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幻の迷店『麺酒房 かしわぎ』第六章


第六章 ヤキニク午前二時


 二〇〇一年一月、僕は松阪『THALI』を閉店した。気が付けば松阪を第二の故郷と言いきれるくらいになっていたのだが、これが東京や大阪ならまだしも、郊外松阪で余所者が一人で暮らすのは至難であった。特に、出会う人出会う人、少し話せば、すぐに前妻の友人知人、時に親せきなどにぶつかってしまうのはつらいものがあった。

 というわけで、実家はもうないが、ひとまずは出てきた街大阪へ戻る。今度は地下鉄やJRの入る新大阪駅から歩いて五分の単身者マンションだ。

 そして就職先を探そうとした瞬間、かつてライター時代にお世話になった大先輩から電話があり、東京のクライアントさんの仕事を手伝わないかと誘われ、以来、毎週のように上京することに。その後、東京で何かとご縁がつながり他にも仕事が増えていく。気が付けば僕は月の半分以上は東京にいるようになっていた。

 そんな矢先の二〇〇一年八月のこと。柏木さんから焼肉を食べに行こうと誘われた。なんと午前一時半に『かしわぎ』集合。店の営業が午前〇時か一時頃までなので当然と言えばそうだが、御歳七〇としてはワイルド過ぎる。

 新大阪から地下鉄最終電車に乗って心斎橋へ。土曜日ということもあり、心斎橋界隈は午前一時頃でも若者たちが飲み屋やクラブの前などでゴロついていた。

 適当に遠回りして堺筋を超える。そして守り神のスーパー玉出を通り過ぎ『かしわぎ』に到着。

 店の暖簾はすでに仕舞ってあって、提灯の明かりも消えていた。店内も真っ暗で人がいる気配はない。戸の鍵も閉まっている。あれれ、ついに柏木さんも呆けたか、と思いつつ、軽くノックをしてみると、もそもそと鍵を開けるシルエットが見えた。どうやら寝ていたようである。

 カラカラカラカラ。ゆっくりと戸が開いた。

「お、来たね。ま、入りなよ」

 柏木さんがカウンター側の照明だけスイッチを入れる。すると奥の小上り席の前にサンダルが脱ぎ捨てられているのが目に入った。オカンが寝ている。

「おかあさんも行くんですよね。大丈夫ですか、疲れてはるんやないですか」

「まぁいいじゃない。こっちはこっちで先に一杯やっとこうよ」

 まさかここから始めるの、とびびった。時刻はちょうど一時半。グラスに注いだビールに口をつけ、一息ついてカウンターに片肘を突いて切り出す。

「最近はどうなの。東京の仕事が忙しそうだね。たまには大阪の凹凸出版の雑誌は書いてんの」

 想定外の魔球は柏木さんの得意技だが、僕はビールを吹き出しそうになった。僕はライター業にカムバックしたのはいいが、実はその凹凸出版のことで大きな悩みを抱えていたのだった。

 そことは松阪へ越す前からの付き合いで、よく知る編集者も多く、僕にとある連載を持たせてくれていた。ただ、担当編集者は僕より十歳ほど年上の男性でアル中の鬱病もち。それがある頃から「お前は文章が下手だ、俺の方がうまい」などと編集者とライターの関係性を疑うような暴言を吐くようになり、おまけに周囲の編集者たちに僕の悪口を言い触れるようになった。

 それである土曜の昼下がり別件の用事で編集部へ行った時のこと。基本的には休日であったが、なんとそこに問題の男もいたのである。これがえらく絡んできた。

「ええか、お前は文の才能がないっ、この下手糞。俺が変わってやりたいくらいや。そうや、俺が書いたほうがよっぽどええわ。どうや、もう降りるか」

 言葉と共に吐く息が酒臭い。机の上にはウイスキーのボトルがおかれてあった。ついに僕の堪忍袋の緒が切れる。

「お前お前って誰に言うてんねん。お前こそ俺を守らんとあかんのとちゃうんか。育てんのが編集者ってもんやろ。酒に逃げてばかりで真っ当な仕事がでけへんお前こそ降りろ」

 そういい返すともう一人の編集者が慌てて僕の手を引っ張り「もうそれ以上言わんといてくださいっ。〇〇さん、鬱病なんですっ」。

「何が鬱病や。俺をなんやと思ってる。こんなやつはよ首切ってしまえ。編集長に言うとけっ」

 この一件が問題となった。日がたつにつれ、「カワムラが切れて〇〇さんを殴った」とか「休日の編集部に押しかけてきて大声を出した」とか「編集長を出せと言って暴れた」とか、どれも捏造された悪評だ。こうなると負の連鎖は続くもの。

