『不撓不屈』4年 二川 雅史
まず初めに、平素より東京学芸大学蹴球部に温かいご声援と多大なるご支援いただき誠にありがとうございます。
この場を借りてお礼申し上げます。
三品君よりご紹介いただきました。E類生涯スポーツコース4年の二川雅史です。
通称「さんぴん」こと敢(かん)君にはこの4年間何度も驚かされました。
関東リーグでのPK取り消し、審判なのにも関わらず「俺が試合の主役になる」等の迷言、中東(学芸)の笛、学年会での蛮行、などなど数えたらキリがありません。
もっと敢が主審を務める試合に出場したかったなとしみじみ思います。
そして、卒業できそうでよかったね!(笑)
今回は卒業ダイアリーということで、どんな構成にしようか迷いましたが、
小学校から大学までのサッカー人生の中で感じたこと、
考えていたことを時系列で振り返りつつ、
思うがままに書き進めて行こうと思います。
かなり長い文章になってしまうかと思いますが、
気になる部分だけでも流し読みしていただけると嬉しいです。
小学校-開西つつじが丘Jr.FC
高校教員である父親が高校サッカー部の監督を務めているほど、
サッカーが身近にある環境で育った自分は、2010年南アフリカワールドカップでの日本代表の快進撃をテレビで観て、居ても立っても居られなくなり、小学校2年生で地元のサッカースクールでサッカーを始めた。
すぐにスクールでは物足りなくなり、刺激を求めて小3からは学校の少年団、開西つつじFCに入り、本格的なサッカーがスタートした。
左利きというだけでなぜかちやほやされるのが嬉しくて
(レフティーのお母さんと幼少期にボールを蹴っていて左利きになったらしい、お母さんありがとう)、
今では考えられないが周りよりも足が速めだった自分は、少年団でもすぐに活躍することができた。
少年団には、後に明治大サッカー部で活躍するチームメイトがいたことで、向かうところ敵なし状態だった。
勝つことが楽しくて、たまらなくて、いつしかサッカーの虜になった。
毎朝起きたら、夜撮りだめたマンデーフットボールとデイリーサッカーニュースを朝五時からテレビでみるくらい(笑)
そしていつの間にか、自部にとってのサッカーは、楽しむためのものから、勝つため、本気でやるためのものに変化していった。
早速小4で北北海道3位になり、有頂天になっていたけど、
小5に上がるタイミングで上記のエースが他チームへ移籍して以降、全然勝てなくなった。
自分の無力感を痛感した。
ここが今振り返れば、サッカー人生初の挫折だったと思う。
そして小5、小6の2年間は地獄の日々だった。
勝ちから遠のいていくチーム。
そして、サッカーを楽しむためにプレーするチームメイト達と
勝つためにプレーする自分の間にある温度差。
この温度差の違いから、練習や試合中に仲間には何度も放送禁止用語の混じりの暴言を浴びせた。
今思えば本当に幼稚で愚かだった。
でもそれだけ勝ちたいという気持ちは誰よりも強かった。
そんなこんなで中学校は強いチームに入ってサッカーをするんだと意気込みながら、
たまにある選抜活動(トレセン)だけを楽しみに小5、小6はサッカーを続けた。
中学校-帯北アンビシャスFC
小学校での鬱憤を晴らすべく、中学校は北海道の十勝地方で1番手争いをしているチームに入団した。
いわゆるドリブルチームに近いスタイルのチームだったため、中1の頃はコーンドリブル、足技をひたすら磨いた。
それと同じかそれ以上に、信じられないぐらい罰で走りまくった。走らされた。
いわゆる罰走である。
中1の夏休みには松尾くんと自分がグラウンドに水筒を忘れたせいで、真夏の35℃の日に、コートの横幅を50往復したこともあった。
