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カウンターの隣席 #14
写真は関西のおそらく最も有名人、元アナウンサーのヤマヒロさん(左)のラジオ番組【ヤマヒロのぴかッとモーニング(MBSラジオ)】にゲスト出演させていただいた時のもの。
右隣が昨年ご逝去された天使の声の持ち主ヤマリョウこと山本量子さん。ウィルキンソンのTシャツきてるのが僕です。今でもたまに呼んでいただいてます。
最初に書くべきだった?自己紹介
あれ、もしかしたら自己紹介してましたっけ? ま、いいか。あらためて「カワムラケンジ」と申します。最近はカタカナ同姓同名が異様に増えているので漢字で「河村研二」と書くこともあります。
さて、自己紹介ですが、まず親友たち曰く、僕の人生は波乱万丈と紆余曲折の繰り返しだと言います。小学生の時の通知簿は6年間見事に「可愛くて人気者だけど、とにかく集中力がありません」と書かれる始末。やっぱ落ち着きないのか~。
自覚はまったくないですが、たまに自己紹介を150w以内で、なんてお題が飛んでくると、どう書いていいのかわからなくなるのは確かです。というわけで、ここで一気に列記してみたいと思います。
小学生低学年・・・苛めを受けており、学校へ行くのがとても嫌だった心身共に虚弱な子。色白。うち股。その辺のおばちゃんなんかによく女の子と間違えられた。
小学生高学年・・・人の似顔絵と教師の口癖をネタに、教科書1冊につき全6話のペラペラ漫画を編集。週刊おやじの仮面ライダー・付録付きを発行。グウヤ産業株式会社会員証発行。漢字のサインを完成させ、みんなのノートに書きまくる。6年生で水泳を始め、なぜか苛められなくなる。
中学時代・・・水泳部に入部。二年の秋、父親が急逝。あまりのショックで水泳をがんばる。おかげで胸囲100センチを超すほどマッチョに。そして、我が水泳部は大阪北部の大会では負け知らずなほど強くなった。この時の仲間とはいまだに付き合いが続いている。
高校時代・・・バイクと音楽にハマる。警察に捕まるうちレースに覚醒。お金を稼ぐために、駅前のバーで親友とギター弾き語りバイト、パチンコ、裏町中華、そば屋など様々な稼業に精を出す。一応、高校は卒業。
1980年代前期・・・隣町のあやしい自動車工場に就職するも、バイクとは無縁だったことで3か月で退職。後、再び裏町中華を中心に、市場の餅屋、電話帳の配布、自転車&バイクショップ、酒屋など、あちこち掛け持ちバイト。
1980年代中期・・・バイクレースのセンスがなさ過ぎて、決勝進出経験ゼロ、借金だらけ、友離れ、骨折怪我により断念。途方に暮れているところ近所のカフェの求人を見て就職。そこは上場企業経営で正社員として雇用いただく。
カフェ時代・・・ひとつ年上の憧れの女性から「料理しているケンちゃんは格好い」と言われたことで料理人生を決意。日中はカフェ、夕方からプロ育成学校、深夜は裏町中華に今度は修行として通いだす。
初経営時代・・・カフェで働くこと3年、独立欲が高まった頃、縁あってとある高級スポーツクラブのラウンジを運営することに。ヘルシーメニュー200種類以上を用意し、クライアント、クラブメンバーからも好評を頂く。1年後、同クラブの営業マンから上京を誘われる。彼の実家は築地で魚河岸仲買や鰻の輸入・加工を行う商社を経営していた。
築地魚河岸時代・・・魚河岸は何もかもが面白すぎた。しかし、結婚を約束していた彼女が掃除にやってきて、なぜかソープランドへ行ったことがバレ、竹ノ塚駅と梅島駅で激しい喧嘩の末、破局。ソープは上司の命令で付き合わされただけなのに。あまりのショックでその半年後、僕は帰郷。
バー時代・・・挫折後のハッピー到来。帰郷してすぐに縁あって、大阪北部郊外の箕面でバーを開業することに。エスニックなつまみと音楽イベントが売りでなかなかに繁盛。が、14坪で家賃31万5千円が祟って、3年後に心身ともに不調となり、店が燃える。ボヤ扱いだが、実質的には全損に近い。3か月間の営業停止中、店の前にバー屋台を開いて何とかしのぐ。多くの常連客、大家の協力あって再興する。感謝の極みを知る。
