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誕生日には、自分の遺影を撮りなさい

「自分は一人ぼっちなんだ」

と、時折無償に淋しくなる。

所詮みんな一人ぼっちだ。
真の意味で思考を共有することはできない。
自分だって自分が分からない時があるのだ、他人なんてなおさらだ。

大声で叫びたくても出来なくて、口から自分の中の何かを出してしまいたくなる時がある。それはもちろん一人の時、部屋で泣きながら歌ったり、なんてことない映画のシーンに感情を吐き出すように嗚咽する時。1時間程すると気分が落ち着いて、平気な顔で日常生活に戻る。

ホルモンがそんな感情にさせるのか、ただ単にセンチメンタルな性格なのか、よくわからない。
生きていることも今あることも、真実のように思えるが、もしかしたらそれすら全部夢かもしれない、と思ったりする。

胡蝶の夢か。

この淋しさを家族にも友人にも言えなくて、きっと誰でもそんなひと時があるだろうと気休めに考える。

私の中に〝今〟神様はいないから、この現実にあることが全て。それ以上でも以下でもない。だが、それを望んでいるわけではない。
だから苦しい。

完璧な世界観を説く人がいたなら、私は涙を流して喜び信じるだろう。ほんのわずかな綻びも見えない世界観を私に示してほしい。〝答え〟が欲しいのだ。
タナトフォビアな人は、完璧主義者でロジカルなリアリスト、だけどそれでは救われないロマンチックを希求する人だ。

タナトフォビアとは"死恐怖症"を表す。かの有名なフロイトが名付けた。
病名ではない。人によって程度は様々だ。

あなたは死ぬのが怖いですか?
私は怖いです。

誕生日

誕生日、自分がこの世界に生まれた日、そこから数えて何年目という節目の日、それ以上でも以下でもない。
だけど、皆お祝いする。

この世界に生まれたことの奇跡と、この1年無事に過ごせたことを喜ぶためにお祝いする。

タナトフォビアな人にとっては、誕生日は死のカウントダウンの音がする。

平均寿命が84歳だとして、残りは〇年になったと考える。もちろん、自分が何歳まで生きるのかなんて分からない。それでも確実に時は流れて過ぎ去っていくという事実を実感する日でもある。

だからといって、誕生日が嬉しくないわけじゃない。私の場合、歳を取ることに抵抗はない。タナトフォビアな人の中には死を恐れるあまり老化現象まで恐れる人もいる。

歳をとりたくない、老いたくないという感情はタナトフォビアにとっては至極当然のことだ。歴史上の偉人たちも「不老不死」を追い求めた人は多い。人間の最後の欲求は、やはり「時」なのではないかと思ったりする。誕生日は、その「時」を強く実感する日だ。

タナトフォビアのタイプ

タナトフォビアな人には3つのタイプがある。

  • タイプ1 死ぬまでの過程が怖い人

  • タイプ2 死後の世界(天国とか地獄とか)が怖い人

  • タイプ3 死後の永遠の無が怖い人

ちなみに、私はタイプ3だ。

特定の宗教を信仰せず、死後の世界を信じていない。唯物論的な考えがベースにあるため、「死んだらそれでおしまい」だと考えている。
そして、自分という自我を愛している。

だから死が怖いのだ。

自己愛の強い変人と思われたら嫌だな。でも、仕方がないか。

死後、この自我が無になってしまう、未来永劫永遠の無。
「死んだら何も感じないのだから怖くないじゃないか」と言われても、それを今この時に「存在する私」が怖がっているのだから仕方がない。有から無へ変わる事実が怖いのだ。究極の予期不安だ。そして、その恐怖の対象を回避する手立ては今のところなく、恐怖の対象が近づいてくるのをただ待つしかないから怖いのだ。

タナトフォビアな人はこんなにも死を恐怖する。日常の中で頻回に死について考える。
〝普通〟の人は死についてどのくらい考えるのか?
〝普通〟ってなんだ?
死について考えることは悪いことか?
会う人会う人に聞いてみたくなる時がある。

皆死について考えていなさすぎではないか?
そんなんだから、本当の自分を生きられないだとか、現状を変える勇気が出ないだとか言えるのだ。

今日死ぬ可能性もゼロではない。時は今も一刻一刻と流れている、そう考えたら行動せずにはいられないだろう。「転生したら○○でした」のような輪廻転生もののコンテンツが流行している背景には、そんな無常観が現実に溢れているからではあるまいか。

輪廻転生も死後の世界も信じきれないタナトフォビアには、生き急ぐことしか許されない。自分の死を見つめたら、嫌でも私の人生、これだけはやらなくちゃということが見つかるはずだ。来世に希望を託してはいけない。

だって、来世はないかもしれない。

誕生日には遺影を撮る

だから全員、誕生日には自分の遺影を撮るといい。

1年に一度は自分の死を見つめ、人生を見つめ、これからを見つめてほしい。
普段死について考えない人には考えることで行動する勇気を、タナトフォビアな人には皆に祝福される日にライトに死について考える暴露療法として、自分の遺影を撮ったらいい。

今の最高の自分を写真に収めるのだ。今の自分はこんな自分、これが私。

そんな満足いく遺影が撮れたら、これから生きていく私にも自信が湧くに違いない。胸張って人生を楽しめる気がしないか?
これからの夢を託してなりたい私を撮るのもいい。

終活をして、それを定期的に見直す絶好の日が誕生日だ。
終活というと高齢者になったらやるものという認識があるかもしれないが、私はアイデンティティの確立した大人なら皆すぐにやるべきもの、そして1年に1度見直しをしていくものだと思っている。
自分の持ち物を整理して、自分のこれまでを振り返って、そこから未来を見据えるのだ。その機会に誕生日はうってつけだ。

誕生日に撮った遺影はその時々の「これが私だ!!!」という全てを込めろ。
そこから生きるエネルギーも湧いてくる。


読んでくださりありがとうございます!
暗い文章を書いていますが、普段は社交的で明るい(?)人間です!
また読んでもらえたら嬉しいです!

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