裏町中華『新大蓮』のチーフ(原版)最終幕
第四幕 にんげん劇場
第一幕 メインストリート「イナイチ」
第二幕 店
第三幕 三度目の正直
第四幕 にんげん劇場
1.ヘヴィ級の道山さん
道山さんという常連客がいた。初めて会ったのは僕が高校二年か三年の頃。当時は上場企業の工場に勤めており、いつもきっちりとスーツにネクタイ姿で店に来ていた。パチンコ屋で台を譲ってもらったり、スナックに連れて行ってもらったこともある。バイクレースに没頭していた時は、道山さんが勤める工場のFRP成形部門でバイトもさせてもらうなど、なにかとお世話になった方だ。
が、ここのところ、ネクタイをせず、よれよれのシャツ姿で来ることが増えた。元々酒癖はいいほうではなかったが、最近は他の常連客と口論をするなど悪化の一途。会社もサボりがちで、昼間は顔のささない駅前のパチンコ屋に行ってるようだった。
夜の十一時頃、ゆっくりと扉が開いた。カラカラカラ。
背中を丸めて中を覗き込むようにしながら道山さんが入ってきた。
「おぅ、いつもの。それと叉焼」
店最安の酒、ビール用のグラス一杯二五〇円。
「おいカワムラ、お前はええよな、高校は卒業するのもやっとやったくせに、いつもそんな幸せそうな顔をしてやがる。ほんまお前が羨ましいわ」
「何を言うてますのん。僕なんかを羨ましがるはずないですやん。道山さんは立派な企業に勤めてはるんやから」
「立派な企業なんて関係ない。しょせんサラリーマンや。給料をもらうかわりに企業に利用されてなんぼ。だから黒いもんでも白といわれたら白になる。でもお前は白と思ったらそのまんま白。自分のやりたいように生きてる」
道山さんは30代後半くらいか、チーフよりも少しだけ歳が上だった。看護士の奥さんと小学生になる子供さんがひとりいる。
「ようそんなこといいますね。道山さんには可愛い子供さんと美人の奥さんがいてはるやないですか。僕みたいな孤独な雑草育ちは、人の何倍も頑張らんと生きていけないんですわ」
「お前は孤独か知らんけど育ちがええ。おかあさんのおかげや。それにチーフもお前を買っとる。アホやから気づくのが遅いだけや。バイクレーサーなんぞ最初から無理に決まっとるやないか。まぁ若いうちは寄り道もしたらええけど、どこから見ても料理やろが。最初から答えは見えとる。とっとと独立開業を目指せ」
「ようそんなこと言いますね。僕は挫折感しかありませんよ。もうレースの情報も見たくない。こっそりと飲食業界に逃げてきたという感じですわ」
「ふんっ。チーフに失礼な。いくらこの店が臭くてオンボロや言うても、ヤーコも不倫オバハンも、この俺も、みんなに愛されとるやないか。それがどんだけすごいことかお前はわかってない」
「はいはいわかりました。僕忙しいんで厨房戻りますね。あんま飲み過ぎんように」
「おい、こらっ。逃げる気か」
僕は厨房に戻り、大きくため息をつきながら、必要でもないのにニンニクを一かけら取り、包丁で叩く。タッーン。
「ほんま道山さんキモいですわ。来るたびにややこしくなってます。もうなんもしゃべりたくない」
ロンピーをくゆらせながら勝手口の外を眺めていたチーフがポツリ。
「確かにおっさんおかしくなっとるな。道山さんの家、たぶん嫁はんのほうが稼ぎがええんやと思うわ。奥さんは大きな病院の看護士で、最近は副看護婦長になったという噂や。やり手な上に気が強い人やいうから大変なんやで。嫁はんのほうがえらくなってしまうと、何かとしんどいのとちゃうかな」
「えっそうなんですか、嫁はんの稼ぎがええんやったら逆に楽なんちゃいますの」
「カワムラ君は母子家庭やからピンとこんかもしれんけど、やっぱり男にはプライドがあるやろ。男は稼ぐ、それで家庭を背負ってる、そのことで女に頼られるという感じや。でもほんまは男の方が弱いねん。せやから主人なんて言われてたててもろてる。それが昔からの慣わしなんやで。まぁわしはそう思うなぁ」
「女の人の方が強いなんて信じられへん。おふくろは親父が死んで以来、歯を食いしばって生きてますわ。パートを掛け持ちして時給をコツコツ」
「だからそれが強いんや。普通、女の人はなかなか正社員になられへん。せいぜいパート勤めがおちやろ。それでもお母さんは文句も言わず掛け持ちして働き続けてる。これは弱い人にはでけへんぞ」
「そうですかね。親父のことを思い出したくなくて、がむしゃらに前だけを見て働いているように見えます」
「そらそうやろう。でも、同じことを男はでけへんで。たいがい腐るか他の女を探すかや。最近、男女平等ってたまに聞くけど、ほんまにそんな時代がやってきたら大半の男の立場はがくっと下がると思うで」
一九八〇年代後半は、確実に女性の社会進出が増えていた時代だった、と体感的にはそう感じる。とはいえ今のように女性が社会保険や福利厚生のついた正社員になれるのはかなり限定的だったはずだ。
「そう考えるとチーフの生き方は男女関係ないっちゃないですね。だって店なんて味で勝負やから。いや、ちゃうわ。チーフんところは最初から逆やった。社長(奥さん)の方がはるかに上やから。せやせや、チーフんところは最初から女性上位でしたわ」
「なんやとぉ。うちはわしが負けたってるだけや」
「それにしても僕、ずっと飲食業なんか女の仕事やと思ってました。でもよく考えたらチーフは男やし、チーフの中華の仲間もみんな男。同じ飲食でも女の人が料理してる店や、夫婦で手分けしてやってる店もあるし、飲食業は最初から男女平等ですね」
「そうや、男女関係なく、うまいもん作って気持ちよう食べてもらうことがわしらの仕事や」
「そうか飲食業ってすごいですね。まぁしかし、とにかく僕は女にモテたい」
「ふふ、前に言うてた一つ年上の女のひと、どうなった、脈はありそうか。それがね、最悪なことに彼氏がおったんですよ。BMWに乗ってるおぼっちゃまが。こないだ店まで迎えに来てるのたまたま見てしもたんです。石田純一みたいに肩にトレーナー掛けててめっちゃさわやか。ナンバープレートが折れ曲がった原チャリに乗った僕とは異次元ですわ」
「でも、カワムラ君のこと格好ええ言うとったんやろ」
「そうなんです。彼氏がいながらも僕にそんな言い方をする。もしかしたらあばずれなんですかね」
「それはないな。汗水たらして料理してる姿を格好ええなんて、二十歳そこそこの女が嘘では言えん。その子はほんまにそう思ったんや。ええ子や」
「あぁ、早く彼氏と別れへんかな。俺に振り向いてくれへんかな」
と、そこに客席からまた道山さんの声が飛んできた。
「おいこらっ、いつまでこそこそしゃべっとるねん。先からずっと呼んどるんや。はよ酒入れたらんかい」
僕は呆れながら道山さんの前へ行く。
「道山さん、あと一杯だけにしといてください。飲めば飲むほど変になるから」
「やかましい。お前までえらそうに言うな。はよ注げ」
キリンビールのロゴが入ったグラスに一升瓶を傾け、表面張力ギリギリに注いだ。
