絶景×ラビラビ | 三内丸山遺跡
9月27日縄文トランスユニットとして広く知られるアーティスト、ラビラビさんを迎え、青森県青森市にある「三内丸山遺跡」で撮影を行いました。縄と矢じりという名称でカメラマンのパートナーと全国各地の縄文遺跡を旅し、ライターとしても広く活躍する草刈 朋子さんに、レポートを書いて頂きました。
縄文文化が世界に問いかけるもの
日本最古の土器の使用は、青森県津軽半島の大平山元遺跡から出土した小さな土器片によりおよそ1万6500年前と想定されている。この土器の使用から、稲作が始まる3000年前までを縄文時代と呼ぶ。
今、この縄文時代が世界から注目を集めている。魅力としては、やはり1万3000年間を通して作られた土製品の美だろう。アメリカ人の動物学者モース博士によって、「Cord-marked pottery」と名付けられた縄文土器は、今も日本各地で発掘され続けている。それらの土器の表面を飾る文様は、装飾文化の源流をみるような素朴な連続文から、自ら動き出しそうな躍動感あふれるものまで実にさまざまだ。
三内丸山遺跡から出土した大量の円筒土器が眠る収蔵庫。時遊館では収蔵庫をガラス越しに見学できる。
その作り手となる縄文人は、森や海を舞台に狩猟や採集、漁をなりわいにした人々である。メソポタミアなど世界のいくつかの地域では、定住とほぼ同時期に農業・牧畜が始まっているが、日本列島でそれらが本格的に始まるのは弥生時代以降のことである。縄文人は定住しながら狩りや採集活動を行い、空いた時間で自分たちの道具を美しく飾った人たちだった。
不思議なことに縄文時代の地層からは大量殺戮の跡が出てこない。これは、この時代の人々が、戦争をせずに生きのびる方法を知っていたということではないだろうか。同じく地球の資源を利用しながら生きる現代人にとっても、知るべきことの多い時代であることは確かだと思う。
2021年の世界文化遺産登録をめざして
そんな縄文文化を一気通貫して理解できるエリアが、2021年の世界文化遺産登録をめざす「北海道・北東北の縄文遺跡群」である。
これらの地域は、日本最古の土器片が出た大平山元遺跡に始まり、縄文時代を代表する三内丸山遺跡、ストーンサークル、貝塚などこの時代の暮らしの様子や精神世界を物語る要素がとても豊富に揃っている。
北海道最南端の松前町白神岬に立つと、思った以上に対岸の津軽半島がよく見える。
また、北東北と北海道南部では津軽海峡を挟んだ文化圏が築かれ、人やモノが普通に行き来していた。これらの地域では、筒型の細長い円筒土器が顕著に出土する。それは矢筒のようにも見えるし、貯蔵や輸送にも便利そうな形をしている。そして、その円筒土器文化の中心を担った拠点集落が、今回の舞台となった青森県にある三内丸山遺跡だ。
三内丸山遺跡にみる歌と祭りの力
三内丸山遺跡は、主食の栗を栽培し、交易もさかんな大集落遺跡として知られている。その特徴のひとつは、規模にあるだろう。5900年前から4200年前の約1700年間にわたって人々が暮らした痕跡は、竪穴建物跡が500軒分にのぼり、一時期に換算すると、多いときで30〜50軒が立ち並ぶ大きなムラであったことがわかっている。それゆえに、三内丸山は「縄文都市」などと呼ばれることもあるが、日本各地の縄文遺跡で出土する建物跡の多くが3〜5軒ほどだとすると、確かに「都市」と呼びたくなるほどの規模だと思う。
ランドマークともいえる三内丸山遺跡に復元された六本柱と大型掘立柱建物。六本柱の間から八甲田山の山並みを見える。
三内丸山遺跡からはおよそ4万箱分にも及ぶ土器をはじめとする生活道具が出土しているが、注目したいのは地面を削り出して敷設した長さ420mの道路跡だ。粘土を貼って路面を整えていたような箇所もあり、しっかりと土木工事が行われていたようだ。また、その沿道には複数の大人の墓が見つかっており、埋葬された祖先の見守る中を人々が行き来していたことがわかっている。
