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幻の迷店『麺酒房 かしわぎ』第八章


第八章 編集者としての血


 二〇〇三年二月。
 東心斎橋から島之内に移転して三年が経ち、『かしわぎ』は困ったことにますます暇になっていた。早い時間帯はちらほらと客の姿があっても、夜十時以降が閑散としていることが多い。正直、オカンのキレ味がシャレにならないレベルに達していたことが大きな理由の一つにあることは間違いない。そのオカン凶暴につき、というわけだ。

 ただ、僕個人としては店が暇になるほど恩恵を受けていたところもあった。それが柏木さんに長編原稿をチェックしてもらうことだ。

 ある夜、柏木さんはカウンターに分厚い紙の束を置いてこう切り出した。僕が二〇〇一年にまとめた仮称『松阪日誌』の原稿である。

「いやぁ読み終えるまでにけっこう時間かかっちゃって。まず言っておくけど、この話は確かに面白い。いろんなエピソードがみっちりと書き込まれているし。で、よく考えてみればこれらはごく普通の男の話なんだよね。でも、そんな普通の男の気持ちが世の中から注目されることはない。表現しようとする男も数少ない。だからこそ彼(ロハス舎社長)はこれを売り出そうと思ったわけだよね。それはわかる、いいと思う。

 ただし、この原稿は熟成が必要だと思うね。いったん冷却して、カワムラ君の心の準備ができた時にひとつずつ仕上げていく、という感じ」

 それはA四サイズの用紙が二〇〇枚以上の分厚い束である。文字数約二十五万字、原稿用紙に換算して約六〇〇枚。一般的な小説の二、三倍のボリュームだろうか。内容は、僕の松阪での暮らしを赤裸々に描いた超リアルストーリーだ。

 僕がきょとんとしていたら、無数に張られた付箋の一か所を開いて赤ペンでメモしながらこうアドバイスしてくださった。

「結局この物語は大きく四つのテーマに分けることができると思うんだよ。これらを章立てで分けるのか、それぞれの別物にしていくのか今の段階ではわかんないけど、とにかく分けるのがいい。

 例えばこんな感じかな。店を作ることと経営について。インド料理の知識や技術について。子に対する父の思いについて。夫婦の在り方、家族について」

「うわぁまだまだ先が長いですね、マラソンを四回走るような気分です。一回も走ったことないけど」

「長編なんてそんなもんだよ。一気に駆け抜ける場合もあるけど、焦ることはないよ、時間のある時にやる感じで。これは本物の日誌だから生々しすぎるというか熱々というか。

 まぁしかし、まだざっとしか目を通してないけども、全体の印象としてはちょっと重たいよね。ふふふ、離婚のことや子供への思いがあちこちに入って来るもんだから。そこははっきりと分けたほうがいい。たぶん、カワムラ君の中でまだ整理しきれてないところがあんだよ。自分が成長していく分だけ作品も整理されていくはず。だから焦っちゃダメ、冷静に振り返りながら丁寧に仕上げていくとひとつひとつがよくなると思う」

 紙には、やや色あせた赤色と、まだ新しい赤色が入り交ざっていた。実はこの作品、店が移転して一年ほど経った頃に、東京の出版社ロハス舎から持ち込まれたものである。

 ロハス舎のことは知人のライターさんからの紹介で知り、たまに雑誌の仕事をさせていただく関係だった。それがある時、松阪で日誌を書いていたことをたまたまロハス舎の社長が知り、「これこそ現代人の、特に男が求めている実話だ、映画化を目指して出版だ」と絶賛。そして担当編集者と共に整理に取り掛かりだしたまではよかったのだが、承諾を得ていたはずの前妻の気が変わり途中で出版を拒否。固有名詞を入れ替えるなど対策を練るが、それでも断固反対。