「おうおう、グラス持たれへんやないか。でも嬉しいわ」と言って唇を尖らせて顔をグラスに近づける道山さん。
「ところで道山さん、最近は仕事をさぼって駅前のパチンコ屋に行ってるという噂ですやん。酒とパチンコでは人生つまらんですね。これからどうするつもりですか」
「おいおい、まさかお前から説教受けるとは思いもせんかったわ。青二歳にはなんもわからん、黙っとけ」
「この際奥さんと離婚して新しい女を探すとかは」
「なんやお前一丁前のこと言うてくれるやないか。ええかもな」
「道山さんのこと、はよ奥さんと別れて自分に振り向いてくれへんかな、なんて思ってる女の人いるかもしれませんよ」
「それはない、絶対ない。そんなことあったら嬉しすぎるやないか」
「いや、いるかも。はよ別れてくれへんかなって、ふふふ」
「お前舐めてんのか。この俺に惚れる女が世の中にいると思うかっ」
「えええ、なんちゅうこと言うんですか。奥さんはそんな道山さんに惚れて結婚したんとちゃいますのん」
「それは昔の話や。若い時は俺もなかなか格好良かったんや」
「え、それが何でこんなよれよれになってしもたんですか」
「もうええ、俺のことは放っておいてくれ」
「いや、そういうわけにはいきません。まず、酒飲んで愚痴るのをやめてください。で、ちょっと身体を鍛えて、常にスマイルで」
酒をくいっと飲み干し、グラスをこちらへ差し出す道山さん。
「おい、カワムラっ。酒や」
「道山さん、もうそれ以上はやめといてください」
「なんやとっ。いつから俺に指図するようになったんや。俺はお前の恩人やろ。ま、ちょっとだけかもしれんけど。酒入れへんのやったら自分で注ぐぞ」と言って席を立ちあがり冷蔵庫へ向かおうとする。
「こらっおっさんっ、ええ加減にせぇよ。勝手に注いだら倍つけるからな」とチーフが遮る。しかたなく僕が道山さんのグラスに酒を注ぐ。
「はい、今日はこれで終わり。できればパチンコも終わりにしたほうがいいですよ」
すると道山さんは僕の腕をぎゅっと握って引っ張った。痛い。キレたか、目が血走っている。
「なにこらっ、ちょっとここに座れ」
「嫌ですっ。仕事中やし。他のお客さんにも迷惑です」
「なんやとっ~。ほんまにどいつもこいつも俺を馬鹿にしよってから。もう俺の居場所はどこにもないやないかっ」
そんなことを言いながら顔を紅潮させるのであった。今までは酔っても切りのいいところで引き上げていたのだが、最近は他に客がいても、このようにどんどん重たくなっていく。
「ようわかった。もう誰のことも信じへん。俺なんかどうなってもええわ。もう生きてても仕方ない。死ぬ。ほんまに死んだる。これが今の俺にできる最大の行動や。嫁はんにこれ以上馬鹿にされてたまるか」
チーフも呆れた表情でため息をついている。我々は数ヶ月間に及んで、この道山ヘヴィ級劇場につき合わされ、ただただ我慢し続けた。
その後、2週間ほど道山さんの姿を見ることはなかった。
ある日の夜、チーフがこう話す。
「道山さんな、ほんまに会社を退職しはったらしいわ。それで家にも帰ってないらしい。奥さんから電話あってな。もう離婚すると言うてはった。ま、あんなおっさんおらんでも生きていけるしな。というか、おらんほうが子供のためにもええやろうし」
「ええ、せやけど道山さん大丈夫かな。どこへ行ってしもたんでしょう」
「ま、大丈夫や。嫌なことはそう続かん。だいたいは何かを捨てたらまた新たな何かが手に入るもんや。そのうち女でも作ってまたひょこっと顔出すのとちゃうか」
裏町の小さな店では人それぞれの濃い濃い人間ドラマが垣間見えるのであった。
2.手仕事の魅力
道山さんのようにどんどん没落していく人がいるかと思うと、いつ逢っても変わらずクールで格好いい常連客もいた。中井さんだ。年の頃は四〇代半ばか、もしかしたら五〇歳を越していたかもしれない。時間帯にかかわらず、決まって一人でやってきて、自由に何品かを組み合わせて注文する。
この日も簾をくぐるとチーフと僕にニコッと笑みを見せてくれた。
「こんばんはぁ」
席につくやいなや壁に貼られた献立の札をスピーディに端から端まで眺めて「うぅんと、ニラレバと餃子二つとライス。あ、それと瓶ビール一本!」とはきはきと注文。
「はいよ」
僕はすぐに客席側へまわって冷蔵庫から大ビンを取り出し栓を抜く。そして中井さんの前に置いたグラスに注いだ。
「サンキュ」
いつものように無駄なことは言わず、テーブル下の棚から漫画や新聞の束を取り出し、店で唯一真面目な読み物、毎日新聞を抜き出しテーブルの上に広げた。
ビールをグラス半分ほど口に流し込み、一息ついて紙面に集中する。時折背筋を伸ばして指をぺろっとなめてページをめくり、また右上から目を丸くしてぐいぐいと読み込んでいく。
換気扇がグヮァァァァァとマントラのように響く中、ニラレバのレバーを揚げる激しい音が入り交ざる。ワチャァァァァッ。
その後はフライパンからニンニクと醤油の香ばしいにおいが湧き上がってくる。
体系はやや太り気味で一七〇センチあるかないか。髪は短めでいつもぴちっとかためている。出身は確か福岡だったはず。とても品のある人だった。当時全国に名を轟かせていた某有名チェーン系寿司店本部で働いていた。
注文の品をすべて出し終え、しばらくたった頃に僕は中井さんに話しかけた。
「あのぅ、中井さんが勤める○○寿司って、確か持ち帰り専門なんですよね。あの奇麗な冷蔵ケースにずらっと寿司が並んでるのってすごい。ケーキの不二家が寿司屋になったみたいな。どんどん店が増えてるし、どこもお客さんが一杯でびっくりです」
当時、鮨屋といえば品書きはなく、暖簾だけが揺れているという店構えがお決まりで、ようやく回転寿司店が街中に出だした頃である。そんな時代に持ち帰りだけの寿司店などあまりに斬新だ。
「一応その手軽さが売りなわけだけど、まだまだ問題だらけで大変だよ。せっかくお客は来てくれてるのに、店によっては一〇分以上も待たせちゃったりするんだから。ケーキ屋さんでお客はそこまで待ってくれないよ」
「昔ながらの寿司屋ならもっと時間がかかるのに、なんだか不思議ですね。ところで寿司は作りおきしておくんですか。それとも注文してから握るとか」
「基本的には作りおき、と言いたいところだけど、長く置き過ぎると乾燥しちゃうし、実際にはすぐになくなっちゃうから追いかけて握っていかなきゃならない。各店に必ず一人はスタッフが入って、寿司は彼らが作るんだけど実際にシャリを握ってるのはロボットなんだよ。こいつがいまいち遅くてね。だからいまそれを改良してる最中なんだよね」
「へぇっ~ロボットが握ってるんですか。スターウォーズに出てくるロボットみたいな板前とか」
「そうじゃない、つまんない形をした機械だよ。一応シャリは出てくるって言うだけで、仕上げはやっぱり人間がやんなきゃならないし」
「いや、それにしてもおもしろそうです」
「そう、じゃあ一度見にくるかい」
「あ、見てみたいです、寿司ロボ」