 しばらくして、その雑誌で何かの特集があり、性懲りもなくその問題編集者から連絡があり、ネタを出せと言ってきたので「なんで俺がお前の仕事をせなあかんねん。それこそ降りる」と言ったら、その日の晩、編集長が問題編集者を連れて新大阪の僕のマンションまですっ飛んできたのである。そして近くのファミレスへ行き、とうとうと話を聞かされた。

「カワムラ、お前の気を悪くしたんやったら俺が謝る。この通りや、すまん。彼はな、前々から鬱病があって、その時々で調子が変わるんや。どうか多めにみたってくれ」

「いやいや編集長はなんですか、俺よりもこのおっさんの味方というわけですか。なんで俺が折れて、このおっさんが守られなあかんの」

「おいおい、言い過ぎや。聞いてくれ。この通りや。せやから許したってくれ。特集も連載も何とか一緒にやってやってくれ」

「いやお断りします。もう勘弁。やればやるほど気持ちが悪くなる。心が萎えたらそれこそええ文は書けません」

「お前プロやろ。私情を入れるな。この通りや」

 その編集長は長い付き合いで、今まで幾度となく特集を一緒にやったりしてきた仲だった。それだけにこの時はショックだった。むしろ、アル中のおっさんの暴言よりも。

 さらにショックだったのは、その後、編集部内外で僕の悪評が独走し、キリンの首は長い、と言ったはずが、いつしか象の鼻は長い、みたいな、そんな風に捏造が肥大しどんどん歪曲化していったことだ。信じていた多くの編集者や深くかかわるフリーランスの間でも噂になった。東京のカメラマンまでもが「カワムラさん◯◯さんを殴ったんだって?」と言ってくる始末。そういうことを言われるたびに、僕がいくら真っ向から正直に話そうとしてもなぜかハイハイというだけでちゃんと聞いてくれない。

 連載は終止符を打った。表向きは半年続いたからリニューアルという常套手段で。

 このことを柏木さんはどこからか聞いて知っていたようだ。

「いや、もう大阪のことが嫌いになりかけてます。僕の稼ぎの七割は東京。これを機会に大阪を出ようかなとさえ思っています」

「そうか。もう、いいよ、そんなの相手にしなくってさ。世の中、面白い人、目立つ人ってぇのは足を引っ張られるもんなんだよ。個人や組織に関係なく、そうやって妬みつらみをもつやつっているからね」

「でも、どうしても納得できなくて」

「そうだね。でももう相手にしちゃいけない。本当の編集者ってのはさ、いかにライターの素質を見抜いて引っ張り出すかが仕事なんだよねぇ。それもできないでライターの邪魔までするような連中を相手にしちゃいけないよ。世の中は広いんだから。フリーランスなんだから、もっといい編集者と出会わなきゃダメだよ」

 僕はグラスを握りしめる。

「カワムラ君はもう一人で大丈夫。ようやく敵がでてくるくらいのところまで成長したってこと。だからそんなことに気をとらわれてないで、楽しいことをこれからもどんどんやっていけばいいよ」

「ありがとうございます。そんなことを言ってくれるのは、ほんまに柏木さんだけで」

 そう返すと、柏木さんはビールをごくりと飲み干し、カウンターの上に置いていた僕の携帯電話をちらりと見る。

「あ、二時前だね。店、もう開いてっかもしれない、行こうか」

 柏木さんは小上がり席のほうへぽたぽたと進み、オカンの足をコンコンと指で小突き「おい、そろそろ行くよ」。

 もごもごとなにかを呟きながら、オカンが起き上がってきた。とてもだるそうにゆっくりと。

 我々は店を出て、スーパー玉出を通り堺筋方向に向かう。オカンは片手に巾着袋をぶら下げて、前につんのめるような感じでシャカシャカとサンダルをこすりながら歩く。意外に早い。一方の柏木さんは、前方の少し上方を見ながらぼんやりと緩やかに歩く。僕は柏木さんのペースに合わせて、オカンの後方五メートル付近をついていく。

