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蕎麦変人おかもとさん #16

第十六話 最終回 愛と個。激動の二〇〇四年


 二〇〇四年になった。岡本さんとは依然連絡がつきにくい状態ではあったが、状況はある程度わかっていた。ひとつは、ついに退職したこと。もうひとつが、各地のマンガ喫茶を転々と寝泊まりしていること。

 一方の僕は二〇〇一年の帰阪後、ますます多忙となっていた。仕事の内容もディープな企画が多くなっていた。何ページにも渡るスローフードの旅の連載、著名な料理研究家のテレビ番組の構成など。

 大阪のマンションは借りたままだが、いつしか生活拠点も東京ベースとなり、やがて年上の彼女ができ、彼女が住む横浜に泊まることが増えていた。

 そして東京の仕事が少し落ち着いた春、僕は再婚し、大阪北部の千里ニュータウン、昭和のレトロな団地に住むことに。彼女は左党で、特に『かしわぎ』さんとは親しくしてもらっていて、自分の職場の仲間に紹介したり、柏木さんとはなにかと会話が盛り上がることが多くあった。

 そんなときだ。誰も予想だにできなかった大事件が起こったのである。

 七月の末。夜遅くに一本の電話が鳴る。こんな時間に誰だ、と思い携帯電話を見ると、以前『THALI』にも来てくれたことのある編集者Nからだった。

「あ、ケンちゃん、今話しても大丈夫かな。驚かないで聞いてね。すごくショックな話なんだ……」

 彼女の声が上ずった。

「あのね、柏木さんが、死んじゃったって……。でも、噂、噂だよ。私も信じてないから。本当のことわかんないんだけど、でも、でも、こんなデマが流れるとも思えない。脇田さんからさっき電話があって、そこで私も初めて知ったの。だからケンちゃんのほうからも確認してほしいの」

 脇田さんというのは、柏木さんの唯一の弟子のような存在の人である。柏木さんは常々「弟子と師匠という関係は好きじゃない」といっていたが、この脇田さんだけには蕎麦打ちを伝授していたのだ。「なにがなんでも柏木さんが好き」と無理を承知で門をくぐってきた男気のある方だ。

 彼女のうなだれた声を聞いて、僕はその場に膝から崩れ落ちた。

「そんなアホな話があってたまるかっ。ついこの間も店閉めて、午前三時頃から一緒に焼き肉食べに行ったんやで。あんな元気な人が死ぬわけないやんかっ」

 時刻は夜の十時半。

 そうだ、店に電話してみよう。ひょっとしたら何かの間違いかもしれない。

 携帯の番号を押す指が震える。プルルル、プルルル……

「電話に出ろっ、柏木さん」プルルル……ガチャ。

「はい、柏木です」

「あっ、柏木さんっ、柏木さっん、河村ですっ」

「本日はまことに勝手ながら休業となっております。営業時間は夕方六時から夜の〇時まで。定休日は……」ピッ―――

 独特の間をもった柏木さんの、たどたどしい留守番メッセージが流れ、僕はゆっくりと電話を切った。

 いや、待てよ。今日は休みで家のほうにいるのかもしれない。滅多と電話することのない家の番号にかけてみる。が、いくら鳴らしても出ない。

 この夜、どうすることもできず、僕は布団をかぶってただただ咽び泣いた。

 翌日、Nに電話をして状況を伝える。そして脇田さんの電話番号を教えてもらい、すぐに連絡を取る。

 脇田さんのところへはどうやら東京のご遺族から連絡がいったらしい。だが脇田さんも詳しいことがわかっていないようだった。

 とにかく今わかることは、柏木さんは酔っ払って転倒し、道路に頭を打ちつけて、それが原因で亡くなってしまった、ということ。死亡推定日時は七月二十日の午前九時頃。死因は脳挫傷による脳内出血。葬儀は東京のご遺族のみで行われたという。

 ご遺族の方々に至っては、それこそ悲しむ間もないほどの、まさに青天の霹靂である。

 ただひとつだけ朗報ともいえるのは、その夜は次男さんが結婚の報告に東京からわざわざ柏木さんのところへ来ていたということだ。そういえばいつぞや、次男さんのお噂は耳にしたことがあった。

「下の息子がいい歳してるのにまだ結婚する気配すらないんだよね。河村君と同じ年頃だよ。河村君なんて結婚するのもう二回目でしょ。いったいあいつは何考えてのかさっぱりわかんないんだよ」

 その次男さんがついに結婚するとあらば、柏木さんにとってそれほど嬉しい話はなかったはず。至福の酩酊の中で逝った、と思いたい。らしい旅立ち方だったのだと。

 後日、ご遺族の許可を得て、僕とカミさんは『かしわぎ』の後片付けを手伝いにいった。店内に入ると、すでにある程度の掃除は済ませてあった。薄っすらと差し込む外の夕陽が、柏木さんがいつも腰掛けていたパイプ椅子と、白い蕎麦粉と埃で艶を失ったカウンターをぼんやりと照らし出す。