「おぅ、カワムラ君、おもろそうやないか。中井さんは事業部長なんやぞ。全国にいるスタッフたちの総監督みたいなもんや。急成長してる〇〇寿司の裏側を見せてもらっておいで」とチーフも背中を押す。
というわけでさっそく数日後、僕は一人で中井さんの職場へ出かけた。そこは『新大蓮』から車で十五分ほどのところ。トラックなどが出入りするような大工場をイメージしていたのだが、住宅街の片隅のわずか十坪ほどの小さな工場だった。中井さんは普段は本部の大きな工場にいることが多いそうだが、最近は機械のテストやセッティングのために、こちらの小さな工場に来ているのだという。
中井さんは、顔だけが見える真っ白のレインウェアのような生地のつなぎ服姿で出迎えてくれた。どこから見ても寿司屋には見えない。
そして目の前の台下冷蔵庫の上に、幅7,80センチ、長さ2m、高さ1mほどの奇妙な機械が置かれてあった。上に1m四方くらいのステンレス製の箱が載っていて、下にはレコードプレーヤーのような形をしたプラスティック製の白く丸いテーブルがある。
「まさか、これが寿司ロボットってやつですか、なにこの冷たい感じは」
「あっはっはっはっ、だろう、つまんない形してんだよ。でも、こいつが一時間に2000個以上のシャリを握ることができるんだ。毎日朝から夜まで、何か月も何年も延々とやるんだから夢のロボだよ」
「一時間に2000個って一分で三百いくつ、ええっと」
「約2秒で一貫。1人前10貫として約20秒でシャリを握るわけだね。まぁ見てて。今動かしてあげるから」
中井さんがスイッチを入れ、まず上のステンレス製の箱の中にご飯を放り込む。すでに調味した酢飯だ。
ウィ~ンとモーター音がしたかと思うと下のテーブルも回りだし、五、六センチの握り風の形をしたシャリがぼとっぽとっと落ちてくるのであった。それを今度は中井さんが手にとって上に刺身を載せて、寿司職人のように軽く握って小さな容器に入れていく。
「一見は調子よく見えるけど、実は握りの強さが一定してないんだよね。ほら、このつまみを回すとスピードが早くなるんだけど、たまに崩れかけてるやつが出てくるだろ。どうしてもむらがあるんだよ」
見るといくつかの操作つまみがあり、そこに「早い⇔遅い」とか「シャリ 柔らかさ 硬い⇔柔らかい」、「大きい⇔小さい」などと書かれている。
「最終的には人間が、シャリの上にネタを置いて一度ぎゅっと握るわけだからちょっとは硬くなるんだけど、すべてが均一の食感にするのが難しくてね。寿司ってのはある程度ふんわりとしているほうがおいしく感じるんだよ」
触らせてもらうと確かにふわっとしていて、がしっと掴むとすぐに解れてしまいそうだ。
「ほら、カワムラ君もやってみなよ」
中井さんの見よう見まねでやってみる。左手の平にシャリを持ってマグロやエビを載せてから右手の指をそえて軽く握る。
「あ、なんか寿司職人になった気分」
「そうだろ、誰でも寿司職人になれる、というのがこのロボの最大の売りだよ。ほら、そこにワサビもあるからつけてみな。どんどん食べてっていいから。味見てるうちに加減が分かってくるよ」
「うわっ、自分で握った寿司を自分で食べるなんて夢のようです」
左手でシャリを軽く包むようにして、その上にワサビを少しつけ、ネタをのせてぎゅっ。そしてぱくっ。
「あぁおいしい。ちゃんとした寿司屋の寿司みたい」
「そうだろ、シャリがまだ温かいからごはんの香りがあるんだね。うちの寿司で一番おいしいのはこの瞬間。でも売り物にするにはどうしても冷蔵するしかない。一定の時間をもたせなきゃいけないからね。こればかりはしょうがない」
握る硬さは10貫も握ればコツがつかめて安定感が出てきた。ワサビは多少塗り過ぎてもそれほど辛くはない。
「あかん、中井さん、これうますぎます。なんぼでも食べられる、永遠に握っていたいです。こうなったら客に握らせてしまうとか」
「おぅ、それおもしろいね。握らせ寿司か。流行るかも」
「これ、いくらロボと言ってもちゃんと人の手が入るのがまたいいんでしょうね。機械と人間の共同作業というか。ちょっと硬めに握ったろか、とか、ワサビ少なめとか、そういう微妙なところはやっぱり人の手じゃないと」
「そうそう、結局は人の手がないと寿司にはならない。機械で完全まではできないんだよ。もしそういう機械が将来できたとしても、最後の最後はやっぱり人だから。好みを聞いたり、箱に詰めたり。笑って挨拶するのも人でないとできないからね」
「そう言えばチーフもたまに話してますわ。20代の頃は中華調理師連盟の関係でチェーン店や大型店にも出向してたらしいんですが、でかい店だと流れ作業になってしまって、誰がどんな顔して食べてたかなんもわからへんと。挨拶だけでもええから一言交わすのが大事やと言うてました」
「やっぱりチーフはさすがだね、良いこと言うよ。まったくその通り。人の身体は食べ物でできてんだから。誰がどんな気持ちで作ったか。一言交わすだけで一瞬で感じ取れるもんだよ」
「ま、それにしても『新大蓮』は客と交流し過ぎやと思いますけどね。ただの中華屋さんやのにめちゃツケてる客多いし。スナックやあるまいし」
「確かにそれは考えもんだね、ツケなんて許しちゃうんだ」
「もう誰のツケかもわからんぐい古いもんも山ほどあります。電話の横の壁に無数に貼ってるメモあるでしょ。あの大半はツケのメモです」
「そうなの。まぁでもそのお人好しなところもチーフの魅力なんだよ。そうやっていろんな人を助けてるんだ、あの人は」
「さて、そんなだから社長にもよく怒られてます。今まで二度、保証人になって逃げられたの知ってます。空本の時代にもあったらしいから何回もあるんとちゃいますかね。チーフはお人好し過ぎるんですよ。顔は北島三郎みたいなちょっと怖そうな顔してるくせに」
「そうか、色々あるんだねぇ。でもなんであれ、チーフの料理はうまいから、俺好きだよ。何度でも行っちゃう。またよろしくね」
中井さんはやっぱりスマートで格好良かった。そして、そんな中井さんが愛する『新大蓮』で働けている自分がちょっとだけ誇らしく思えた。
3.やっぱりあいつは疫病神
いつのまにか店の二階に住み着いた、あの松田のおっさんはやっぱりどうしようもないチンピラだった。そう、僕の親友空本のおかんの愛人である。体系は中肉中背、顔はなかなかの男前なのだが、とにかくやることなすことすべてがクズなのだ。
まず、アルミサッシの扉を開けるときの音が日に日にうるさくなっていく。そりゃ元々滑りの悪い扉なのだが、そこまで攻撃的にやらずとも。
ガッ、ガスッ、ガガガ、バッシィーーーーーーン。
そして「なんやこれ、ほんまにすべりの悪い入口やのぅ。客を歓迎する気があるんかね」などと必ず余計な一言をつける。
そのたびにチーフは「ちっ」と舌打ちしたり、たまに「もうちょっとやさしく開けられへんか」と注意するのだが、充血した目でチーフの顔を凝視するだけで反応しない。どう見てもサイコパスな目だ。
