メロンソーダ論考
さて諸君、メロンソーダである。私はこの飲み物が好きだ。毒々しい緑色。わざとらしい甘さ。しゅわしゅわ。どれをとってもたまらなく愛おしい。私はメロンソーダをメロンソーダたらしめる全ての要素を愛している。特にドリンクバーから勢いよく注がれた際に生じる泡が好きだ。メロンソーダ本体だけでなく、その泡さえも緑色なのだからたまらない。コップの際までのぼった泡から、しゅわしゅわと跳ねるメロンのしぶき。それがグラスを持つ手をちくちくと撫でる。そして、飲み干したグラスも口の周りも、ほかの飲料よりも三割増でベタつく。愛おしい。今日は、そんなメロンソーダの話をしよう。
以前私はメロンソーダを自作したことがある。と言っても至ってシンプルなもので、かき氷のメロンシロップを炭酸水で割っただけのものである。かつての私、もとい少年が、小学校5年生の夏のことだった。この試み自体は成功を収めた。世に流通するメロンソーダと全く同じ味のメロンソーダが見事に生成されたのだ。
しかし、実験が成功してしまったことによって、少年に衝撃が走った。「つまり、メロンソーダはかき氷のシロップから作られていたということなのでは?」と。私は、信じていたものに裏切られた感覚を、齢十一にして味わった。それまで私は、メロンソーダは神秘の工場で秘密裏に作られているものだと信じてやまなかった。明確に空想せずとも、きっとそうなのだと心のどこかで信じていた。しかし、それがご家庭で簡単に再現できてしまったのだ。メロンソーダの神秘は打ち砕かれ、残ったのはしゅわしゅわの甘ったるい緑色の水だけだった。
こうして私は一度メロンソーダの元を去った。これが第一次メロンソーダ期の終わりである。
第二次メロンソーダ期は意外と早くに訪れた。それは、私が高校に入学してしばらく経ったある日のことだ。その日は一時間目から化学の授業があった。指示薬によって水溶液が酸性なのか、塩基性かを確かめるというものだった気がするが、問題は授業の内容ではない。教科書の図をぼうっと眺めていた私の目は、ある一点に釘付けになったのだ。それは、BTB溶液なる怪しげな指示薬の図であった。
酸性ならば黄色に、塩基性ならば青色に、そして中性ならば、緑色に変化する。摩訶不思議なその指示薬が、妙に心を刺激する。原因はすぐに分かった。似ているのだ。中性の緑色が、あの愛しい清涼飲料水。メロンソーダに。BTB溶液は、メロンソーダを想起させるにふさわしいものであった。毒々しい緑色。ケミカルな香り。ぽん、とひとつの要素が生まれれば、ぽんぽん、と、メロンソーダを構成するあらゆる要素が次々と頭の中にあらわれる。私の頭はあっという間にメロンソーダで満たされた。あぁ、メロンソーダが飲みたい。かくして青年は再びメロンソーダの虜となったのだった。
ときに諸君は、「かき氷のシロップの味はぜんぶ同じ」などという、そんな荒唐無稽な都市伝説を耳にしたことはないだろうか。私はある。それを知ったのは、奇しくも第二次メロンソーダ期の真っ只中であった。当時私は驚いた。赤はいちご。緑はメロン。黄色はレモンと、個別に特殊なフレーバーで丁寧に味が付けられているのだと思っていたが、どうやら違うらしい。調べてみたところ、かき氷のシロップは、着色料と香料で味の違いを生み出しているとのことだった。
「なるほど」と、一度は納得した。しかし、しかし待って欲しい。この件については、改めて考える必要がある。たしかに鼻を塞げば、かき氷の味の区別はつかなくなる。だからといってメロンソーダがいちごソーダに地位を奪われることはない。なぜなら香りも、食品においては重要な要素であるからだ。現に、香りを楽しむ食材だってある。松茸やトリュフなどのキノコ類や、あるいはワインもそうかもしれない。メロンソーダは、メロンソーダの香りがする。実際のメロンとは程遠い香りかもしれないが、それでもいい。私はメロンソーダの香りに恋をした。それが本物か偽物かなんてどうでもよい。一人の男をメロメロするほどの魅力が、メロンソーダにはあるのだ。
話は逸れるが、スナック菓子のサラダ味というものがあるだろう。諸君も一度は口にしたことがあるはずだ。私はアレからサラダの味を感じ取ったことが、今の今まで一度もない。強いて言うなら、アレはサラダ油味である。しかしながら、サラダ味はおいしい。それは、サラダっぽいかは別として、単純に味がいいからだ。「あぁ美味い。何味だろう。何?サラダ味?」となるわけだ。バーベキュー味なんて、もっとひどい。バーベキューというのは、一般的に言えば行為である。肉料理自体を指すこともあるが、日本でバーベキューといえば、河原やキャンプ場でパーリーピーポーや家族連れが行うあのイベントのことである。味とかそんなモンじゃない。それを、バーベキュー味と名付けてしまい、それでいてしっかり美味しいのだから、Calbeeはずるい。
さて、話をメロンソーダに戻そう。要するに、メロンソーダの味が香料と着色料で作られた偽物だとしても、いや、偽物だからこそ、私はメロンソーダが好きなのだ。人工的に作られた体に悪そうなあの色、味、香りが、メロンソーダの魅力と言って良いだろう。メロンソーダは偽物だからこそ、良いのだ。
本物と偽物、どちらの方が価値があるかという話をしよう。本物と答える人は多いだろう。どちらも同じと答える人も、数人はいることだろう。しかし、偽物の方が価値があると答える捻くれ者はいるだろうか。いないだろう。しかし、以前読んだ西尾維新の小説に、こんな言葉が出てきた。
「偽物の方が圧倒的に価値がある。そこに本物になろうという意志があるだけ、偽物の方が本物より本物だ」
西尾維新『偽物語』より
偽物は、本物になろうとする。本物を模倣し、本物に近付くために努める。本物であろうとする。故に、価値があるのだ。メロンソーダはメロンの偽物であるが、私はメロンソーダが無価値だとは思わない。むしろ、メロンソーダがメロンであろうとした事実含めて、たまらなく愛おしく思える。
メロンソーダは、人工的に作り出された魅力が詰まっている。メロンを模倣し、メロンであろうとしている。そんなメロンソーダは、メロンよりもメロンであり、そういう意味では、メロンを越えた存在なのである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?