これからの時代の「仕事ができる人」の条件は「なんとなく感じがいい」になると思うよ【Amazon Goレポートその2】
「アメリカに滞在する用事があったのでAmazon Goに毎日通ってみた話」の第二弾です。前回の記事はこちら。
前回は、”動作としての購買行動”について、および”社会との約束に基づく個人の行動はどんな影響を受けるのだろうか”について主に触れました。
いつもの私の口調でいうと
「クレジットカード出すのすら面倒くさくなるよ」と「商品を黙ってポケットに入れるのはなんだか良心がチクチクするけどそれも変わるのかな?」てことについて書きましたよっていう感じですかね。
で、今回は「Amazonはなんのためにあんなシステムを作ったのかな?」と、そこから派生して浮かんだ、これからの時代に求められる「仕事ができる人の条件」について考えたことなど書き残しておきたいと思います。
彼らの目的は”無人化”ではなくて
Amazon Goに関する記事を検索してみると、枕詞に「無人コンビニ」ってつくものが結構あります。
が、実際に行くと一目瞭然なのですがAmazon Goは全然”無人”コンビニではなくて、むしろ結構な数の店員さんがいます。(で、特に仕事がないのでただ店内に立ってるだけのように見えます)
もちろん記事によっては「従業員がいっぱいいますよー」っていう事実にきちんと触れているものもありますが、その狙いを「雇用を確保していることをアピールする」ためという風に捉えていらっしゃる場合が多くって、
で、まぁこうやって、わざわざnote書いてる時点でおわかりとは思うのですが、私の考えはそれとはちょっと違います。
結論から言うと、たぶんあのたくさんの店員さんたちは店内を「なんかいい感じにする」ためにいるんじゃないのかなぁというのが私の意見。
これだけだとちょっとバカっぽいので補足していきます。
Amazon Goの店員さんはとにかく”なんか感じがいい”
毎日通ってみると伝わってくるのですが、Amazon Goの店員さんたちってみんなものすごく感じがよくて気がきくんですよ。
目が合ったらニコニコしてくるとか、
ちょっとしたタイミングで気さくに会話を持ちかけてくるとか、
アプリをダウンロードしてなくてゲートでまごまごしちゃってる人(毎回そういう人を見ました)がいたら、その人が気まずくないように「全然OKだよ!一緒にインストールしてみよう」みたいに明るく話しかけてくるとか、
逆にこちらが急いでるときや考え事をしてるときにはその雰囲気を察して話しかけてこないとか。
これ、私の専門であるUX/CXコンサルタント領域でいうと「顧客接点における心地よい体験の設計」的な話になってくるのですが、そんな小難しい言葉を持ち出すまでもなく、
買い物(や食事)の場で”気まずくないように過ごせる”って、ものすごく重要なことじゃないですか。(とくに私のように自意識過剰なものにとってはほとんどそれがすべてと言ってもいいぐらい)
もちろんこんなこと接客商売を営んでいらっしゃる方にとっては当たり前のことかもしれないのですが、その当たり前のことがなかなかできないことでもあり、
だからこそそれがきちんとできてるお店は「気分よく買い物できる→また行きたくなる→結果、繁盛する」ってことになるわけで、
ここで話はぐるっと戻ってつながって、つまり、Amazon Goは繁盛する店にするために→気分よく買い物できる”なんかいい感じ”を出すことを目的として→その能力を備えた人員を配置している、という私の推論に行き当たるわけです。ふぅ、やれやれ。
で、ここで当然浮かんでくるのが「なるほど、でもそれなら別にコミュニケーション力の高い店員さんを雇えばいいだけの話であって、どうしてわざわざあんな手の込んだシステムを開発する必要があるわけよ?」っていう疑問。
これに対しては(まぁいろんな答え方があるとは思うのですが)
今回は”利益を最大化するための数式に基づく思考”を入り口に考えてみたいと思います。
儲けの最大化を可視化する数式
Amazonのような形態のビジネスだと”儲け”は(ものすごくいろんな要素を単純化してて恐縮ですが)
Amazonの儲け=(x:買物してくれるお客さんの数)