一応、餃子と焼きそばなどと人並みのものを食べる。そして食べ終わったら他の常連客とコンタクトすることなくさっさと出て行くのだが、最近はトイレへ行って、客席側に戻ることなく勝手口から出て行くことが増えてきた。
そして、店の外へ出て行ったかと思うと、今度は外から小窓越しに鶏の足を見せてくるのである。この鶏はもちろん『新大蓮』のもので、わざわざゴミ箱から探し出しているということになる。
トイレ前の小窓は一七〇センチくらいの高さ。まるで人形劇のように延々とちょこちょこと動かしている。なぜ松田のおっさんの仕業であることがわかるかというと、以前に僕とチーフが追いかけたことがあり、その際二階へ通じる扉を開けて走り去る松田のおっさんの後姿を見たからである。
何度注意をしても、このおっさんは懲りないどころかますますエスカレートしていくのであった。あまりにしょーもないので、我々が無視しだすと、今度は小窓からこちらへ向かって鶏の足を放り投げてくるようになってしまった。
「チーフ、いい加減あのおっさんを追い出しましょうよ。紳士ぶった顔をしてるけど実際には相当に気持ち悪い。完全にイカレテますよ。そのうちもっと悪いことが起こるような気がしてなりませんわ」
「そうやな。しかし出て行けとも言えん。空本くんのお母さんの頼みやし、いやぁほんまにまいるわ」
そして、疫病神はさらなる悪夢を引き起こす。なんと二階でエッチをしだしたのだ。
実は前からやっていたが、それは夕方の休憩時間や店を閉めた深夜に限られていた。が、一般客が食事をしている平日の夜の八時頃から始めるようになってしまった。
厨房の換気扇の音が大きいため忙しいときは気付かないが、途切れた瞬間にどこからともなく、ぎしぎし、みしみし、と軋んだ音が聞こえてくる。
「地震か」と言わんばかりに上をきょろきょろと見回すお客もいるほど。そして耳を澄ましたら最後。
「あ、あん、あ~ん」と低いピグモンの声が聞こえてくる。五分か一〇分で終わってしまうのだが、困ったことに1時間後くらいにまた始まる。
みしみしみしみし…あっあんっあぁぁぁぁ~。
誰か注文してくれ、と切望の思いだが、それにしてもこの世から抹殺してしまいたいほど気持ちが悪い人たちだ。親友の母親が自分の勤め先の二階に毎晩やってきては、週に三、四回低いあえぎ声でエッチしているというのは、なかなか耐え難いものがある。
「チーフ、なんであんな変態を住まわせたんですか。空本のおかんは昔から男遊びが酷くて、まともに家に帰ってこないような人ですよ。自分の欲求を満たすためにチーフを利用しただけですやん。こんなんやったら宴会場のままでよかったのに」
「まぁな、わしもここまで酷いとは思わなんだ。でも、なかなか宴会は入らんしなぁ」
「やっぱりあんな急階段でくっさいトイレで揺れる部屋、誰も借りませんって。あんな気色悪い人らに住まれるんやったら、僕らが雀荘としてずっと使わせてもらったのに」
今まで何度か徹夜麻雀に使わせてもらったことがある。もちろん収益は上がらないが、魔除けにはなったじゃないか。
「よっしゃ、近いうち出て行ってもらうように言うわ。なんやったら嫁はんに言ってもらおう。松田のおっさんは、うちの嫁はんにはよう言い返さんみたいやし」
松田のおっさんに限ったことではなかったが、もうひとつ気になっていたのがたまりまくったツケだった。
壁に貼ってあるメモには、めったと見ない人のツケもある。と言うかそんなのばっかり。思い出したようにチーフが督促するのを何度か見たことはあるが、どう見ても支払日を決めて徴収しているようには見えない。が、これについては僕がとやかく言うわけにもいかない。でも、気になる。
「こんなこと言うのもなんですけど、ツケも全部カタをつけるのがええと思います。中にはどう見てもとりっぱぐれたとしか思えないような古臭い伝票もあります。払おうとしないのなら僕が取り立てに行きますよ」
「まぁええって。ある時払いでかまへんのやから」
この緩さが甞められる要因だ。
「マジですか。あいつら絶対食い逃げしますよ。チーフに甘えてるだけですやん」
「そうかもしれん。でも、まぁ大丈夫や。誰も逃げん。死なんかったらそれでええがな」
チーフは勝手口に身を乗り出すようにしてロンピーに火をつけ一服した。
「ふぅ~。わしが育った淡路島にも昔はいくつか飲食店があってな、そこには金のない人もぎょうさん食べに来てた。その人らが何の仕事をしてたか知らんけど、とにかくいろんな店から面倒見てもらって生きてやった。ちゃんとお金払ったんか知らんけど、別にもらいそこねてもええやん。新地のクラブみたいに何十万円の桁やったら別や。でも、しょせん食事代なんかたかがしれてる。それでその人が一時でも食えたんやったらええやんか」
まさかの斬新過ぎるその応答に絶句。払わない=何をしてでも払わせる、それ以外に僕には方程式はない。
「まぁ、松田のおっさんの深いことまではわからんけど、あのおっさんかて一応は仕事してる身なんやから、まともなところもあるはずや。空本くんのおかあさんにしても気持ち悪いのは確かやけど、きっといろいろあるんやで。他人にはわからん何かが」
うっそー。そんな思い方が存在するのか。チーフは本当に優しいのだ。
4.アカンけど親分痛快
ある日の夕方のこと、いかにもワイルドな感じの二人が店にやってきた。先に入ってきたのは、白色のスーツ姿で、絨毯みたいに細やかなパーマの男であった。テーブル席へつく。後を続いて入ってきたのは、アロハシャツにだぼだぼのジーンズ姿。こちらはカウンター席に座った。いくら狭い店で客がいないからといって、その着席の仕方はないだろうと思っているとアロハが大きな声を放った。
「アニキぃ、ビールたのみますか」
「おう」
あにきはタバコをくわえ、アロハがすかさずライターで火をつける。タバコを胸いっぱいに吸いながら、アニキが壁に貼られたメニュー札をじろりと睨む。スーーー、はぁぁぁぁ。
「おう、ビールと餃子と炒飯や」
想定外の可愛い注文を聞いたその時、この二人は前にも来たことに気がついた。そう、炒飯パラパラ事件のあの二人組みだ。今日も炒飯で絡む気なのか。
チーフはいつも通りのリズムで料理を始める。鉄板の火を上げ、餃子を並べる。次に赤ハム二枚を一センチ幅に切り分け、青ネギの刻みを小鉢に入れる。炒飯用のフライパンを火にかけ、ラードをたっぷりと入れ馴染んだらすべてを油入れに戻す。直後、餃子の入った鉄板に水をそそいで蓋をする。溶いた生卵をフライパンにいれ、ハムと下味をつけた炒飯をどっさり。オタマの背で叩くようにして固まったご飯を崩していく。店内に餃子の焼ける香ばしい匂いと炒飯のまろやかな香りが漂う。
こうしている間、二人組みの声と内容はやっぱりでかい。
「アニキぃ、駅前の福島組にガサが入りよったらしいですわ。駅向うの江島組との抗争が騒がしゅうなってきましたでぇ。わしらは見てるだけでよろしんでっか」