地中にぽっかり空いた巨大な穴は、実際の六本柱の跡。朽ちた柱の実物は時遊館のさんまるミュージアムで見ることができる。
そして、三内丸山遺跡を一躍有名にした六本柱の存在。直径約1mのクリ材の柱跡が発見され、柱跡にかかった重さから推定高さ15mとして復元された櫓(やぐら)状の六本柱は、縄文時代の印象を大きく覆す結果となった。
「機械のない時代にどうやって建てたのか?」と思えるくらい復元された六本柱はとても立派なものだ。しかし、驚くのはまだ早い。六本柱は過去に何回か建て替えられた形跡があり、八本だったときもあるというのだ。また、六本柱に隣接して大型竪穴建物が復元されているが、これも10回くらい建て替えられた痕跡がみられるという。これらを成し遂げる人的エネルギーを考えると、ここにはとても求心力のある社会があったのだと想像してしまう。
十字形で携帯しやすいサイズの板状土偶。ユーモラスな顔のものが多い。
以前、三内丸山遺跡の復元監修をした考古学・文化人類学者の小山修三さんにお話を伺ったことがある。そのとき、小山さんは三内丸山遺跡から板状になった小型の土偶が大量に出ていることに注目し、「ボーティブギフト」の可能性について話してくれた。ボーティブギフトとは、この場所に奉納するために持ち寄るもので、神社に絵馬を奉納する風習があるように、縄文時代の人々は板状土偶を手に三内丸山ムラを訪れ、願いとともにここに納めたのではないかというのだ。
もし三内丸山遺跡が縄文時代に巡礼者が訪れるような聖地だったとすれば、沿道に墓が並ぶのもなんとなく理解できる。
長野県諏訪地方で数え年の7年ごとに行われる祭り。曳航の際に「奥山の大木 里に下りて 神となる」とうたわれるように、山から切り出したもみの大木を引きまわし、諏訪大社本殿の四隅に立てるまでを祭りとして摂り行っている。この諏訪地方から新潟に至る地域には縄文時代中期の遺跡が多く出土している。
小山さんは、六本柱がどうやって建てられたのかということについても、こう話してくれた。「諏訪地方に伝わる御柱祭のように“祭り”にすれば可能ではないか」と。
諏訪の御柱祭は、山から木を切り出し、里まで引いて立てるところまでを2ヶ月くらいかけて行う。私は、数え年で7年に一度行われるこのお祭りに過去2回参加したことがあるが、独特の節回しのある木遣り唄に合わせて手綱をひいたとき、重さ約10トンもの柱がすーっと動いたことに感動したことがある。人は声によって心をひとつにし、力を合わせることができると、そのとき実感したものだった。歌や祭りは人間に思いもよらない力をもたらしてくれる。その力は、私たちが思うよりもずっとずっと大きいのだ。
ちなみに、今回三内丸山遺跡でライブを行なったRABIRABIは、ボーカルと打楽器によるダンスミュージックバンドで、その音楽性から「縄文トランスバンド」と呼ばれている。過去に三内丸山遺跡で開催された野外音楽フェスティバルのFeel the Rootsでも何度か出演しているため、三内丸山遺跡との相性はすこぶるよいはずだ。
「歌」になる前の「声」、「音楽」になる前の「音」を感じさせてくれるのもRABIRABIならではだ。太古の記憶が眠る三内丸山遺跡という環境を得て、この映像が音楽のルーツを辿るような音体験となることは間違いないだろう。
著:草刈 朋子 / 写真:廣川 慶明
草刈朋子(くさかりともこ)
縄文探求ユニット「縄と矢じり」の文章担当。北海道出身。コピーライター、雑誌・書籍編集を経てフリーの編集・ライターとして独立。2009年よりNPO法人jomonismに参加し、縄文関連イベントの企画・制作に携わる他、縄文をテーマに執筆。フォトグラファーの廣川慶明とともに「縄と矢じり」を結成し、全国の遺跡や考古館を旅しながら各地の縄文のカタチ、環境から読み解ける先史時代の価値観を探求中。
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