でも小学校の時と比べ、サッカーを1番に考え、サッカーに対して同じ志を持つ仲間やコーチングスタッフと一緒にサッカーができていたから辛い練習も全く苦ではなかった。
火曜日と木曜日にある練習が楽しくて楽しくて仕方がなかった。
中1の時はみんな背が小さく、成長の速いチームと戦うと体格差でボコボコにされたこともあったけど、ガクコーチの練習のおかげもあり、中2になり身体の成長が追いつくにつれて試合に勝てるようになった。
ガクコーチからは、サッカーに取り組む姿勢、目の前の1試合に対して徹底的に準備を重ねること、隙を作らないことの重要性など、その後の自分のサッカーの根幹となることをたくさん学んだ。
最終学年の中3の1年間はキャプテンを務めた。
チームのキャプテンを務めるのは初めての経験で、正直この1年間は本当に辛かった。
辛すぎて過敏性腸症候群になり、毎朝の中学校への登校中に必ず便意を催すという、謎の病気にも罹ったりもした。
このチームのキャプテンの難しさは、
やる気のないチームメイトを奮起させるというよりは、
やる気がありすぎて気が強すぎる仲間をどう1つまとめるかというところにあった。
ものごとの伝え方、2手3手先を読んで行動すること、試合に出れない仲間への気配りなど、苦しみながらも多くのことを学んだ1年であった。
自分たちの代は谷間の世代と言われていたけど、前年の成績を超える北海道2部リーグ3位の成績を残すことができた。
余談ではあるが、この時の北海道リーグの2部1位クラブフィールズには後の大学でのチームメイト真之介(橋詰真之介、4年)がおり、彼に勝てば昇格へ望みが繋がるという試合で、ヘディングゴールを沈められ、僕たちの昇格の夢は潰えた。
あの時に一緒に戦ってくれたアンビシャスの同期とガクコーチには本当に感謝しています。
高校-帯広柏葉高校
高校は大学でサッカーを続けることを見据え、
私立のサッカー強豪校ではなく、地元で一番偏差値の高い高校を選んだ。
自分が入学した年の3年生は黄金世代と呼ばれており、
インターハイでも札幌大谷と接戦の末ベスト8になるぐらい、
公立なのに強いチームであった。
中学のチームとはサッカースタイルが大きく変わったけど、
この世代の先輩達と一緒に高い強度でプレーできた数カ月間は本当に本当に楽しかった。
そして、先輩達と同じかそれ以上に、同期もサッカーに対する熱量が凄まじく、
今じゃ考えられないけれど、朝・昼・夕の3部練をみんなでこなすぐらい、サッカーが大好きな同期だった。
そんな仲間と過ごす日々は充実したものだった。
中学のチームとは比べ、フィジカル重視で選手主体のチームではあったけど、自分たちで弱点や戦術を分析し、話し合い、練習メニューを考える毎日は、自分にまた違ったサッカーの楽しさを教えてくれた。
一方で、冬場の降雪時に行われる、グラウンドの雪を踏み固めるまで終わらない雪上ダッシュや、-20℃の日に行う10キロの外周など意味不明なことも多々あったが、それもそれで自分の血肉となっていったのだと思う。いや、そう思いたい。
練習の甲斐もあり、自分たちの代になってからは、選手権・新人戦の地区大会準優勝やフットサルの地区大会優勝など好成績が続いた。
開催地枠で全道大会の出場も決まっていて、みんなの練習への熱量も凄まじかった。
しかしながら、最後の大会となるインターハイを楽しみにしていた最中、世間ではコロナウイルスが猛威を振い始めた。
忘れもしない2020年4月29日 インターハイの中止が決まった。
それは同時に、伝統的にインターハイで原則引退のチームであった、自分たちの高校サッカーが終了したことを意味した。
休校期間もZOOMトレーニングと少人数トレーニングを毎日続けた甲斐もなく、
インターハイが中止、引退となり、何にも手が付けられない日が3日ほど続いた。