「あほぅ、そんな喧嘩に顔を出してる暇はあらへん。そんなことよりもっとシノギを積んでこんかい。おぅ、あと今度の会合場所は決まったんか」
「へぇ、新大阪のすかいらーくですわ」
そんな話をしているうちに炒飯と餃子を提供。アニキは足をかぱっと開き、犬のように荒々しくふがふがとレンゲを口に突っ込む。そしてくちゃくちゃと音をたてながら、チーフのほうへ振り向きこう言った。
「おぅ、餃子がぼろぼろやないか。皮がめくれて中が出てきとるぞ。もっとちゃんと包まれへんのかい」
チーフはちらっと見るだけで相手にしない。
すると舎弟を前にしてアニキが噛み付いた。
「なんや、中華屋のくせして餃子もちゃんと包まれへんのか」
するとチーフはロンピーを片手に、片方の眉毛を上げてこう言い返した。
「ほなもう一人前焼きまひょか」
「はぁ~ それは店の奢りかい」
「いや、奢りやあれへん。わしはなんも悪いことしてへんのやから」というと今度はアロハが大きな声をだした。
「なんやとっ、うらぁ」
と、その瞬間、暖簾がめくれて扉がゆっくりと開いた。カラカラカラ。
なんと、親分ではないか。そう、地元に二組あるうちの一つの組長さんだ。必ず一時間ほど前に予約の電話を入れてから来るのに、この日は珍しく電話なしでのご来店であった。
親分は瞬時にその異様な空気を読み取ったのか、1歩入ったところでじっと立ち止まっている。年齢は六〇歳代半ばくらい。肩に上着をかけ、下は白いシャツ姿。やや薄くなった白髪をオールバックにしていて、映画「ダーティハリー」みたいなサングラスをかけている。
とその直後、先まで騒いでいたアロハとアニキが、椅子から転げ落ちるようにして直立不動となり「おざいっす!」と水差し鳥みたいに頭を下げた。
すると、親分は彼らの前をゆっくりと歩いて奥のテーブルへ向かい、そのすぐ後ろからいつものお付役の大柄の男が入ってきた。こちらは芸人のキムニーそっくり。大柄のキムニーは入口に立ち、二人をじろっと睨んだかと思うと今度は親分がくるっと振り向き、低い声でこう言った。
「おどれらここで何をさらしとるんじゃ」
「はっ、えろうすんませんですっ」と頭を下げるチンピラ二人。
続いて大柄のキムニーが恫喝。
「お前らみたいなチンピラが来るところやない。はよ失せろ」
「はぁっ、えろうすんませんっ」
二人は血相を変えて直立したまま何度もお辞儀をして、逃げるようにして外へ出て行った。奇跡のタイミングであった。椅子に腰をかけた親分がサングラスを取り、チーフのほうを見る。サングラスを取った親分の素顔を見たのは初めてだ。想像通りの細く鋭い目つきで、きりりと吊りあがった眉はどうやら刺青のようである。
「えろう悪かったね、この通りですわ、わしのほうからも謝るさかい許したって。あのチンピラは隣の○○組のもんでね。堅気とスジの区別もできんアホですわ。お代はわしが払うよって、ほんますんまへんなぁ」
「すんまへん」と、大柄のキムニーも頭を下げる。
チーフは照れくさそうにしながら「いやいや、そんな親分さんに頭下げてもらったらこっちが悪いわ。チンピラや思うて相手にしてませんでしてん」
「いやいや、すぐに買ってたやん」
その後は何事もなかったかのように、穏やかで和やかな空気が漂っていた。親分たちはいつものようにビールと骨付きの唐揚げや餃子、豚肉の炒りつけなどを平らげ、これまたいつものように他のお客が来店した瞬間に席を立ち、お勘定。
電卓で計算した僕が三、四千円の金額を告げると、親分はさっと一万円を出して「ほい、さっきの分も、これで足るか」
「へ、足り過ぎます。お釣りあります」
「釣りはいらんから」
「いやいや、それは困ります」
「ええから。ほな、ごちそうさん」
「おおきに、ありがとうございます」
大きなキムニーがすかさず出口に向かって扉を開け、楊枝をくわえながら再び肩に上着をのせ親分がゆっくりと店の外に出る。直後、キムニーがいつものように深々とこちらに頭を下げ、ゆっくりと扉をしめるのであった。
そのスジの人すべてを英雄視するわけではないが、少なくともダーティー親分と大きなキムニーはとても魅力的な人に見えた。また親分のおかげでこの裏町の平和は保たれていた。
5.変わり行く仲間との距離感
ある夜、家族同然のように付き合ってきた浅賀夫妻とその兄貴が来てくれた。浅賀は何度か『新大蓮』に来たことはあるが、それは殆どが空本同伴か、かつて二階で麻雀に明け暮れていた時のことで、客としては二、三度しかなかった。
彼は男のけじめとして、中学三年の三学期から同棲してきた彼女と、ついこの間結婚式をあげたところである。同時に、大人顔負けの経営センスで独立起業も果たした。まったく何をさせてもキレ味の鋭い男である。
いっぽうの兄貴というのは弟とはまったく逆で、とにかく取扱要注意な危ない人。僕らよりも三歳年上で、中学時代は喧嘩とバイクの暴走に明け暮れていた札付きのワルだ。でも、同時に類希な純粋な心の持ち主でもあった。
僕とは共にバイクレーサーを志した仲で、当時は整備やサーキット巡りなど、ずっと兄貴と共に行動してきた。僕が断念して、しばらくしてから彼もレースを辞め、今はアウトローなややこしい仕事に手を出していたようである。
「どうやカワムラ、店もええけどそろそろ目を覚ませ。俺らはもう二〇歳を越した。チーフがいる前でこんなこと言うのもなんやけど、いい加減、仕事のことを真剣に考えろ」
バイクレーサーを目指していた時から彼は僕のことをいろんな意味で気にかけてくれていた。金がなくなるたびに一日一万円で雇ってくれたり、メシをご馳走してくれたり。そして、しばしば「いつか一緒に働こう」と声をかけてくれていたのである。
「武田ももう結婚したことやし、次はいよいよお前やろ。そのままでは女も食わせてやられへんぞ。はよ男になれ」
そう、日産自動車の営業マンとして真面目に働き続けていた武田が、つい先日、16歳の時から付き合ってきた彼女とめでたく結婚式を挙げたのだった。
「ふむ、そうやな。しかし俺はまだ」
将来像がまだおぼろげな僕は声に詰まった。
「前にも話したけど、はよう俺の側近になれ。お前の席はもう用意できてると言ってるやろ。早く稼いで、それから好きなことをやったらええやないか。お前は夢ばかり見てるけど、現実はやっぱり金や。金さえあれば好きな女もお母さんも守ってやれる」
一流企業に勤めていても女に捨てられる道山さんがいるかと思えば、中卒でもすでに何千万円も稼ぎだし家を買おうかと思案している浅賀のような同級生もいる。
このような超やり手な男が常に気にかけてくれることは嬉しい限りだが、それでも僕の中で何かが引き留めるのであった。
「なんやよくわからんけど、俺は飲食業の道で生きていきたい。料理人なんか経営者かはまだわからん。もしかしたら両方かも知れん。とにかく浅賀のやってる鉄鋼業には興味がわかない」
「ほんまにお前はアホや。ここに年間何百万円も稼げる仕事があるというのに。俺はお前らと共に大きくなりたいと思ってる。信頼のできるお前らが会社の主要メンバーになってくれたらどれだけ心強いか。ええか、そのためにもはよ結婚せえ。空本も同棲してる彼女といつ結婚してもおかしいない」