×(y:一回の買物で生じる利幅)×(z:お客さんが買物してくれる回数)
と表すことができます。で、それぞれの変数を見ていくと
x:お客さんの数は上限があってこれはもう当然「世界の人口」ですね。これを最大値に近づける取り組みはまぁ利用できるサービスエリアの拡大。
y:利幅を大きくするための打ち手は「仕入先との交渉」ですよね。
で、今回の話でいうと次にくる
z:買物してくれる回数、がカギになりまして、
要するにリピーターのリピート頻度を最大限まで高めれば=人生の限られた時間の中で可能な限り多くの回数買物をしてくれれば、出力値=Amazonの儲けもそれに比例して大きくなる、と。
(買物回数と単価と投資できる原資の相反とかはややこしいのでまた別の話ということで)
でもって、上記の数式を眺めながら考えるとわかりやすいと思うんですが、”レジに並んでる・会計してもらってる時間”って、
アウトプットの最大化(=Amazon側の儲けの視点)で見るともう単純に無駄なんですよ不純物。少なければ少ないほうがいい。
そもそも買物する人の人生の時間は無尽蔵ではないので「何か買う」って決めてくれたらもうそのセッションはできる限り早く終了して次の買物セッションに入ってもらうのが望ましいわけです。
もう毎秒買物してる、みたいに。
いや、毎秒ずーっと買い物してるとかそんな極端なこと不可能だろって思われる方もいらっしゃるかもしれませんが、”基本的に数式で表せることは現実化も可能である”というのが物理学のスタンス。ちなみにAmazon創業者ジェフ・ベゾスは最初プリンストン大学で理論物理学を学んでいた方ですね。
ということで、まぁ当然の結論ではありますが、Amazon Goのシステムは、やっぱり「利益を最大化するため」に開発されたものであるわけです。ただ現在の常識を超えて最大化することが目的なので、システムもやっぱりこれまでの常識を超えた仕組み=レジ的なものが全く存在しないカタチになったということなのだろうと思います。
というような前提を経た上で、話はようやく「これからの時代の仕事ができるってどういうこと?」に入って行くわけですがいつものように長くてほんとにごめんなさいね。でもまぁおじさん自分の楽しみのために書いているので改める気もないんだけどさ。
これまでの時代の「仕事ができる」
たいていの職場において「仕事ができる」っていうのは、”定められた段取りを効率よく消化できる”とか”情報処理能力が高い”とか”算盤勘定に強い”といったことを指しているかと思います。
加えてもうひとつ言うと、そういうスキルが高ければ多少”感じが悪く”ても優秀な人として評価してもらえる仕組みになっているような気がします。(おそらくそのほうが「システムの一部として計算が立つ」ということが理由なのだと思いますがこれに関しても詳しくはまた別の機会に。)
その一方で、ビジネス上のいろいろな局面における効率化がかなり追求されてきたことによって、「あの人がいるとなんか場が和むよね」とか「あの人が話すと会議の雰囲気がよくなるね」といった”なんだかわかんないけどいたほうがいい感じの人”の居場所が急激に減っているような感じがします。
「ああ、あの人ねー。愛嬌はあるけど役に立たないんだよねー」みたいな流れが強まっている。
ところがここにAmazon Goの仕組みを当てはめてみるとき、上記に挙げたような「これまでの時代の仕事ができる」を支える要素(ex.事務処理能力や段取り力)は今後、システムの力によってほぼ完全に自動化が可能であり、
むしろ今まで軽視されてきた「愛嬌がある」とか「他人に対してやさしい態度を自然にふりまける」といった要素が”まだ機械にはできない=人間でなければ担えない要素”として浮かび上がって来ます。
日本式「デジタルディスラプション」の行き詰まり
その筋に身を置く者の体感ですが、
ビジネスの世界においては(小売業や製造業が代表的な例ですかね)利益の向上に対して、よりダイレクトに影響を与える手立てとしては、
効率化と機械化(←このふたつ、似てはいますが別のことです重なる部分は多いですけど)によって可能な打ち手はもうあらかたやり尽くされているんじゃないかという気がしています。