1990年代中期/ものかき時代・・・かつてスパイスの研究に精を出すも手掛かりが少なく、若くから上京していた親友がこれを聞けばスパイスやカレーのイメージが思い浮かぶかもよ、と言って教えてくれたのが当時人気だったブルースバンド「憂歌団」の「テースト・オブ・憂歌団」というアルバム。中でも「夢のインド」という曲は最高だった。その後、吉祥寺のスパイスを駆使したカレー屋さんと出会い、激しく覚醒する。なので僕は憂歌団を聞くと今でもスパイスの香りが漂ってくる、と当時バーに来てくれていた憂歌団のマネージャーに話すと面白がってくれて、ファン会報誌に書いて、と言ってくださったのが初ものかき。その後「ぴあ関西版」にて、ジャンルに関係なく店を巡り店主の似顔絵入りのコラム「河村研二のマナ板の恋」連載が始まる。
ライター専業時代・・・「店とものかきの二足のわらじなんていい身分ですね。私たちはこれ一本で食べていくのもやっとなのに」と年下の女性編集者から言われて激昂。1か月に及ぶスタッフたちとの話し合いを経て、大号泣しながら店を手放す。名刺の肩書は「ものかき」から「ライター」に変更。が、専業になるも、大阪では飲食店の取材が99パー。本当に書きたいことがまったく書けないという中、結婚した彼女が妊娠していたことから、ひたすらに金を稼ぐために働いた。
1997年/スパイス自家製粉時代・・・自分の中の何かが葛藤してやまない。その思いが、スパイス各種を揃え、すべて自家製粉し、ブイヨンや小麦粉に頼らない、いわゆるインドカレーの店を始める。スパイス入手が困難な時代だったが、神戸の「インドスパイス」ビニワレさんのおかげで実現。とはいえ当時はゲテモノ過ぎたのと、宣伝方法がチラシしかなく、ライターの稼ぎを吐き出すような格好になっていた。
「THALI」時代・・・いろいろあって嫁さんの実家、三重・松阪で店を開くことに。日替わりインド・スパイス料理店「THALI」。インドに注目した最たる理由はその哲学性だったが、それを言うとみんなが怪しい目で見てくるので絶対に口にしないと決める。それに当時はスパイスという言葉がまだマイナーで、インドと言えばタンドールかカレーばかり。インドには多様な料理文化がわんさかと存在し、それらを複数組み合わせて食べるのが面白いしヘルシーだし、何より日本人にあっている、と確信していたので、そのことを伝えようという思いでこういう店にした。
ライター復活時代・・・いろいろあって家族解散、大阪に戻る。僕は実家がないので新大阪駅から徒歩4分の単身者用マンションで一人暮らし。すぐに昔お世話になった編集者から電話が入り、東京の仕事のお誘い。毎週のように通い、東西半々生活に。一方で、僕が「THALI」をやっていたことを知る編集者が何人かいて、東京でインドスパイス料理イベントを開催してくれたりも。雑誌の取材やエッセイ、テレビ構成台本、広告制作、料理レシピの開発・協働など多忙を極める。再婚する。
料理研究家時代・・・あちこちでスパイスやインド料理の話を書いたり、料理イベントに呼ばれたり、開発協働の依頼が増えるたびに、スパイス料理研究家と称されることが増えていく。同時に今までの商業ライターとしての仕事もこなす。
ミニファーマ―時代・・・コロナ禍を機に、2021年4月、かねてからの憧れであった畑を始める。老練の師匠につき早4年(2025年2月現在)。これが面白すぎのおいしすぎで日々感動の嵐。2023年夏からは、ご近所の有志が集まり「旬野菜とスパイスを楽しむ会」が発足。これは畑の収穫に合わせて、どんなスパイス料理ができるかを考え、みんなと共有していくという会。これまでに全12回開催。
そして今・・・最も信頼していた雑誌社から干され、2023年秋には大好きだった叔母が、2024年秋には愛犬クロが、直後に尊敬していた編集者T氏が、そして今年早々にこれまた尊敬していた編集者K女史が他界。同時に野菜作物を買ってくださっていた会社が倒産。もう全部どうでもよくなった、と痛感すると同時に、いよいよ長年温めてきたビジョンを始める時が来た、と確信する今日この頃。
以上ざっとこんな感じです。それほど波乱万丈でもないと思うのですが、ネタは豊富なほうかもしれませんね(笑)
様々な破壊についてはシリーズ「カウンターの隣席 #12」に、新たな人生のスタートについては同シリーズ「#13」に書いているので、よろしければこちらも読んでいただけると嬉しいです。
僕は集中力がないのではなく、いくつも車輪があって、でもそれは一本の軸でつながっており、それぞれの集中力はすこぶる高いことに、こうやって書いてみることで今さらながら気づかされました。小学時代の先生、そういうことみたいです。
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