「うぅん、でも俺は夢を追いかけたい。夢を実現するのとお金を稼ぐことが一緒ではアカンか。俺はそれが両立できると信じてるんや」
「ふふふ、夢と稼ぎの両立か。お前らしい考え方やのう。でも現実をよう見てみろ。例えばこの餃子を一個作るのにどれだけの技術と時間と金がかかるんや。そして例えばそれを8個300円で売ったとしていくらの利益がでるんや。この餃子を何個作って何個売ったらいくらの家が買えるというんや。もしかしたら賃貸か。車は買えるのか。そういうことをお前は考えなあかん。チーフはええ。はように修業して独立開業できたんやから。でもお前はもう二十歳を越して、まだ仕事の覚悟もできてない。それでは彼女もお母さんも不安でしょうがないぞ」
浅賀は中学時代、周囲から番長として崇められてきた男。本人はそんな気はさらさらないのに。それほどに頭脳明晰な男であった。
「ほんまに浅賀からそんな風に言われるのは嬉しいと思ってる。俺らは何をするのもいつも一緒やった。これからもずっと一緒に、と思ってる。確かに俺はお金も今まで積み上げてきたもんもないから人の何倍も頑張らなあかん。でも、自分でもよくわからんのやけど、どうしても飲食業で生きていきたいって思うねん。何とかこの道で成功できへんかなって」
「だからちゃんと計算してみ。三〇〇円の餃子や五五〇円の炒飯で年商はいくらになるんや。そこから経費を差し引いて自分の取り分はいくらになるんや。チーフは職人気質やし、ちゃんと腕があるからなんとかなってんねん。でも、お前のどこが職人気質や。人好きで寄り道ばかりしてるヤツが職人にはなれん」
これほどに的確に言われると返す言葉がない。
「お前が前に手伝いに来た時に作ってたジョイントあったやろ。直系十センチほどのパイプが三つ交差したやつ。あれでいくらになると思う? 一個五万円や。原価はざっと一〇〇〇円いくかどうか。あの時の注文が五〇個やったから一日で二五〇万円の売上。一個作るのにものの五分程度や。溶接は俺がやってお前が組んで半日で終わったよな。悪いことは言わん。みんなで一緒に生きていこう。空本もそのうちバイク屋辞めるやろう。夢というものは見るためにあるもんで本気で追ったらあかんのや。そのことをバイクレースで痛いほど知ったはず」
正直、浅賀の包容力と鋭い指摘は何度聞いても心が揺れる。二〇歳を過ぎてまもなくの頃で、すでに上場企業の孫受け企業となり、年商一億ほどの売上を実現していた。本当にすごい男だと思う。
でも、いくら浅賀に目をかけてもらおうとも、僕の頭の中には彼と違う生き方が浮かび上がってしまうのである。これは理屈じゃない。なぜかそうなってしまうのだ。
「気が付けば飲食業の道に入ってしもた。前のような熱い感覚はないけど、不思議とやり甲斐を感じるんや。でも、鉄工所やらにはそれを感じない。この道ではもしかしたら失敗するかもしれん。けど、俺は飲食業界でやっていくような気がしてる」
浅賀は呆れた表情をしながらタバコに火をつけて大きく一服した。
「ふぅむ、お前は本物のアホや。でもまぁそれがお前の面白さでもある。俺は今までお前みたいに夢をもったことがない。そのワクワクしてくる感覚ってどんなんやろうと思う。いっぺんでええからその感じを味わってみたいもんや」
「俺は俺で頑張る。もし、どうしようもなくなったらそのときは頼む。頼むから俺の思うように生きさせてくれ」
「そうやな、誰にもタイミングというものがあるはずやから。でも、もう一度だけお前のために言うといたる。金は冷たいものやけど嘘はつかん。好きなバイクや車も買える。女も食わせてやれる。稼ぐやつの気持ちひとつで金の意味は変わるんやぞ。よう聞いといてくれよ」
浅賀の言葉はその辺の大人よりもはるかに重たい。
6.稼ぎと幸福感は両立できる、はず
浅賀たちが帰ってから、胸の中にずっしりと重たいなにかが痞えたままだった。不安があちこちから飛び出してきて、まったく整理がつかない。黙々と食器を洗っていると、勝手口の向こうからパチンコ部長の柳川さんたちのはしゃぐ声が聞こえてきた。いつものように会社の部下二名をつれての来店である。
扉が開いた瞬間に重たい空気が瞬時に吹き飛んだ。
「あかーん、今日はあかんっ。いつも出てる六十四番台、二十九番台も出ん。なんでや、いったいどうなっとる」と柳川さんが声を張ると二人も続く。
「あれはやっぱり裏から隠しカメラで見ながら操作してるに違いない。ほんま酷い店。どんだけつっこんどると思うとるんや。今月は赤字ですがな」
「おぃカワムラっ。はよ生ビールつがんかい。今日はもうヤケクソや」
それを見てチーフがぽつり。
「ほんまあのおっさんらはアホや。むかつくんやったらやめときゃいいのに。結局、勝負に関係なくパチンコが好きなんやなぁ」
「そう、行かなきゃいいのに。僕はあんな人生いやですわ。独身で寮生活で自転車しかなくて毎日パチンコ漬け。メシは会社の給食かその辺の大衆食堂か。そうこうしているうちに剥げてヅラになったらもう泣きます」
「ふふ、ほんまやなぁ」
その後、一通りの注文を受け、料理が一段落したところで、チーフはいつものように勝手口に片足を乗せてロンピーに火をつける。僕もマイルドセブンで一服。
「それにしても浅賀君はほんまに大した男やわ。確かに何もかも凄い。たぶん彼の言うことの殆どは正しい。けど、わしはカワムラ君の思うようにしたらええと思うで」
「ほんまですか。正直この選択でいいのか不安ばかりです。本当に飲食業で稼げるんかなって。いや、生き抜いていけるのかって」
「なんでもやってみなわからん。ええやん、もし失敗してもまた新たな道が開けてくるって」
「またそんな吞気なことを。飲食業の成功ってなんなんでしょうね。店長になること、とことん美味いもんを作ること、それとも独立経営することですか。独立はうちの家庭環境では無理かも。勤めで家が買えるんでしょうか。本当に家庭を築けるのかな」
「カワムラ君、人生の成功はなんぼ稼げたかやないとわしは思うで。そりゃお金は絶対必要なもんやけど。結婚や家を買うことも人によって意味が違うと思う。見てみ、あのおっさんらの顔。笑ってるか怒ってるか困ってるか、しかあらへん。子供みたいなもんや。金も家も車も嫁はんもないのに。ああやってみんなで言いたいと言ってるんが楽しいんやで。浅賀君が無邪気に笑うことってあるんかな。わし、まだ一回も見たことがないけど」
「彼は昔から学校一クールというか、冷静沈着、頭脳明晰なんですよ。中学時代、他校が寄ってたかって殴り込みに来たことが何度かあったんですけど、浅賀は手を出すことなく表情一つ変えずにあの調子で理路整然と話をして、相手は説き伏せられるというか、いつのまにやら納得させられてしまうんです。教師もみんな浅賀には一目置いてて、校内暴力で何か困ったことがあると教師たちが浅賀に相談に行くほどでした。中学生ですよ、凄すぎます」