この出来事で味わった無力感や怒りを、どうにか次への原動力に変えようとした。
不完全燃焼で高校サッカーが終わった後悔は残ったが、
大学サッカーでこの後悔を晴らそうと国公立で関東リーグに所属していた2校(筑波大・学芸大)を志望校に定め、5月からは受験勉強と体力の維持に励んだ。
2次試験では、タカ(石神貴雅、4年)と陽登(外川陽登、4年)のスーパーGK二人の力を借りたり、クマ(熊谷侑真、4年)と仲良くなったりしたり、紆余曲折あったが、なんとか学芸大に合格することができた。
未熟だった自分を受け入れ、一段階も二段階も成長させてくれた高校のチームメイト、
そして荒谷先生、山本先生には本当に感謝しています。
「一生の仲間」になれましたね。
大学-学芸大蹴球部
コロナに部活を強制的に引退させられてから1年が経った2021年4月、
念願であった学芸大蹴球部での活動がスタートした。
最初は1年生チームでの仮入部期間が続いた。
受験で鈍った体を戻す作業はハードではあったが、高校からは数段レベルの上がった環境でプレーするサッカーは、毎日充実感に満ち溢れたものだった。
また、当時のTOPチームの練習、試合を目の当たりにし、
あまりのレベルの高さに衝撃を受けた。
自分がこれまでプレーしてきた競技は、本当に同じサッカーだったのか思わされた。
そして、ここに少しでも喰らいつけるように、
最終的にはTOPチームの一員として関東リーグに出場できるように
4年間努力しようと決意した。
大学サッカーの出だしは好調であった。
1年生の6月ごろには運良く1年生チームからBチームに上げてもらうことができた。
おそらく左利きであることに、何かしらのポテンシャルを感じてもらったのだろう。
実際、自分自身も力が通用するんじゃないかという、根拠のない自信を持ち合わせていた。
しかし、Bチームに上がるとすぐに、レベルの高さに驚いた。
根拠のない自信は一週間もすれば崩れ去っていった。
全くボール回しについていくことが出来なかった。
はまるのが怖いからパスコースから隠れる。
声を出すことで自分の存在を正当化しようとすることで精いっぱい。
完全なる足手まといである。
当時の4年のこうだい君やうかい君に助けてもらいながら、何とか食らいつこうと頑張ったが、実力不足だった。
結局、7月にCチームに降格するまで、毎週末アイリーグのビデオ撮影や荷物運びをした。
そんな自分を横目に、ほぼ同時期にBに上がった五十嵐(五十嵐功、4年)や克明(高橋克明、4年)はBチームの中でも主力として活躍しており、劣等感を感じていた。
Cチームに降格してからは、厚木コーチにしごかれ、とにかく走って走って走りまくった。
「陸上するために大学サッカー部入ったわけじゃないんだけど」、と心では思いながらも、1年生同士で支え合いながら、オールコート1対1・2対2・3対3、朝イチのクーパー走、などの厚木くんのハードなトレーニングを乗り越えた。
たまにある試合では、色々なポジションで試合に出場した。
大学サッカー1年目は、
コロナ禍でCチームの公式戦は無かったが、
大学サッカーの厳しさを味わいつつ、4年間大学サッカーを戦ううえでの基盤を固めることができた有意義な一年であったなと思う。
2年目のシーズンも出だしは好調であった。
Bチームの監督がしょうま君になり、
今では考えられないが、試験的にアンカーの位置でチャンスをもらった。
練習では自分なりに多少の手応えを感じてはいたが、徐々にボロが出始め、結局この年も5月でCチームが立ち上がるタイミングでCチームに降格した。
またCチームかと思ったけれど、高校以来の中盤でプレーに手応えも感じていたことから、あまりネガティブな感情は無かった。
この1年はサタデーリーグを主戦場に数多くの試合を経験できた。