 諦めの境地で社長が食事に誘ってくださり、話しているうち、社長の前職がマガジンホーム編集者で柏木さんの後輩だったことが発覚。おまけに僕がかつて働いていた魚河岸仲買の向かいのマグロ商のご子息であったことも判明。そんなご縁もあり、社長と共に『かしわぎ』へ行き、「好機が訪れるまでの間この原稿を預かっておいてください」と柏木さんに手渡してくださったのだ。色あせているほうの赤はその時の担当編集者のものである。

「この手の話は確かに面白いんだけど、登場人物は実在しているし、作者の気持ちも少しずつ進化していくものだから、やっぱり機が熟してなんぼ。文章とか細かいことは気にしなくていいよ。うまく書こうとするほどにつまらなくなるから。とにかくカワムラ君が少しずつ進化して、ある時にぱっと落としどころがわかる時が来るから」

 常連客の中には編集や出版の関係者が多くいて、その人たちはみんな柏木さんが元マガジンホームの大阪支社長であり編集者であることを最初からご存じの方ばかり。だが、僕の場合はそんなことを知らずにそば屋として知り合ったものだから、このように図々しくワンツーマンでご教授いただくことができたのだと思う。柏木さんの元部下が知ったらどやされそうだ。

 別の日にはこんなやりとりがあった。
 二〇〇三年一月から連載が始まった『らぶもーる』という情報誌を読んで柏木さんが一言。

「これ面白いよ。久しぶりにヒットだね、ようやくカワムラ君の味が出てきたって感じだねぇ」

 それを聞いて、僕は小さく頭をさげながら、心の中では大きくガッツポーズ。

「ここんとこ、普通のグルメ取材や広告製作ばっかで、あんまし面白いものを書いてなかったもんね。年々文章が上手くなってるし、まぁ稼がなきゃいけないというのはわかんだけど。でもやっぱりカワムラ節が読みたいんだよねぇ。オリジナリティが溢れたものを。このボリューム感もいいよ」

 そう言ってどこからか鉛筆を取り出し、もう片手で眼鏡をおでこにあげて「じゅうろく、じゅうしち、じゅうはち」などと文字数と行数を計算しだした柏木さん。

「見開きで一段が、じゅうく、かける、さんじゅうし、だから六四六ワードとして、全部で五段だから、うぅんと三千ちょいだね。原稿用紙にすると八枚ってところか。ふむ、だいたい小説の一章分の文字量だよ。短すぎず長すぎず、読む者をドラマの中に引きずり込んじゃったところで次に続く、という感じだね。うん、カワムラ君にはこれくらいがちょうどいいのかもしれない。連載の回数は決まってんのかね、できれば一年間は続けてほしいな」

 柏木さんは気づいているかどうかわからないが、『らぶもーる』とは実は超アヤシイ情報誌で、首都圏限定の風俗や水商売専門の求人誌である。この時は「vol.017 3 2003 Mar.」号で、表紙には「巻頭特集 今間違いなく一番稼げるセクキャバのすべて」「年収2000万円超のカリスマ嬢が語る”客の顔が1万円札に見える瞬間”などと書かれてあった。A四変形、全二〇〇ページ、定価二五〇円。

「ただし、このコーナーのタイトルは『Kenjiの”お金を貯めたら店を出そう!”』というものでして、元々は頑張れば誰でも独立開業できるよ、と僕の経験に基づいたノウハウを書く予定でした。

 その経験というのが、あの松阪『THALI』を百万円で造り上げたことなんです。百万円で店を作ることができるなんて、それは風俗や水商売の世界でいきる人たちの勇気につながる、と田中編集長がそう言ってくださって。なにやら風俗や飲み屋で働く女性たちの中には独立開業を目指している人も多いのだそうです。中には何かと不遇な環境で生まれ育ってしまった人も多いとかで。この実話はいい応援になると言ってくれて。それが書いているうちにカワムラケンジの独壇場になってしまいました。田中さんはいつのまにかケンちゃんの私小説になっちゃったと笑ってます」