「それはほんまに凄いわ。浅賀君は本物の天才なんやな。兄貴も紙一重やけど。どっちに転ぶかだけの話や」
「そうなんですよ。だから、本音か嘘か知らんけど、本人はそれがコンプレックスみたいなこと言ってることあります。カワムラみたいに何かに熱くなりたい、何かに夢中になりたい、自分にはそんな風になれる感覚がないって」
「ま、とにかくわしはカワムラ君を応援しとるで。そのまま行きたい方向に進んでいったらええと思う」
「チーフにそう言われたらちょっと安心しました。ほんま浅賀の話は説得力があり過ぎて。このまま突き進んでいきますわ」
客席ではパチンコ会議が延々と続いている。それを横目に勝手口の向こうを眺め続けるチーフ。するとチーフがすくっと背筋を伸ばした。
「あれ、あの子前にも見た子やわ。あれ、こんな時間やのにどうしたんやろ。残業かいな。お腹空いてるかもしれん。わしちょっと行ってくるわ」
また不安になってきた。
7.はちきれそうな卒業の杯
「くぅ、あかんかったわ。鶏天おごる言うたら、困ります、言われたわ。家帰ってからご飯食べるねんて。こんな時間やのにな」
「チーフ、せやからあきませんて」
「何がや。まぁええわ。それはそうとカワムラ君、そろそろ独り立ちしてもええかもな」
「は、突然なんの話ですか」
「いや、ゴールという意味やない。人間は一生勉強や。次のステージに移ったらええのとちゃうか、ということや」
『新大蓮』修行は早二年近く経っていた。喫茶&料理学校は一年で終了している。本業のカフェでは正社員として働き、一応はボーナスももらえていた。
「まだまだ勉強せなあかんような気がしますけど」
「せやから勉強は一生続くもんや。それだけやれたら十分。あとは進化していったらええ。それに店にとって大事なんは料理だけやないしな。仲間との人間関係、接客、工務的なこと、やらなあかんことは山ほどある」
「そうそう、実は支配人が僕をホテルのメインバーのマネージャーにすると言いだしてて。何年後かまだはっきりしないけど、近い将来、駅前あたりにホテルを建てる計画があるらしいです。料理とは関係のない世界で」
「おおっえやないか。ホテルのバーなんて、カワムラ君は意外に似合うかもな」
「そんな、せっかくここまで料理の勉強をしてきたのに。それにメインバーのマネージャーなんて自信ないです」
「いやいや、いろんな下積みを経て出来ることやと思うで。下積みが多い分だけ人の気持ちがわかる。その分、人からも信頼されるということでもある。信頼は大事やぞ」
「ホテルの仕事もええかもしれんのですけど、僕ちょっと自分を試してみたいんですわ。今の自分でどこまで稼げるのかを。そのためにもなんとか事業展開でけへんかなぁって」
「ほぅ、どう事業展開する言うんや」
「まだよくわかりません。とりあえず資金はないから普通に独立開業はでけへん。ならばそれに代わる技術やアイデアをため込んで、それを買う企業はおらんかなと思ってみたり」
「なんやよくわからんけど、とりあえず自分の思うようにやってみ。とにかく中華料理の修行はこんなもんで十分。わしができることとしたら、あとは調理師免許の援助くらいか。あんな資格は要らんと馬鹿にする人いるけど、ないよりあったほうがええ。確か二年の実務証明が必要やから、もし受けるんやったらわしがサインしたる」
「ありがとうございます。その時はお願いします」
「それにしても今までよう頑張ってきたな。わしもえらい助かったわ。給料を払ってやれんで悪かったな」
「いや、じゅうぶん頂いてきました。チーフには甘えてばかりで、お世話になりました」
給料は要らない、と最初そう告げてはいたものの、実際には毎月三万円ほどの小遣いを頂いていた。
「なんや、やっぱり卒業せなあかんみたいですね」
「ええことやがな。これからは本業に集中してやっていき。世の中は金だけやない、人だけやのうて自分の幸福感も大事やで。自分を信じてやっていくんやな。あと、そろそろ結婚も考えたらどうや。カワムラ君いくつになったんやったっけ。二二、三歳か。結婚は男を上げる。わしなんか二十四歳で結婚したんやで」
「うわぁ、結婚なんてほんまに想像もつきませんわ。彼女はまだ若いし、どうかな」
「まぁ、頭の隅に置いとき。それを目標に頑張ったらええいうことや。ふむ、今日はめでたいな。よっしゃ、カワムラ君の卒業祝いに飲みにいくか。千里丘にええスナックがあるらしいねん。そこ行ってみるか」
「うわぁ、いいですねっ、行きたい行きたい!」
こうなるとチーフはお客に冷たい。いきなり柳川さんたちに向かってにやにやとした表情で言い放つ。
「ええっと、みなさんっ。すんませんけど、今日は十二時で閉めることにしたのでとっとと帰ってください。えろうすんませんなぁ」
そう言うと叫ぶような声が返ってきた。
「はぁあ、なにを言うとるんや、わしらは客やぞおっ。そんなもんアカンにきまっとるっ。もう二度とこんぞ、こんなわがままな店っ」
チーフはにやにやとしたまま「まぁ、そういうことで」と言っただけで、依然ブーイングしまくる柳川さんたちをそっちのけで、さっさと掃除を済ませる。そして十二時になるかどうかという頃、本当に追い出して暖簾をおろした。
チーフの愛車マークⅡに乗っていざ出陣。
約三〇分をかけ隣町の千里丘駅に到着。駐車場に車を置き、商店街を、そしてやがて寂しい住宅街の中をひたすら歩いていく。
「こんなところに店があるんですか。どんな店やろ」
「ふふふ、わしも初めてやからようわからん。なんやえらい綺麗な子がおるらしいわ。ガイジンっちゅう話やで、えっへっへっ」
おっとチーフの歩きがまたゴリラ風になって、顔はオラウータンみたいに変身している。
やがて現れた平屋のアパート群。その間の真っ暗な道に足を踏み入れると、ぽつぽつ飲み屋らしき看板がでてきた。まさかこんなところに大人の小路があるなんて。チーフはきょろきょろと周囲を見回しながら歩いていく。そしてようやくお目当ての店を見つけた。
「おっ、ここや、ここや」
分厚い木の扉を開けるとそこは真っ暗な店内であった。いくつかのテーブルに赤や緑の薄暗いランプが灯っていて実に怪しい。するとどこからともなくオーヤンフィフィ(一九七〇年代に一生風靡した台湾出身の歌手)に似た女性が現れた。
「いらっしゃいませ~!」と低いながらもハスキーなお色気ボイスでお出迎え。
「こんばんはぁ。○○はんから聞いてきてん。わし、『新大蓮』ゆう中華屋のもんですわ」
「うわぁ~ん、聞いてる聞いてる、いつ来てくれはるか思ってずぅーーーっと待ってたんよぉ。めっちゃうれしいぃ~ 」
「うちの若いのん連れてきてん。間もなく世に羽ばたく期待の若手や。今日は卒業と将来を祝う酒を飲ませたろう思うて」
「あら~んほんまに若いわ。もっと嬉しくなっちゃった。ささ、こっちへ来て、奥のテーブルが開いてるわ~ん」
