オリンピック可否にみる”不条理の真相”(2)

先日、元スポーツ選手の論考に、ある強靭な精神力をすでにお持ちである
強者目線、つまり究極的な選択を迫るような意見をみつけた。
間違ったことをいっているとは思わないが、弱者の目線(不確定作用を認知、体感)の欠落が気になった。

(別媒体のなかで彼は、一流アスリートのするパフォーマンスは、自己中心的世界以外にも、いろいろな縁起(環境)により、ときとしてパフォーマンスの高みを体感する趣旨のことを述べていた。つまり、不確定作用により、ひとは影響し、影響される。不確定作用を認知、体感していることの証左である)

重症化する大多数は高齢者である。さらにいま高齢者間でのご近所トラブルが激増しているニュースを昨今耳にする。(自身の周辺近隣から、その被害を被った。)周囲の話から総合するに、お年寄りたちは「コロナかかったら死ぬ、ワクチンでも安心できない」そういう不安からきていることらしい)
彼(元アスリート)の発言は、こういう現実を踏まえての発言とは思えなかった。元一流アスリートであれば難しいことも想像できる(個人種目経験者からくる他人への想像力有無)が、自己中心的すぎず、弱者目線(不確定的作用)にも、寄り添い、いたわりにつなげられたらと願うばかりかと。難しいのは重々わかっているが、、、

つまり、話をもとに戻すと、いのちを優先したいひともいれば、生き方を優先したいひともいる。これは好み、美学、趣味の問題かと考える。
またいまこう思っていても、日々変わる。

開催については自分で決めれるのなら、自分の好みを優先させればいい。

オリンピックの話は別物なのだ。性質上、国やJOCが開催することから、政治的判断になってくるだろう。

となれば、おそらく、自己見解とは無関係に、国家戦略、経済、安全保障、政局?など、もろもろな関係軸のなかから最終的に政治的判断がなされるのではないだろうか? そのことへの賛否は別にして、、、

なにを当たり前のことをいっているのだろうか、自分は。。。



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