 堺筋を越えてから三分ほどたっただろうか。一角に『味希』と書かれた暖簾があった。オカンはスタスタと、柏木さんはのそのそと続く。店は直角に曲がったカウンターだけの店で、すでに数人の客が肉を焼いて食べていた。我々は一番奥の席へ進み、奥からオカン、僕、柏木さんの順で着席。

 広い厨房に角刈りで赤いTシャツを着た中年男が一人。眩しそうな表情をしながら火のついた炭を七輪に詰め込んで我々の目の前に三つ置き、ドスの利いたガラガラ声で言う。

「よう、おはよ、大将っ」

 柏木さんは笑みを見せて、片手を総理大臣みたいに少しだけ上げた。

「何、今日は三人か。誰、あっ、わかった、息子さんやろ」

「ふふ、まぁそんなとこだよ。よろしく頼むね」

 僕も柏木さんみたいにホームベース型の大きな顔のせいか、今まで何度か親子と間違われたことがある。照れながら軽く会釈。

「ここはお兄さんが心斎橋のほうで店やってて、そっちは夕方から朝までらしくて。で、こっちは弟さんが二時頃から、ええっと何時までだっけ」

「昼過ぎまではやってるでぇっ」

「そう、とにかく水商売の連中がよく来るんだよ。俺も心斎橋に店があった頃は帰りによく来たんだよねぇ」

 店内を見渡せば、飲み屋帰り風の男三人組、黒服を着た呼び込み風の男と茶髪で大きなカールの派手な女性、二つほど空いて顔色の悪い中年男性が一人で目の前の七輪に向かっていた。

「ええっと、まずはビール。あと、タンとハラミ、ミノ三人前と、あ、モヤシも頼むよ」

「はいよぅ、了解大将っ」

 柏木さんは慣れた様子で注文した。少しばかり血圧が戻ったのか、オカンが目の前に置かれた七輪の下を撫でながら呟いた。

「ここのなにが旨いってさぁ、肉もいいんだけど、あたしゃあ、モヤシィが好きなんだよねえ。あれさえあればご飯を何杯でも食べられんだよ。ぶぁはっはっはっはっ」

「ほぅ、肉よりモヤシですか」

「そうなのよぅ。もういい歳しちゃってからモヤシがいいのぅ。で、そのモヤシがさ、ちょっと味がついてんだよねぇ。酸っぱくって、歯応えがよくてぇ」

 オカンは、いつもの虚ろな目でパチパチと弾ける七輪の中の炭を見つめながらそう話した。

 柏木さんがグラスにビールを注いでくれた。

「じゃあ仕切りなおしということで、はい、お疲れさ~ん」

「おつかれさまですっ」

 柏木さんはあっという間にビールを飲み干し、すぐにチュウハイを追加注文した。

「カワムラ君も今日は飲みなよ。さ、さ」

 そう言って、ビールがまだ半分残った僕のグラスに注ごうとする。

「はい、では僕もチュウハイください」

 塩タンが出てきた。柏木さんは自分の前に一枚だけのせた。

「もう勝手にやろうよ。さ、どんどん食べよう」

 チュウハイが入ったグラスを片手に、軽く焼いた塩タンを頬張りながら柏木さんが言う。

「もしさぁ、カワムラ君が大阪で作るならどんな本や雑誌をやりたいの」

「えっ、そんなの考えたことなかったです。そうですね、勝手に大阪食文化遺産を決めちゃうとか、大阪はインド人だらけ(当時)なのでスパイスをテーマとしたジャンルを超えた料理本とか。それから夫婦で経営するそば屋めぐりとか」