オーヤンがこちらを振り向くたびに、とてつもなく濃い香水の匂いが鼻を劈く。そして、歩くたびに、チャイナドレスの割れ目からちらちらと太ももが見えるのであった。そのむちむち太ももは椅子に腰掛けると、もっとむちむちになる。僕は急に心臓がドキドキと高鳴りだし、不整脈を乱発しまくり、恥ずかしすぎてとても直視できず、生唾を飲むのもぎこちない。まさに、鼻血ブー寸前。
それにしても、こういうときのチーフは本当にふにゃふにゃとなる。なんて屈託のないオラウータンなのだ。
「飲み物はどうするぅ」
「ふん、どうしたらええのかなぁ♪ とりあえずボトルいれとこうか。あ、僕はコーラをちょうだい。酒はこの子が飲むさかい」
「あぁぁぁん、嬉しいわ、ありがと。すぐに用意させるわね」
チーフがロンピーを咥えたとたん、オーヤンがすかさず火をつける。
「うわぁ~カワムラ君、あの子見てみぃ、奥のテーブルに座ってる子。真っ赤なドレスが最高や。めっちゃ綺麗な足やなぁ。たまらんなぁ。すーーーはぁーーー」
数分が経ち、でてきたリザーブウィスキーにミネラルウォーターを割ってくれるオーヤン。餅を引っ張ったようにとろ~んとした音色のサックスのジャズ、むらむらと盛って仕方がないエロい香水、そして赤色や紫色など色とりどりのチャイナドレス。悩殺の花園である。
「ほら、カワムラ君。ウイスキー大好きやろ。今日はた~んと飲みや」
「あらぁ、若いのにウィスキーの味がわかるの。今日はめでたいんでしょ。たくさん飲んでってねぇん」
照れ臭さを隠すかのように、僕はマイルドセブンを口にして自分で火をつける。と、いきなりどこからか別の女性が現れて、僕にぶつかるようにして隣に座った。
「あぁぁ、ワタシ、エリカと言います。ワタシ、ライターもってますヨ~」
見ると、金髪の長い髪に大きな目とたらこ唇の、どこかのガイコク人だった。彼女はコバルトブルーのチャイナドレス。うぅっ、割れ目からテカテカの太ももが見え隠れ。そして、やっぱりチーフが下から上まで嘗め回すようにして見ている。
「おぉぉぉ、この子はどこの子」
「ふふふ、新人のフィリピンよ。ちなみに奥のあの子は台湾。みんな綺麗でしょ~」
「ほんまやな~。フィリピンも台湾もめっちゃ可愛いなぁ」
「あん、いやらしい顔してもういややわ。ま、ゆっくりしてってくださいな」
こんな感じで乾杯をしてから、チーフはオーヤンといちゃつきながらコーラをお代わりし、年上のお色気フィリピン女性を横にして緊張しまくりの僕は、ひたすらタバコとウィスキーを交互に流し込み続けるのであった。
やがてチーフはオーヤンになにやら意味不明の会話を始める。
「あの台湾の子と話されへんかな~」
「ん、あか~ん、いまお客についてるとこやから」
「でも、ここって奥に別の部屋があるんやろ。ええねんやろ」
「もう、ほんまいやらしいわね。ちょっと待ってって。タイミングがあるから」
いったいなんのことかと、当時の僕はここがスナックの振りをした、実はイカガワシイ大人の遊び場だということをよくわかっていない。
だんだんと酔いがまわってきつつも、隣のフィリピーナ・エリカさんと身体が触れるたびにびくつく僕は、もうひたすらウィスキーとタバコを繰り返すしかできないでいる。
しばらくしてチーフがオーヤンに言う。
「カワムラ君ってめちゃめちゃ歌うまいねんで。ええ声してやるやろ」
「うん、ほんま、さっきからいい声してるなって思っててん」
「カラオケあんねんやろ。ちょっと歌わせてやって」
「うん、いま本を持ってこさすわ~」
店の中央部には小さなステージがあり、横に歌詞が映るモニターが置いてあった。客はおそらく七割は埋まってる感じ。この状況で歌なんてちょっと恥ずかしすぎる。でも、どうしていいのかわからないので、言われるがまま歌の本をぺらぺらとめくった。
「カワムラ君は夢芝居が得意やねん。ちょっとそれ入れたって」とチーフ。
その後、どんな客が聞いているかもわからない状態の中で、僕は夢芝居を歌いきる。オーヤンもエリカさんも大きな拍手で応えてくれた。席にもどってきた僕は依然緊張していると、今度はエリカさんが「ワタシ、日本のウタ、できま~す。ロンリーチャップリン、できま~す」と言ってきた。するとチーフが「ええやん、それ歌ってみ。初めてって。カワムラ君やったらなんとかなるやろ。ほら、はよ歌わんかい」
こうして半ば強制的にデュエットというものを初体験することになった。
「少年のように~ほほえんでぇ~~~♪」
僕が声を張ると「あなた~の帰る場所は~私~の胸でしょうね♪」とエリカさんがリズムに合わせ、ちらちらと太ももを見せながら自分の胸元に手を当てて歌う。それを見るたびに再び不整脈が酷くなり、喉がからからになっていく。彼女の舌っ足らずの日本語が愛おしく思えてくるのであった。もうアカン。
「2人をつなぐ あのメロディー♪ どこから聞こえるのか いつかわかるでしょうね♪」
このフレーズと同時にエリカさんの手の平が僕の手の平と重なり合った。
「見果てぬ夢がある限り Oh Baby~♪ Oh,Do what you wanna do again~♪」
歌いきったときには僕の指とエリカさんの指はぎっちりと絡み合い、離れないし離さない。手を合体させたまま仲良く席に帰ってくると何かが先までと違う。そう、チーフの姿がないのだ。オーヤンもいない。
「あれれ、チーフはどこへ行きましたか」とエリカさんに聞くと「ウゥン、ワタシ、ワカリマセ~ン」
辺りを見回すが真っ暗で何もわからない。時折、目の前を通り過ぎる人影を追っても、他の客か店の女性だったりする。どこへ行ったのか、きょろきょろとしているとエリカさんが僕の手をぎゅっと握り締めてこう言った。
「ワタシ、ここにいるよ。サビシクナイヨ、今日は一緒にノミマショネ~」
「チーフ! チーフ~~~っ!」
こうして僕は『新大蓮』をめでたく卒業した。
おわり
この後、色々あって社長とチーフは離別し、店は一時クローズ。二人の娘さんもいて迷走期を迎えたが、すぐに立ち直り店は再開し、引き取った娘さんたちもしっかりと成長。チーフは年上の元スナックママと再婚し、店をリニューアルするも体力的な不安もあり、経済的に安定感のある新幹線の清掃員として就職。現在は引退し、ビルの清掃員としてシルバー勤務している。
一方、その後の僕はカフェを退職し、高級スポーツクラブのラウンジ運営業者として受託。その後いろいろあって築地魚河岸で魚屋のあんちゃん、大阪箕面でバー開業、料理研究業、ライター業を経て、1998年に前妻の郷里である三重・松阪で日替わりインド定食屋を開業。一児に恵まれる。が離別し、2001年、帰阪。現在は再婚し料理研究家の端くれとして生きている。
現在、チーフは70代半ば、僕は50代後半になっている。先日、茨木北部の卸売市場内にある喫茶店へ行き、「いつまでも若くないんやから、嫁さんの話はちゃんと聞いて、仲良く生きていかなあかんで」などと言われながら、二人で大盛りランチを食べるなど、今なお付き合いが続いている。