蕎麦変人おかもとさん #1
第一話 蕎麦屋探検隊
岡本浩という男がいる。仕事はスポーツクラブでお客を出迎えたり案内するフロント係である。誰よりも早く出勤し、誰よりも遅く退社するクソ真面目の超働き者。休日でも服装は白いシャツにやや裾が高めのスラックス。顔と体系はタレント江頭2:50似の、どこからどう見ても超普通のサラリーマンだ。だが実は、この人が超ハイパー仙人レベルの「蕎麦変人」なのであった。
僕河村研二は十代から裏町のコテコテ中華料理店で働きだし、二〇代半ばで小さな飲み屋を経営し、二〇代後半から食をテーマに店や人についてものを書きだすなど、飲食にかかわる仕事歴四〇年になるが、これほどの蕎麦変人はいまだに見たことも聞いたこともない。
時代は一九九〇年代後半のこと。ネットや携帯電話は世に出だしていたものの、携帯電話を持つ人はかなり限定的。ネットに至っては、サイトの数は現代とは比較にならい少なさで、使い道としては一部の会社がデータの通信をする程度であった。
グルメという言葉も一部の雑誌や情報誌が使っているのをたまに見る程度。テレビではグルメ番組はおろか、人が大きく口を開けてものを食べるとか、いちいち大げさにおいしいと騒ぐシーンを観た記憶がない。食べ歩き自体が飲食業界者の一部か、あるいは外を連日歩き回るような営業系の極めて一部の人くらいしかしていなかったのである。
そんな時代に、外に出ることさえないフロント係の岡本さんはひたすら蕎麦屋を巡り続けていたのだから、よほどの蕎麦好きであることはもちろん、先見の明があるというかド変態というか、やはり蕎麦変人だ。毎月食べる蕎麦は三〇枚以上、蕎麦屋にすると一〇軒以上というから、もう完全に超魔術としか言いようがない。
これは彼の生まれもったハイパーな能力がなせる技に違いない、とずっとそばで見てきた僕はそう確信する。
大学時代のあだ名は「歩く電子辞書」。今風に言うなら「歩くコンピュータ」。一度見聞きしたものはほぼすべてを記憶し、そのつど必要な時にぱぱっと引き出せるのである。例えば電話なら、アドレス帳を開くことなく受話器をもってダイヤルしてしまったり。こちらがどこかの蕎麦屋の店名や場所を思い出そうと、あれなんだったかなと上を見上げると、すぐさまその店の名前はもちろん、店主の名前、代表的なメニュー、蕎麦のタイプ、値段などをつらつらと延べたり。
特殊能力は記憶力だけではない。目的地に合わせて、道路や電車の所要時間の計測と組み立てもものすごいスピードでやってのける。九〇年代後半まで普通の人間は、まず鉄道の路線図に目を凝らして、その後地図を開いて駅から歩ける距離なのか、バスがあるのか、タクシーを使うべきかを調べ、それがわかったら次はバスの路線や本数、タクシーのボリューム感をどうにかこうにかして調べ、ある程度の目途がつくまで最低でも三〇分はかかったものだ。
それを岡本さんは一度でも行ったことのある場所なら、「そこは○○行きのバスがあります」とか「○○線よりも、●●で乗り換え、◇◇駅から歩いたほうが電車の本数も多いし結果的に速い」などと瞬時にアドバイスが口から飛び出るし、未知の場所なら地図をペラペラとめくって、ふむふむと少し考えて、最終的に数分でアクセスを確立してしまうのである。今ではグーグルマップに文字を入力するだけでポーンと調べがついてしまうが、ついこの間までは移動方法を調べること自体が一仕事だったのである。
さらに歩く速さも尋常じゃない。心斎橋商店街や渋谷スクランブル交差点であれ、どんな人混みの中でも時にボクサーのようなフットワークを織り交ぜながら、超一流の競歩選手的スピードでさくさくと駆け抜けていくのである。かつて築地魚河岸市場内で勤め、人混みの細道を速足で歩くことに自信があった僕でもついていけないほどだ。
こんな超ハイパー能力の持ち主だからこそ、仕事がたまたま早く上がれる日とか週一日の休日に、行きつけの店でざる蕎麦五枚プラスアルファ(一品料理やご飯類)を平らげるとか、給料日やボーナス後であれば関西三府県をまたにかけ五、六軒とか、あるいは関東方面にでかけ一日七軒を行脚するなんてことができたのである。
そして何よりも、蕎麦、蕎麦屋に対する並々ならぬ愛情深さは、もはや仙人の域だ。お金が無ければ消費者金融へ駆け込むのもいとわない。蕎麦は当時でも上等なところへ行けば一枚ゆうに一〇〇〇円以上はする高級品。おいしければ二枚、三枚になることはざらだ。だが借金してまで食べに行ってることを蕎麦屋にばらすなど無粋なことは絶対しない。ずけずけと自分のことや自慢をひけらかすようなことはなく、常に謙虚で丁寧で優しく礼儀正しい。ましてや、どこかに口こんであげるとか、書いてあげるとか、人の注目を集められるからとか、そんな利害関係はゼロの人である。