 オカンは背中を丸めて足をぶらぶらとしながら、いつのまにか片手に白飯を持ち、もう片手で肉を焼いたり、モヤシを摘んだりしている。

 柏木さんはチュウハイのお代わりを注文して、七輪にようやく二枚目の塩タンをのせてこう言った。

「ふぅむ、凸凹出版だけでなく、いま大阪の雑誌の多くが東京にとらわれすぎかなぁと思うね。ちょっと格好良く見せようとか、コテコテを嫌うというか。人間関係や言葉づかいもそんな感じでしょ。標準語を話す人がどんどん増えてるし」

 六,七枚めのタンを食べながらふむふむと耳を傾ける僕。

「大阪はもっと大阪らしく。東京からは見抜けない、大阪にしかできないことがいっぱいあると思うんだよねぇ。そっちの方がかっくいいし面白いと思うんだけどねぇ。そもそも究極的には江戸も浪花も実によく似た文化なんだよ。庶民文化ってぇのかなぁ。江戸は本来、高級志向じゃなくて庶民志向だから。見てくれや格好よりも、どれだけ味がよくて、店にポリシーがあるか。それにリーズナブルってぇのも重要。そりゃ大阪人みたいに口にしないけどね。でも同じこと思ってるよ、安いほどいいやって。人が好きで、みんなに喜ばれることをしたいっていうその心意気が心の奥底にある。そこが共通してんだよ」

 ハラミの脂とタレで唇をギトギトにして聞いていたら、店の角刈り店主が八百屋みたいな威勢で声をかけてきた。

「おぅ、息子は酒いらんのか」

 僕は実は酒が弱い。三〇〇ミリリットルのグラス半分でもう顔は真っ赤っかだ。無理してチューハイお代わりとロースを頼んだ。

「よっしゃ、若いんやからがつがついったれ」

 柏木さんは箸よりしゃべりのペースが進む。

「だから大阪人はコテコテを嫌っちゃいけないよ。それはこの街のユーモアなんだから。最近はさらっとクールぶったりすることが増えてるようだけど、そういうんじゃつまんねぇっしょ。常識なんて関係ないって。誰が何と言おうと、食べたい時に食べたいものを食べるっ、みたいに」

 タバコに火を点けて一服した後、柏木さんは自分の前にあったタンやハラミを全部僕のほうに寄せた。

「おいおい、本当はもっと食べんだろう、ほら、ロースもきたよ」

「ところで柏木さんって、こんな午前さんにメシ食っても大丈夫なんすか。 もうええ歳やのに、堪えるんやないですか」

「それがねぇ俺もいい歳してんのに元気だなぁって自分でそう思っちゃうんだよねぇ。実はさ、最近またトレーニングを始めたんだよねえ」

「数年前も確かやってはりましたよね。でももう無理せんほうが」

「いやいやぁ、それがさ、この歳になっても筋肉ってつくんだよ。ほら、太股なんてぇどうよ。その辺の若いのには負けてねぇって」

 柏木さんは僕の足をちらりと見た後、自分の足をパンパンと叩き出した。触ってみると確かに硬く張っている。年寄りの身体とは思えない。

「なんちゅうかさぁ、どこまでいけるのか試してみたいんだよね。やってみると身体が変わるもんだから、なんだか面白くて。本当、もう爺のはずなんだけどねえ、自分じゃまったくそんな気がしないよぉ」

「へぇ、そんなもんですか。だったら聞いちゃいますけど、柏木さんて若い女性を見たらドキドキしたりすることってあるんですか」

「あぁするよ、ドキドキってほどじゃないかもしれないけど、こう胸が湧くつく感じはあるねぇ。若い女性特有のエネルギーっていうかパワーも凄く伝わってくる。でも、それに圧されてしまうというか、若い人みたいにがっつく感じがもうないんだよね」

「そうですか、でもやっぱり高齢者とは思えないです。まだまだ現役の気配濃厚です。島之内みたいな静かなところでそば屋ってのもいいんですけど、もう一度なんかガツンとやってくださいよ」