チームとしては勝ち星を落とすことも多かったけれど、久しぶりに年間を通して試合に出続けたことで、自分のプレーに自信を取り戻すことが出来た1年だった。
ボランチの相方だった真之介に獅子奮迅の運動量で助けてもらったり、創太(原田創太、4年)の安定感のあるセンターバックにさすがだなって感心したり、やぎ君やりゅうせい君の4年としての意地を最終節で感じたり、なんだかんだこの年のCチームが好きだった。
特にサタデーリーグ最終節の東京理科大学戦は2-2で迎えた後半ラスト10分に馬越のゴールで逆転した瞬間は、サッカーをやっている人なら誰しも感じたことのあるような最高の瞬間であった。
久しぶりに、「サッカーって最高だな」そんなことを感じられる瞬間だった。
一方、TOPチームはこのシーズン関東3部リーグに降格した。
そんなTOPチームの出来事を他人事のように感じてしまっている自分の立ち位置に、
たくむ(塚原拓夢、4年)や石澤(石澤航大、4年)、谷本(谷本虎翼、4年)などBチームで活躍する同期も増えてきた中でアイリーグでに絡めない自分に不甲斐なさを感じた。
そんな一年でもあった。
そして3年目、
例によって春先は調子が良かった。
3月の那須の全体合宿で、久しぶりにセンターバックでプレーしたところ、少しパフォーマンスが上振れしたこともあり、
運よく合宿後のTOPチームの練習試合に人数合わせではあったが出場することができた。
この調子でいけば、このパフォーマンスを継続すれば、
いよいよ今年はアイリーグに、あわよくばTOPチームに、
なんて期待は甘かった。
そんな儚い願いは叶うはずもなかった。
甘すぎた。
結局、監督は安定したパフォーマンスを発揮できる選手でなければ信頼して使うことはできない。
Bチームの監督のしょうま君の求める基準に達することは出来なかった。
この年も5月にはCチームに降格していた。
この頃になると、半分よりも上の学年になり、先輩よりも後輩の方が多くなってきた。
3年間でアイリーグの出場がゼロの自分には、
期待やチャンスが少なくなってきていることにも、うすうす気づき始めていた。
目の前の練習には全力で取り組んでいたし、ベストを尽くそうとはしていた。
しかし、元の能力値が低い自分が序列を覆すには、仲間の数倍の努力や工夫が必要であった。
ましてやピッチを離れてもサッカーにフルコミットしているような仲間達に勝つためには。
そんな突き抜けた努力や、現状打破をしようとする気概が自分には足りなかった。
しかし、沈んでばかりではいられなかった。
このシーズンは厚木くんが一年ぶりにCの監督として戻ってきてくれた。
厚木くんの元で、また1から頑張ろうと思った。
Cで活躍して、力を蓄えて、
しょうま君を見返そうと思った。
例によって厚木くんのハードで、ユーモアに溢れる練習に必死で食らいつき、
厚木くんから多くのことを吸収しようと努力した。
そして、5月のB・Cチームの振り分けの際に、まさかのC落ちになり、
一瞬部活を辞めそうになったところから復活を遂げた石澤と励まし合いながら、
何とか現状を打破しようと毎日練習した。
石澤、あの時はやめないでくれてありがとう。
途中で不慮の怪我で2ヶ月離脱したり、
(詳しくは以下のブログを見てみてください↓)
https://note.com/tgusoccer/n/nea5e14928b5e
勝ち星から遠ざかる期間が続いたこともあったけれど、
厚木くんとのサッカーを通して、
1年生、2年生の頃と比べ、周りの仲間よりはゆっくりかもしれないけれど、
自身のプレーの幅が広がる感覚、成長している実感を持つことが出来た。
厚木君の最終試合に花を持たせることは出来なかったりと、Cチームとしても、なかなか結果が出ないシーズンだった。
