短編集 2
深夜
街中が海の底に沈んだような湿っぽい夜だった。黒々としたコンクリートの上で信号機が律儀に明滅している。私は上弦の月に睨まれながら横断歩道の白を踏んだ。だれもいない。静寂。これこそが深夜である。身を細めた無慈悲な夜の女王が君臨する夜空は吸い込まれそうなほど広かった。地球に引き止められることがなければ、どこまでも浮かんでいってしまいそうだった。
早朝
肺を引っ掻き回すような咳が昨晩から続いている。万年床に潜り身をよじりながら激しく咳き込み、目を開ける。カーテンからは薄明かりが差し込んでいた。
窓の向こうから電車の走行音が聞こえてきた。線路から少し離れたこの部屋にも、その音はきちんと届くようだった。顔を上げて時刻を確認する。朝五時ちょうど。もうそんな時間かと、まぶたを強く擦る。電車は警笛を一つ鳴らして消えていった。
物語
私が書く物語の舞台は、いつも決まって夜である。
夜はどこまでも闇が続く。夜は獣が動きはじめる。夜は恐ろしいものなのだ。だから人間は夜の間、自分だけの世界を創って、そこに逃げ込み朝を待つ。これが、夢のはじまり。しかし、ある男は眠ることができなかった。眠らなければ、夢を見ることができない。眠らなければ、夜の闇から逃れられない。考えた男は、夢を見る代わりに一晩中、空想をしていた。これが、物語のはじまり。
夜に眠れない人間は、物語を作って過ごしていた。私もそれに倣おう。夜の闇が孤独を浮かび上がらせるなら、私は物語の中に沈もう。そうして朝を待とう。
整理
部屋の掃除をした。読まなくなった本を捨てた。着なくなった服を捨てた。久しく会っていない友人の連絡先を消した。画像フォルダの写真を全て消した。SNSのアカウントを消した。
振り返ってみれば、僕は自分が生きた痕跡を消そうと必死になっていた。もしかしたら、僕は死にたかったのかもしれない。
詭弁
永遠なんてない。きっといつか終わりが来る。終わりが来るのだから、せめてその時まではあなたの近くに居たい。私がそう伝えると、彼は優しく微笑んだ。
「永遠なんてないということは、つまり永遠の別れもないということだよ。例えどこかではぐれても、僕達はいつかまた会える」
詭弁だなと思った。けれど、そんな詭弁が嬉しかった。
懺悔
嫌な夢を見た。
そこでは、私はまだ詰襟の学生であった。夕暮れ時。校舎に残る者は少なかった。私はふらりと彼のいる教室に出向き、窓際の席に座っていた彼に向かって手招きをする。彼は立ち上がり、私のもとまでふらふらと歩いてくる。私は彼の手を取り、廊下を進んだ。彼は困ったような、悲しいような顔をして、私について来た。そして立ち止まり、大きな窓から遠くの海を眺めた。彼が私に何か言い、私はそれにつまらない冗談を返す。そうしていつまでも過ごしていた。
そういう夢だった。
幸せで残酷で、嫌な夢だった。
気分が落ち込んだ日は決まって彼の夢を見る。
彼は当たり前のようにそこにいて、私もそれを不思議であるとは思わない。夢から醒めた時には彼のいない現実だけが目の前に広がっている。彼の姿だけが焼き付いて離れない。私は夢の中で彼の亡霊と逢瀬を重ねている。
死神
「いつ死ぬの?」
突然現れたそいつはやけに甲高い声で聞いてきた。小さな黒い影のようなやつだった。だけどそいつは確かに
「いつ死ぬの?」
と私に聞いてきた。
私は「60年後くらいかなぁ」とぼんやり答えた。するとそいつは煙のように消えてしまった。
次にそいつが現れたのは、半年後の事だった。
「いつ死ぬの?」
と、以前と変わらぬ調子で聞いてきた。
私は答えられなかった。
そいつはいつの間にか消えていた。
そして今日、また出てきた。
「いつ死ぬの?」
「今すぐにでも」
梁からぶさがったロープの輪っかをぼんやりと眺めながら私が答えると、そいつは嬉しそうに笑った。
沼男
私が小学生だった頃。近所に青沼という沼があった。自然にできた沼ではなくて、昔、釣り堀だったところを埋め立てて作られたらしい。
大人達は皆、口を揃えてこう言っていた。
「青沼に近づいてはいけません。一度体が沈んだら、二度と抜け出せなくなります。ですから、決して青沼に近づいてはいけません」
何度も何度も言われたけれど、それでもやはり小学生。いけませんと言われたら行ってみたくなるものだ。
ある日、私は友だちと、二人でこっそり青沼に行ってみた。その子の名前はゆうきくん。私の一番の友だちだった。
その日は、空に分厚い雲が広がっていた。
有刺鉄線の隙間を通って、背の高い草をかき分けて、私たちは青沼に近づいた。水面いっぱいに水草が浮かんでいて、むわっとした生あたたかい空気が立ち込めていた。
ゆうきくんと相談して、かくれんぼをすることにした。じゃんけんをして、私が負けて、私が鬼になった。草むらの奥でしゃがみこんで「いーち、にーい」と数を数える。たったったっ、と、ゆうきくんが離れていく。しかし、しばらくして、「あっ」という声が聞こえてきた。どうしたんだろう、と思いながら数を数える。その後すぐに「たすけて!」と叫ぶ声が聞こえた。ゆうきくんの声だ。
私は立ち上がって、声のする方に駆けていった。ゆうきくんは、すぐに見つかった。彼の足が、沼に沈んでいた。既に太ももくらいまで沈んでいて、私の姿を見たゆうきくんは、「たすけて!」と手を伸ばした。でも、私はどうすればいいか分からなかった。大人たちは「沼に行ってはいけません」というばかりで、沈んだ友だちの助け方を教えてくれなかったから。
だから、私は逃げ出した。ゆうきくんが後ろの方で「たすけて、たすけて!」と叫んでいた。
私は有刺鉄線を通り抜けて、家まで走った。ゴロゴロと空が唸った。ぽつぽつと雨が降り出した。大人を呼べばよかったのに、怒られるのが怖くて誰にも言えなかった。私は布団に潜ったまま、近くに落ちる大きな雷の音を聞いていた。
その日の夜は大騒ぎだった。ゆうきくんが行方不明になったと、大人たちが慌てていた。ゆうきくんのお母さんは声を上げて泣いていた。それでも私は、怖くて何も言えなかった。
次の日のこと。私が朝早くに学校に行くと、ゆうきくんがいた。自分の席に座って、ぼうっとしていた。また、大騒ぎになった。いなくなった時のことは覚えていなかったらしい。私は怖くて声をかけることができなかった。
その日以来、ゆうきくんとは話をしていない。それぞれ別の中学校に行ったので、今何をしているのかすら分からない。
だけど、たまに思うのだ。あの日の朝、教室にいたゆうきくんは、果たして本物のゆうきくんなのだろうか。