 椅子の横には蕎麦粉が入ったブリキの缶、無造作に延し台の上に置かれた延べ棒、その上には雑誌や新聞などが山積みとなっている。外から入る風に揺れる何枚かの干からびた紙を手にとると、僕が今まで書いてきた雑誌や新聞もごっそりと挟まっていた。いつも岡本さんが持ってきてくれていたのだ。

 周囲を見渡しているうちに、ふと、あることに気づく。それはボコボコに凹んだ計量カップが見つからないことだ。脇田さん、ご遺族の方に尋ねると、みんなも同じことを口にした。

「そうなんです。あの軽量カップだけが出てこないんです」

 さてはあの世へ持っていったか。

 夕方の六時過ぎ。そろそろお暇しようと店先にたつ。普段ならこの時間くらいから、「麺酒房」の文字が入った白い提灯がかかる。それが今は、艶を失った格子戸が硬直したまま。入り口の上に固定された『かしわぎ』の木の看板のみが寂しげに取り残されていた。これもまもなく取り外されることだろう。

 いつも帰るときに、柏木さんはここまで見送りに出てきてくれていた。あまりにも呆気ない幕切れである。

 きっと、常連客たちが心配するだろうな。いつものように来てみたら、もう店が消えてないのだから。そう思い、閉店のお知らせを店頭に貼っておいたほうがいいのではないかとカミさんに言うと彼女はこう応えた。

「いや、そっとしておこうよ。柏木さんならきっとそういうんじゃないかな。俺のことはいいから、って。あっちの世界でまた、にんまりとしながら酒でも飲んでるよ」

 確かにそんな風に言いそうな気がする。

 僕らはその場で店に向かって手を合わせた。柏木さんには一言では言い表せない思いが山のようにある。

「長いあいだ、本当に色々とありがとうございました」

 島之内の路地は、何事もなかったかのように今日も煌々ときらめく。スーパー玉出のネオンと道端を侵食する赤色や黄色のハングル語の看板。そして自動販売機を見て、ふと頭によぎる。

「そうや岡本さんに言わないと。岡本さん、電話に出るかな。ほんまにいったいどこにいるんやろう。この前連絡がついたのは、半年くらい前やったなぁ。その時は、なにやら仕事を探しているとか言ってたけど、依然住所不定のマン喫暮らしやったみたい」

「ダメもとで電話してみたら。大事な話だし」

 堺筋の手前あたりで岡本さんに電話をかけてみる。すると、まさかのまさかでつながった。

「お久しぶりです。河村さん、お元気ですか」

 想定外の元気な声に、何と返していいか戸惑う僕。簡潔に用件だけを伝える。

「いや、元気はないです。岡本さん、信じられない話があるんです。とてもつらいことがありました。柏木さんが亡くなられました」

 すると途端に岡本さんは絶句し、苦しく重たい息を吐く音が聞こえた。

「そうですか……」

 僕は声が詰まりそうになり、少し間を置いてから続けた。

「逝去されたのは七月二〇日ということです。酔っぱらってつまづいて、道に頭をぶつけたのが原因のようです。ぼくが今立っている、ちょうどこの辺。堺筋から例のコリアン通りを島之内側へ入って十メートルほど行ったところに路駐していた車があったそうで、その車を通りすぎたあたりで急に姿が見えなくなったそうです。その日は次男さんが東京から来られていて、ついに結婚するということになって、柏木さん嬉しすぎてバーボンをストレートで何杯も飲んだそうな。次男さんが堺筋交差点から柏木さんを見送っていたら、突然見えなくなったんだそうです。それで駆けつけてみたら柏木さんは倒れられていて、でもその時は、大丈夫、俺のことはいいから早く行け、と言って、それで一人でふらふらと帰っていったそうな」

「ふぅ、そうでしたか」

「葬式は東京のご遺族だけで行ったそうです。店はすでに掃除されていて、ほぼ空っぽです。ただ、例の計量カップがなくなっているのと、亀岡『拓朗亭』からきた石臼は置かれたままでした。あんな重たいもの、誰も運び出せないでしょうから、今度僕がレンタカーでも借りて、とりあえず『拓朗亭』へ返しにいこうかと思っています」

 僕は思いつく言葉を述べ続け、岡本さんは湿った息を吐くばかり。

「柏木さんはずっと岡本さんのことを心配しておられました」

「んん、どうもすみません。ご連絡、ありがとうございました」

 電話の向こうから、震える息がかすかに聞こえていた。

 一つの時代が終わりを告げる、大きな大きなため息であった。

 