けれども、この年のチームも1年生から4年生まで個性的なメンバーばかりで、本当に練習に行くのが毎日楽しみであった。
Cチームだけど、どの選手に光るものがあって、
そんな1人1人の仲間から何か吸収してやろうと毎日躍起になっていたことを覚えている。
そんな中、9月には教育実習中ではあったが、チーム内にコロナ感染者が続出した影響で、Bチームのアイリーグにも3試合ほどベンチ入りすることが出来た。
結局試合に出ることは無かったけど、一歩前進できた、やっとスタートラインに立てたなという感触を持ってシーズンを終えた。
TOPチームの試合に出場するという、
入部当初に目指していた場所からはかなり遠く離れてしまったかもしれない。
しかし着実にゆっくりではあるが、少しずつ自分のサッカーが成長している感覚があった。
アイリーグ最終節東農大戦のたくむ(最終節男)の劇的同点ゴールを見ながら、
来年こそはアイリーグに主要メンバーとして年間通して出て活躍しようと誓った。
そして最終シーズン。
結論から言えば、アイリーグ出場ゼロ。
アイリーグベンチ入り3試合。
正直、大学4年間でも最低のシーズンとなった。
今年も例の如くシーズンインは悪くなかった。
2,3月は就活の予定が立て込んで、チームもシーズン立ち上げの時期で練習は比較的ハードだったけど、
サッカーも就活もどっちも120%で勝ち取ろうと、
遅刻した日もあったが3年分の悔しさを晴らす気持ちで、毎日の練習に取り組んだ。
実際、春合宿や練習試合でも一定程度の成果は残すことができた。
けれども、4月ごろにはパフォーマンスが落ち、序列が落ち、
今年はTOP・Bチームの2カテゴリー体制だったこともあり、
気づいた頃には試合に出ることは愚か、ベンチ入りすらままならない日々が続いた。
今年のBチームのカテゴリーコーチであった矢口君と陸に認められようと、
試合に出ようと、ありとあらゆることを考え、取り組んだが結果として実を結ぶことはなかった。
頭でっかちに自分が思えることもあった。
試合に出られない日々が続き、シーズン前に持っていた意気込みが、
自分からだんだんと感じられなくなっていった。今年の自分は本当に弱かった。
6、7月ごろは大学4年間で初めて、サッカーが心からつまらなく感じた。
惰性で練習に行き、早く終わんないかなって思いながら、
顔だけ一丁前に何も考えたり、悩んでないように取り繕う。
そんな日々が続いた。
自分にベクトルを向けずに、
環境や運を言い訳に、
自分自身と向き合うことから逃げ続けた。
本当にもったいない、惨めでダサい期間だった。
夏合宿が終わり、その時点でもいまだベンチ入りはゼロであった。
夏合宿の夜ミーティングにおいて、クマや陸、タカがチームの現状を変えようと、
学芸大蹴球部を1年で関東リーグに戻そうと泣きそうになりながら熱い言葉で、
プレゼンしている姿を横目に、
それらのことが他人ごとのようになっている自分に、
プレーでも姿勢でもチームに貢献できていない自分に嫌気がさした。
まさに、全体合宿で出たキーワードの1つでもあった、帰属意識の欠如である。
それでも、そんな熱い仲間を見て、
消えかけていた自分の情熱を少しずつ取り戻そうと、気持ちを切り替えて練習に取り組んでいった。
ようやく9月になって、アイリーグ後期の筑波戦でシーズン初のベンチ入りができた。
もう自分の立ち位置は理解していたから、
これ以降ベンチ入りした試合では、自分が試合に出る準備はしながらも、
給水に来る選手へのボトル渡しなどのベンチワーク、用具の管理など、
たとえ試合には出られなくとも自分にできることはすべて出し切ろうと思って試合に臨んでいた。
結局、自分の弱さとは最後まで向き合い続けることは出来ず、
アイリーグに出場するチャンスは最後まで訪れなかった。