そして、この行き詰まった状況に立ち至ってもまだ「いままでのベクトルのままチカラ押しに押せば立ちふさがった岩盤が崩れるかもしれないからとにかく勢いで押していこう」というのが昨今日本国内で”デジタル化”とか”デジタルディスラプション”といわれているものの正体ではないだろうかと個人的には考えています。
ほとんどの人にとってAmazon Goが「高感度スキャナーとセンサーの高度な組み合わせソリューション」としか映らないのも、そういう旧来の文脈のほぼ同一直線上にある”チカラ押し”の視点から見ているからなんじゃないのかなぁ、と。
それに対してAmazonはすでにその先(なのか分岐した別の道にあるのか)の境地に至っていると思います。すなわち、
ゴール(=営業利益の最大化)の達成に向けて、従来の文脈上でできることはすべてやる(=作業のデジタル化)。その上で、さらに使えるもの(=”感じのよさ”という人間のスキル)まで取り入れていく、と。
話はすこし逸れますが「彼我のこの差を埋めることは可能なのか?」を考えるとちょっと絶望的な気持ちになります。そもそもああいう人たち(誰?)が「ここには差がある」ということにすら気が付いていない我らの現状を知れば知るほどに…。
ここで一応、念のため。
私はべつにAmazon礼賛日本企業は全然ダメ的なことが言いたいわけではありません。ただ、いま採用している戦略と戦術と、それを可能にする立ち位置と現状への理解が異なっていますよねーということを文章化しているだけです。日本企業の中にだってたくさんの例外があるはずですしね閑話休題。
愛は負けても、親切は勝つ。
まぁそもそものっけからタイトルに書いてしまっているのでここまで長々とお付き合いしていただいた方には若干、申し訳ないのですが、結論として
これからの時代の「仕事ができる」の基準は「人に対してやさしく、感じのいい振る舞いができるかどうか」になっていくんじゃないかと思います。
Amazon Goの話で追ってきたとおり、これまで「いい人だけど仕事ができない」とされてきた人の”仕事ができない”に関わっていた部分=算盤勘定や事務処理能力が、人間に求められる能力としては無視してよいものになるわけなので、より純粋に「いい人」の部分だけが活かされるようになるからです。
この章のタイトルに掲げた言葉は、カート・ヴォネガットの「ジェイルバード」という小説に出てくる一節(邦訳は浅倉久志先生)です。
この言葉を読むとき、多くの人が”勝ち負け”の相手として想定するのは「資本・効率・権威・暴力」的なものだと思います。
そして、現実世界においては、”愛”が、金や暴力に勝つなんてことはありえなくって、まぁ”親切”ぐらいだったら場合によっては可能性がないこともないかなぁでもやっぱり勝ち目は低いよなぁ、という感覚を抱かれるのではないかと思います。現実はそんなに甘くない。だからこそ「そうあってほしい」という願望のカタチにやわらかく嵌るこの言葉が印象に残る、という構造。
でも、ここに来て”親切のオッズ”が上がってきています。(個人的にはAmazon Goに毎日通っているうちに、とくに強く感じられるようになった気がします)
もしもいまあなたがこれからの時代に不安を覚えて「何か生き残れるようなスキルを身に付けたい」と考えていらっしゃるのでしたら、私のおすすめは断然「人に対してやさしく、気遣いができるようにする/なる」です。
「AIに奪われる仕事・残る仕事」なんてコムズカシイ記事を眺めて「なるほど人間の創造性が発揮される領域に関われる職業に役立つスキルかぁ」なんて理屈をこねくり回してるよりずっとシンプルで今日からすぐに実践できます。
人にやさしく。
愛想と愛嬌。
愛は負けても、親切は勝つ。
まぁこれを書いてる私自身が算盤勘定と事務処理能力で乗り切ってきた人間で、あんまり人に対して感じよく気遣いできるタイプではないので、「自戒を込めて」なんですけどね。
あと、自分のことはともかくとして私はそういう未来のほうが好きです。
ずいぶんと長くなりましたので今回もまたここらで切ります。
次回は、今回の一連の体験を通じて考えた「文体と文脈」「大きな物語の喪失」そして「埋めることのできないさみしさ」について書きたいなぁと思っています。