐々に動きが封じられていった。出口と思われたその穴は、彼の棲家以上に暗く、そして非常に狭かったのだ。

 惨状を打破しようと行動を起こした結果、さらなる悲劇を呼んでしまうのはよくある事である。彼を嘲笑う権利は誰にもない。
 どんな者であっても、狭い部屋に長い間閉じ込められれば、そこから出ようという気を起こす。解放を切望する。彼にとっても同じことだ。飽きるほど暗闇の中を一人で揺蕩っていた。彼が外の世界を目指すのは至極当然の道理である。

 「あぁ神よ、何故あなたは私にこのような仕打ちをなさるのです!」

 彼の言葉は、誰にも届かなかった。

 彼は全身の力をもって暗闇をかき分け外を目指した。しかし壁と壁の間は極端に狭く、強いて通ろうと試みた彼の自由をいとも簡単に奪っていった。棲家の壁は彼の頭を締め付け、彼に鈍い痛みを与えた。彼は痛みに悶えながら、必死にもがいた。

 彼は何度ももがいた。そうして少しずつ後退しているうちに、彼と壁を繋いでいた糸が彼の首に巻き付いた。水中で絡みついた水草のように、糸は彼から離れることはなかった。何度も狭い壁を押し広げようと試みては、通れないと悟り、また試みては、突き返される。そうして何度も何度も脱出を拒まれた彼は、いよいよ精魂尽き果てた。彼には指先一つ動かす気力も残っていなかった。狭い暗闇の中、彼は目を閉じたまま、誰にも届かぬほどの小さな声で呟いた。

 「もうやめだ。私はここで死ぬのだ」

 言葉にしたとき、彼の目から一筋の涙が流れた。

 

 どれほどの時間が経っただろうか。その瞬間は唐突に訪れた。彼の棲家の壁が切り裂かれ、光が入り込んだのだ。しかし、それが光であることを、彼はまだ知らなかった。彼はまぶたをくすぐられるような奇妙な感覚に戸惑った。彼は目を開けることができないのだ。やがて彼は、大きな手に抱えられ、棲家の外へと引きずり出された。無遠慮な来訪者に棲家を破壊され、あまつさえ無理矢理外へと連れ出された彼だったが、全く突然の出来事に狼狽し、どのように動けばよいか、見当もつかなかった。

 外は、酷く寒かった。それでいて、胸が詰まったように苦しかった。
 神の慈悲にしてはあまりに強引で、しかしながら、彼が暗闇の中で切望した光が、自由が、そこにはあった。
 

 彼は口を大きく開いた。途端に、肺に空気が満ちる。長い間水の中を漂っていた彼にとって、それははじめての感覚だった。彼はそのまま、吸い込んだ息を吐きだすように、声を上げて泣いた。大声で、私は生きているのだと主張するように、強く、ただ強く泣いた。

 大きな手は、泣きわめく彼に手を伸ばし、何か無機質は銀色の器具で彼の身体から伸びている糸を断ち切った。

 彼は、自由を手に入れた。

 


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