 二か月が経った。

 プルルルル……プルルルル……

 携帯の画面を見ると、なんと岡本さんからである。

「もしもし、河村さん元気ですか。あのぅ、突然なんですが来月十月十日頃、蕎麦刈りに行きませんか」

「は、ちょっ、ちょっと岡本さん、何をわけのわからんこと言ってるんですか」

「前に群馬・高崎の蕎麦屋『せきざわ』さんのこと話してたでしょ。あの方の畑ですよ。すごいところにあって長野と新潟の県境にある栄村という秘境です。実は昨秋もお手伝いに行ってたんです」

「やっぱり、そんなことやと思ってました」

「あ、そうそう、まだ話してなかったですね。実は僕、今年の二月に群馬に越したんですよ。同じ群馬でも、新潟にほど近い水上高原というところ。新たな勤め先は一軒宿です。住み込みなんで助かりましたよ。いいところです。こちらにも遊びに来てください」

「なんとなんと、いきなり群馬ですか。なに、『せきざわ』に惚れてその場所にしたんですか。岡本さんならあり得る話でしょ」

「まぁそんなところです。とはいえ職場から『せきざわ』さんまでは車で一時間半はかかりますけど。こっちは何でも広くて遠いんですよ。もしお時間にゆとりがあるようでしたら関澤さんの修業先である『草庵』さんへも行きましょう。

あ、そうそう、僕は蕎麦刈り、最初の収穫から脱穀までお手伝いするので一週間ほど通いますけど、河村さんたちは無理のないようにしてください。蕎麦狩りは全部手狩りです。なかなか骨の折れる作業なのでご覚悟を。鎌は関澤さんのところにありますのであとはゴム長だけ用意して。それでは十月十日頃に。楽しみにしています」

 なんと、まさか群馬県だとは思いもしなかった。しかも北部奥地の日本有数の豪雪地帯とはえらく思い切ったものだ。今年は僕の再婚、岡本さんの再就職と大きな節目となった一年である。そして柏木さんの急逝はあまりにもショッキングだった。

 しかし、『かしわぎ』を巣とし、柏木さんを父のように慕ってきた我々がそれぞれ羽ばたき、何よりも最も気にかけておられた実のご子息のご婚約は、柏木さんにとっては最高にめでたいことだったろうし、ある意味、見守るというお役目でもって人生をやり遂げられたのかとも思う。

 蕎麦屋としてはどこよりも未完全であったが、編集業界の大先輩として未熟な僕を常に応援いただき、また人として岡本さん共々に常に大らかに迎えてくださり、楽しく、そして格好良く接していただいたことは忘れようがない。

 これ以降、僕は大阪を中心に、岡本さんは群馬で、それぞれ別の地で活動し続けるが、今なお蕎麦談義、蕎麦屋レポートなどのやりとりは続いている。

 柏木さんがこの世を去り、岡本さんとの蕎麦探検隊は一時休止しつつも、お互いそれぞれであちこちの蕎麦屋へ顔を出し続けること十数年。

 二〇二〇年九月十二日、岡本さんからメッセンジャーに連絡が入った。

「『味禅』日詰さんが逝去されたと、『なかじん』中村さんから連絡ありました」

 関西の蕎麦ムーブメントの草分けの一人、京都蕎麦維新の仕掛け人がこの世を去られた。なんやもう、みなさんどんどん去っていくではないか。いい思い出はもちろん山のようにあるが、僕の中の焦燥感のようなものが溢れてきてしょうがない。

 それは、もっとみなさんのこと、実寸大の話を、本当のことを世に広めたかったという焦りである。今まではせいぜい雑誌で、この店がおいしいから注目、なんて軽いノリの記事ばかり。それもいいのだが、彼らがやってきた本当のことをもっともっと世に伝えたかった。

 ご本人たちがあの世へ行ってしまっては何と言っていいのやら。それは後世を継ぐ者たちへの知識として、というよりも、その時代を築いてきた一人の立役者としての人生模様を味わってほしいという思いである。

 味は科学であると同時に未科学である。人柄、人間模様、情熱、思い、そんな古臭くて泥臭いものが古も今も最大の決め手となっていることは間違いない。

 たかが蕎麦、されど蕎麦。人間も同じこと。

 その大きなきっかけを作ってくれたのがこのタイトルにもなっている蕎麦変人岡本さんなのである。

 今、目に見えているものは、今、目に見えていないものによって支えられている。それをまた、今、生きている人たちによって継がれ、創り上げられていく。蕎麦に限らずどんなものも同じだと思う。

 おいしい蕎麦を創り上げてきたすべての先人に敬意を表してペンを置く。

 最後まで読んでくださった皆様、どうもありがとうございました。またどこかで蕎麦探検隊物語を再開したいと思っています。

 おわり。

 

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