こんな岡本さんだからこそ、あちこちの蕎麦屋からとことん愛されており、中には岡本さんとまだ会ったことのない蕎麦屋までもが、岡本さんの来店を心待ちにしていることもあった。これは関西に限らず、信州や関東にまでおよぶ。岡本さんと蕎麦屋のお互いが無条件の相思相愛の奇跡。業界の中ではちょっとした伝説の人だったのである。
そんな岡本さんと一九九五年の夏、蕎麦屋探検隊を結成した。総隊長はもちろん岡本さん。修行兼記録係が僕である。
目的は、蕎麦の味のする蕎麦を出す蕎麦屋と出会うこと。以上である。
岡本さんは三二歳、僕は三〇歳。岡本さんはすでに蕎麦屋に開眼していたが、特に蕎麦に偏愛することがなかった僕までもがなぜ蕎麦屋探検隊になったのか。
それは、ただただ単純に蕎麦とは実はうまいものだった、ということを明確に知ってしまったからである。正直、それまで蕎麦とはただただよくわからない食べ物だった。肝心の蕎麦の味がわからないのである。どの職場でも、人一倍味覚や嗅覚がいいと言われてきた僕だが、よく耳にする蕎麦の香りもわからない。大人の粋、酒、喉越しなどは、蕎麦そのものの味を指す言葉じゃないし。結局は、汁、だし、天ぷらなどのタネ類、ご飯ものなど、蕎麦の周辺パーツがおいしいおかげで満足しているという事実。もちろんこれらはめちゃめちゃおいしいものであるが、ただ肝心の蕎麦自体の味や香りがよくわからなかったのである。
そんな時に、蕎麦通や専門書などから「三たて」という言葉が目立ち始めた。これは「挽きたて」「打ちたて」「ゆがきたて」の三つの工程を指す言葉だ。ようするに蕎麦は鮮度がいいほどおいしいね、という意味で差し支えないと思う。当時、岡本さんが探し求めていたのは、この「三たて」を実践していた蕎麦屋ばかりである。
そこで「三たて」のパイオニアの一軒であり、蕎麦の味のする蕎麦をはじめて体験させてくれたのが、蕎麦文化と最も縁遠いように思われる、なんと大阪下町大正区のど真ん中にあった『凡愚』(一九九一年創業。二〇一五年『あまの凡愚』として和歌山かつらぎ町へ移転)である。もちろん岡本さんが連れて行ってくれた。
まず驚いたのはこちらの名物の極太蕎麦だ。一辺五ミリ(現在は一センチ)以上もあり、冷たい蕎麦のみならず熱盛り蕎麦も出していた。もちろん、ざる蕎麦として食べることもできるのだが、これをあえて椀によそった鴨汁につけて食べるのである。当時、鴨と言えば熱いかけだしに蕎麦と鴨肉を浮かべた鴨なん(関西では鴨なんば)が蕎麦屋の定番だった。そこに、北関東や東北式とも言うべく濃い醤油出汁の椀汁につけて食べるというスタイルを、少なくとても関西庶民の間でスターダムに押し上げたことは大きな功績だった。
店主の真野龍彦さんに聞くと「この食べ方は、開業当初、個人向けの電動石臼がどこにもなくて探していたら、大阪見本市でたまたま「ひこべえ」というサイズも挽き具合もちょうどいい石臼と出会って、これを開発した㈲吉野工業の社長から群馬の食べ方だと言って教えてもらった」と言う。
この極太の蕎麦がさらに面白いのが、熱いやら太過ぎるやらですすることができないことだ。蕎麦と言えばズバズバズバッと物を言ってなんぼだと思うのだが、こちらの極太熱盛は箸でつまんで口に入れ、まるでイタリア人がパスタを食べるように唇でもぐもぐと食べ進んでいくのである。唇でややざらついた感触を感じ、噛むとヌチッとした食感を感じ、むにゃむにゃと噛み締めると中からコーンと大豆を混ぜたような味がにじみ出てくるのであった。その時に感じたえぐ味も、農産物である蕎麦の個性であることを知った。
こうして『凡愚』では、単純に食いしん坊なだけの僕でも、蕎麦そのものを真正面から感じ取ることができたのである。
アパートの二部屋をぶち抜き、木彫りの緑色に塗られたオオサンショウウオの巨大な看板。壁にはツタが覆い茂り、店先にはいくつもの草花が配され、入口の待合スペースにはマスコットのべーちゃんという大きな犬がいつもお出迎え。どこをとっても、他の地にはない自由都市大阪らしさ、真野さんご夫妻のオリジナリティで溢れており、その弾けた面白さも含めて、『凡愚』は一気に全国区にその名を馳せた。
『凡愚』開業の一九九一年前後が、ちょうど全国的にも「三たて」蕎麦屋の開業、あるいは古い店でも「三たて」を新たに導入していく店が増えだした頃である。
蕎麦の味のする蕎麦はとてつもなくおいしい。そして恐ろしいことに、その余韻は記憶の奥深くにまで刻み込まれ、また食べたくてどうしようもなくなるといった中毒性も秘めている。
岡本さんは一時期、横断歩道を渡る際、白線を踏んでは「蕎麦っ、蕎麦っ」と一人でつぶやいていることがあった。おいしい蕎麦を体験するほどフラッシュバック率は上がり、人間の脳を占拠してしまうのである。
あぁ蕎麦切れだ。早く蕎麦をくれ。誰か蕎麦の味のする蕎麦を食べさせてくれっ。
「蕎麦を食わずして死ねるか」「うまい蕎麦ならどこまでも」
これが岡本さんの口癖である。こうして蕎麦の魔性に憑かれてしまった我々は蕎麦屋探検隊を必然的に結成したのであった。
つづく