 いつのまにか冷酒までオーダーしていた柏木さんは、ふにゃふにゃの顔になっている。僕も気が付けば呂律が怪しくなってきた。

「そうなんだよねェ、実は俺も本当はやってみてえんだよねぇ。やっぱし雑誌を作りたいかなぁ、本も作りたいねぇえぇ」

「うぅ柏木さんっ、もっぺんやってくださいよ。俺、どこまででもついていきまふから。店は誰かに任せちゃって、なんだったら僕が編集部か店どちらか担当してもいいでふし」

「ふふふ、いいねぇそれ。大阪にしかない大阪だけの雑誌や本を作ろうか。どうでもいいようなことしか書かないっていうねぇ、超マイペースなのを」

 柏木さんは両手でカウンターの端をつかみながら、上半身を前後にゆらゆらとさせだした。

「だぁけぇどぉ、問題は資金だねぇ、金。俺は大阪の広告の仕組みが今いちよくわかってないんだよなぁ。東京だと大手の代理店で事が済むんだけど、大阪はその企業と古くから付き合っているような小さな代理店がいっぱいあるみたいで。昔こっちで雑誌を立ち上げたときもそれでけっこう苦労したもんなぁ」

「お金のことはまったくわかっていません。いったいいくら必要なのか、どうしたら儲かるのか」

「うん、あの世界は店とは違うことは確かだねぇ。利益は広告でしか出ないんだよ。言ってみれば本はタダでもいい。ほらフリーペーパーってあるでしょ。あれこそが雑誌の原点だよ。まぁ書籍はちょっと違うけど。店はストレートでいいよねぇぇぇ、いくらで仕入れておいしく作っていくらで売るっていうねぇ。まぁいいや、難しい話はよそう。あれ、なにぃあんまし食べないねぇ、ほら、もっと食べなよ」

「はぁい、ほんならキムチくらさい、あとレイス(冷酒)をもう一本」

 ふと反対側を見ると、オカンはカウンターにへばりつくような格好で熟睡していた。店もいつのまにかお客でいっぱいになり、あちこちから肉の焼ける煙が立ち上って店内は真っ白になっている。

 その後、二人の宴はますます深まり、幼少時代に見た戦災で荒れ果てた東京の街のこと、ご自身で雑誌編集局を立ち上げたが大失敗に終わったこと、かつての職場マガジンホームの編集者はなぜか早世が多いこと、東京には各地に各出版社や作家が集まる飲み屋が点在すること、店創業時に実は手打ちうどんもやっていたこと、などなど面白すぎる話をたくさん聞かせいていただいた。

 時刻は五時を過ぎていた。店からガラス戸の向こうを見ると、外が白みかけて透き通ったブルーに見える。そろそろお開きとなる。柏木さんは舌がほとんど回らなくなるほど泥酔しているというのに、僕に勘定をさせることなくその場を仕切る。

「ってやんのぉぉぉ、先に出てなってえぇ」

 店を出て、我々はふらふらになりながらなんとか堺筋の方へと向かう。オカンは青白い顔をして無言のまま、こちらを振り返ることなく前につんのめるようにして歩き、気が付けば姿が見えなくなっていた。

 僕と柏木さんはようやく堺筋の交差点に立ち、赤信号が変わるのを待った。信号が青になっても、柏木さんはS字によたよたとして、なかなか横断歩道を渡り切れない。僕が横について歩いた。

「あぁ俺ぁ大丈夫だかんさ、カームラ君はこの辺で帰りなよぉ」

「いやいや、部屋まで送りますよ。足がふらふらやないですか」

「大丈夫だってえの。俺ぁいつもこうやって帰ってんだからさぁ、ぐひっ」

 すでに信号は赤に変わっていたが、我々が渡り切るまで一台のタクシーが発進するのを待ってくれていた。柏木さんは僕の肘に手をやりながら言う。

「ほらあ、そこにタクシー、ほら。大丈夫だから、帰りなって」

 仕方なく僕はタクシーに乗り込み、行き先を告げてすぐに後ろを振り返った。三歩進んで二歩下がる、そんな感じで柏木さんは島之内側への路地へと消えていった。空は何事もなかったかのように青から白へと明るくなっていた。

 なんや、結局柏木さんはタンを二枚しか食べてへん。


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