語る、聞く。
語る人がいて、聞く人がいて。
声を聞かれている実感は、他者とつながる感覚でもあることを、先月の取材であらためて感じた。
なんのために、語るのか、言葉にするのか、残すのか。それは言葉にならない言葉を、言葉になる前の言葉を、語ることで耳を傾け、感じ、自分や他者と分かち合うためなのかもしれない。
そこではじめて、声を聞かれる実感と、他者とつながる感覚を得るのではないか。端的に文面上の言葉にするためとは、まったく違うことである。
またそれは、共にいてくれる内なる他者を、母のような存在を、内側に宿すことでもある。そこでようやく人は孤立から解放されるのではないだろうか。
話を聞いてもらったり、対話をしたり、文章を読んでもらったり。今までそのように声を聞いてもらうことで、他者とつながるような感覚を得てきた。聞かれずにいる声があったときは、とても空虚で孤立をしているように感じる。声を聞かれずに人とつながる実感を得るのは、ほとんどないのだろう。
言葉にならなくても感じたことはそこにあったのだから。どのような声もできるだけ無下にしたくはない。”できるだけ”、とつけるのは聞くことは胆力のいることだから、わたしもまだまだ学びの途中である。
語ること、聞くことは、
詩を書くこと、読むことに近い。