バンコクの中華街の魅力について語る
アユタヤへ小旅行に出かけたのだが、その前にバンコク中華街に行った。ちょうど昼飯の時間であったので、麺屋に入った。
横丁というか、奥行きのあるショップハウス風の店である。中華系の店にはこういう作りの建物が多いように思う。
いかにも中華な店という風情を私は楽しんでいた。麺はバミー・キアオ・ナームを頼んだ。
しかし、しばらく待っても私の注文した品は来なかった。そして、ようやく女性の店員が近付いてきたかと思ったら、「あなたは何を注文したか?」と聞いて来た。
「バミー・キアオ・ナームだよ」と答えたら、店員は私の後方に移動した後に、くだんの麺料理を持って来た。どうやら、私の注文を間違えたらしいのだ。
それと同じくらいのタイミングで、後方から別の女性(客?)の神経質そうな高笑いが聞こえて来た。その女性客は店員が注文を間違えて受けたのを嘲笑ったのかもしれない。
店員から私に対する謝罪の言葉は一切無かった。おまけに下卑た嘲笑のノイズを聞かされるし、中々の不快な経験ではある。
それでも、私は「これが中華街なんだ、この野蛮さを受け入れないとこの街は楽しめない!」と自分に言い聞かせようとした。
この街はあまりにも人間的過ぎて、繊細な感受性など持ち合わせた人間だったら、メンタルを破壊されそうなくらい野蛮で、粗野で、無神経な人間が揃っているような街に思えた。
私はこんなバンコクの中華街を心底嫌悪しているのにも関わらず、時々、塩を舐めるかのごとく、中華街を散策したくなるのだ。中華街というのは言わば精神の塩なのである。
この街においては中年以上の男たちの半裸率もグッと上がるし、昼日中からそうした男たちが所在無げにふらふらと徘徊するような姿も多く見られた。
まともな近代人なら備えているであろう常識さえも、この街の人々には無関係のようだ。簡単に言えば無神経ということになるだろうけど、不思議な事だが、たまにこの無神経さを味わいたくなってしまう。
そうして、「やれやれ、やっぱり中華街は変わらんなあ」と一人、ボヤきながら、家路につくというわけである。
今回、中華街を歩いていて思ったのは、そのジャルンクルン通りというのが妙に観光地ぽかったという点だ。
確かに街並みは古い。そして、それぞれに何とも言えない風情があるのだ。
だが、気になったのはおそらく欧米の観光客などを想定したような街の看板のデザインなどである。妙に綺麗で洒落っ気があった。ここまで綺麗であると中華街の猥雑さが薄れてしまうだろうという心配も出てくる。
それと、先述の話に戻るが、中華街の人々の無神経さ、獣的な性質というのも、街の雰囲気を盛り上げるための装置なのではないかという事だ。彼らの獣性と古い街並みが渾然一体となって、観光地としてパッケージ化されているのである。
彼らが意図して獣的な人間、文明化されていない野蛮人のような下品さを演出しているかどうかについて私は知らない。
だが、意図的かどうかはともかく、その野蛮さが中華街の魅力を引き立てているのは確かな事である。
なぜなら、バンコクの中華街の人々の大部がもし物静かで、思索に耽るのを好むような人々であって、他人に対して親切で、心優しい気遣いに溢れるような人々だったら、きっと、街全体としての魅力は半減してしまうに違いないからである。