「ふふふ、そうなんだ。でも単に百万円で店を作る方法よりも、こういう物語というかドラマのほうがリアリティがあってきっと共感を呼ぶんじゃないかな。そうかぁ、やっぱ田中君(*)さすがだなぁ」

(*)田中茂朗(たなかしげお)
編集者・ライター 一九六二年東京生まれ。タイに移住経験あり。三十歳で単行本「モハメド・アリ:リングを降りた黒い戦士」(1992 メディアファクトリー)を執筆。『文芸春秋』『Marcopolo』、集英社『PLAYBOY日本版』、ベースボールマガジン社『格闘技通信』などで活躍してきた。

 田中さんというのは僕より三歳年上の編集・ライターである。大手出版社の雑誌の関西版ができると同時に東京から大阪に赴任。島之内に在住し『かしわぎ』に通いだし、柏木さんから「面白い男がいるのでそのうち紹介するね」と噂だけは耳にしていた。

 が、しばらくして田中さんはその大手出版社を離れ、かつての柏木さんの部下であった住本さんが率いていた大阪のグルメ雑誌の編集部に転職。それである取材の時、田中さんが「君のことは柏木さんから聞いてて」と言って僕をライター指名してくださったのが最初の出会いであった。

 それからしばらくがたち田中さんは帰京。そして今度は『らぶもーる』の編集長を務めることになり、僕に今回の連載のチャンスをくださったわけである。

「それにしても田中君は見事だね。カワムラ君の面白さをうまく引き出してる。彼はなかなか才能のある男だから、このまま引っ張っていってもらえばいいよ。いやぁいいセンスしてんなぁ」

「ほんま田中さんのおかげです。めちゃ修正いれてくれてるんですけど、注意するどころか、面白い面白いってずっと言ってくれるもんだから、こっちはどんどん調子に乗ってしまいまして」

「しばらく会ってないけど、どう、元気にやってるかな。彼は確か新宿だったよねぇ」

「ええ、四谷三丁目の、荒木町とかいうところに編集部があります。こないだ伺ったらこじんまりとした料理屋や飲み屋が犇めいていてびっくりしました。夜、カウンターだけのイタリアンに行って、次に見知らぬ人と肩を寄せ合って飲む極めて狭いバーへ行って、最後はお坊さんがやってるバーへ連れて行ってもらって。田中さんもべろべろになってました。あんなところで働いたらまっすぐ家に帰ることはできませんね」

「ふふふ、荒木町ねぇ。あすこは昔、花街だったところで、いい店がたくさんあったんだよね。きっと今でもあると思うよ。長いこと行ってないなぁ」

「田中さんも言ってはりました。なんだか古い料亭なんかも残っていて東京では数少ない古風なエリアだって。細くくねった路地の奥にも、いろんな小さな店がずらっとあったりして歩いているだけでも楽しいところでした」

「荒木町にも確か作家や編集者が集まる店があったはずなんだよ。新宿は歌舞伎町やらゴールデン街やら広いから、あちこちにその手の店があんだよねぇ。マガジンホームがあった銀座界隈も小説家が集まる飲み屋がいくつもあったなぁ。昔はだいたい銀座か新宿、神保町なんかもそういうところだったんだよねぇ」

「へぇ、柏木さんもやっぱりそういうところへ出かけたんですか」

「行ったよ、何度かね。昔は文豪と呼ばれるシトたちが大勢いて、中でも銀座に有名な店があって、みんななんとかもっと書いてくんないかななんて思いながら大金を叩くんだよね。まぁでもやっぱりバブルあたりからそういう店は減っていったよ」

「うわぁ、なんだか”ザ東京”という感じです。大阪だとお笑い芸人も通う安い店ならたくさんありそうですけど」

「田中君に会ったらよろしく言っといてよ、今度そっち行くから荒木町を案内してくれって」

 煤ぼけた眼鏡にエプロン姿でも、柏木さんはやっぱりバリバリの編集者なのであった。

 結局この連載は十二話続けることができた。

(Coming soon 第九章)

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