AOLV-Series-Serial002
何か一つの物事を考えて道を歩いていると、よく本来曲がるべきだった道角を通り過ぎてしまい、ともすればそれに気づかずさらに数十メートル行ってしまって、どのくらい戻ればあたしが予定していた道に復帰できるのかわからなくなる時がある。そんな時は、それが典型だと思い込んで、あたしは目的のあった歩行を目的の緩慢な散歩に切り替えることにしている。そういうことは主に、そのあと特に予定のない帰路に起こることが多いので、時間にあまりキリキリせずに考えるようにしているのだ。それは、癖に起因する日常の傾ぎ、とでも呼べばいいのだろうか。何となく悪くない、そんな感じがしていて、何度か帰り道をロストしてもあたしは帰り道の“思い隠し”をやめないでいる。これは、人が近しいものを顧みずに何処かに行ってしまうことを神隠しと呼ぶのにあやかって、思考が自分の行動を顧みずに何処かに行ってしまうことに私がつけた名前だ。自己愛なんて、指摘されたり自覚するくらいに持ち合わせている人に比べたら悲しくなるくらいからっきしだけど、それでも私は、努力の末に16年生きてきた自分を少しは可愛がっている。
そんな”思い隠し”、だけれど。
まあ、神隠しにあやかってしまえば、不思議なことを引き寄せることもあったのだろうと今では解釈している。世界には、自分を調律していく機能が備わっているのだ。それは氷河期とか、淘汰とか、種の絶滅とか、そういう文明の発生期に起こった超自然的なこともそうだし、当時の文明が受精卵のような状態だったのだとしたら、今や人類文明は子供くらいにはなっているのだろうし、それが、世界による調律に介入されたとしても、なんら不思議じゃない。
不思議じゃないけど、それは突然の出会いで摩訶不思議な事件で、前代未聞の体験だった。それが良かったのか悪かったのか、あたしはまだ知らない。
ことは、とある春の日の帰り道だ。
あたしはいつも通りに帰り道で思い隠しをしながら歩いていて、もうほとんどいつも通りに帰り道をロストする。この時には気づいていたんだけれど、ロストするタイミングは思い隠しのひどさによってバラバラで、ロストしたことに気づくのは、正確な帰り道に設定された視点から見える風景の中から、あたしがフレームアウトして大体すぐだった。なので戻ればすぐに復帰できるんだけれど、あたしは、無駄に面白がってそれをしない。帰る場所が全く同じでもその方が、普段のただの繰り返しよりは幾分かはマシだと思えたから。そんな、信念めいた思いで、思い隠し散歩に繰り出して数分。過去に何度か通ったことのある公園にやってきた。なかなかに広い、ゆえに遊具もわりと充実している子供の集まりやすい公園だ。その前の時は、子供が数人遊んでいた記憶があった。しかし、時間もあまり変わらないのにその日は誰もいなかった。のに、ブランコが揺れている。地球儀、とか言われる丸くて回るジャングルジムも回っている。
なぜだろう。
まるで。
まるで子供達が遊んでいた瞬間に神隠しが発動して全て消し去ってしまったように。そこには人の行動の残り香が明らかに見て取れるのに、だ。
誰も、ない。
何も、いない、はずだった。
「何か探しているの?記憶の捨て場所なら、いっしょにさがしてあげよーか?」
それが、あたしとありすの出会いだった。
了