サッカーの神様は最後の年にかなりの難題を自分に与えるなぁと考えたりもした。
土曜日はTOPの関東リーグの応援、
日曜日はホームであればBチームのアイリーグの運営、アウェーであればメンバー外は自主練習、
そんな日々が続いた1年だった。
メンバー外で自主練したある日曜日に、同じくずっとメンバー外が続いていた早川と思いを語り合って、励まし合いながら練習した日もあった。
けれども、この現状の原因が自分にあることも充分理解していた。
最終シーズンだというのに、最後まで自分の弱さから逃げ続けたシーズンだった。
そんな中、サッカーの神様は自分に国公立大会という大学サッカーのラストチャンスをくれた。
決してレベルの高い大会では無かったが、今シーズン自分と同様に出番の少なかった仲間達、そして数多くの同期と3試合を戦い、優勝できたことはこの上ない喜びであった。
個人的にも、3試合すべてに出場することが出来、満足のいくパフォーマンスを発揮できた。
レベル、強度の低い試合であったことは重々承知しているが、
日々愚直に準備を積み重ねてきて、ようやく報われたなと感じた3試合であった。
特に決勝の東大戦、今シーズン自分と同じく、アイリーグに絡むことが少なく、
一緒にもがき苦しんできた、きょうすけとかずきがゴールを決め、
馬越もアシストを決めて、本当に胸が熱くなる試合だった。
そしてシーズンの最後にチームが悲願の関東リーグ復帰を勝ち取り、ようやく大学のラストシーズンが終了した。
振り返れば、華々しい結果は何も得ることが出来ず、TOPチームはおろかBチームの勝利にすら直接貢献することもほとんど無く、4年間が過ぎ去った。
結果を見ればわかるように、自分には目標を実現するための覚悟も、長期的なビジョンも、努力も、なにも持ち合わせていなかった。
岩田コーチが、自分のために何度も何度も指摘してくださった、謙虚さ、アドバイスを一度受け入れる素直さも、自分には圧倒的に欠如していた。
高校までは考えられなかった、
チームの勝利を素直に喜べないことも、
チームの敗北を願ってしまうことも、
大学4年間で何度も経験した。
小学校の頃、自分にベクトルを向けずに仲間を罵倒し続けた自分は、
いつしかチームメイトから指摘されることを恐れ、
消極的なプレーばかりを選択するように弱いやつになっていた。
明るい話題に変わるが、
大学サッカーの4年間通して、自分は本当に仲間に恵まれていた。
特に最後の1年、試合に全く絡めず、
なんのためにサッカーをやっているのかわからなくなりそうなとき、
自分を奮い立たせてくれたのは、どんな状況でも腐ることなくひたむきに前を向く、
多くの仲間がいたからだ。
今シーズン、途中でTOPからBに落ちてきて、登録のルール上アイリーグに出場できないという苦しい状況に置かれながらも、それぞれの形でチームに良い風を与え続けていた、
くま、真之介、そうが
怪我をしてもひたむきにリハビリに励み、嫌な顔一つせずに、毎試合アイリーグのビデオを撮り続けていた、
さかい、せいや
こんな仲間を間近で見て、頑張らない理由は無かった。
みんなの取り組む姿勢は、誰にでも真似できるものではない。
こうした、一人一人のひたむきな取り組みが、今シーズンの関東リーグ復帰を陰ながら後押ししたのかなとも感じた。
そして、スポーツ推薦で選手を獲得できない学芸大蹴球部にとって、
決して目立ちはしないけれど、確実にチームを良い方向に導いている一人一人の突き上げや向上心が不可欠なのだと強く思う。
この4年間で経験したサッカー人生で最大の挫折を絶対に無駄にはしない。
何度負けそうになっても決して折れない、そんな自分であり続けたい。
これまでも挫折や後悔を次のステージの原動力に変えて成長してきたように、
「大学4年間があったからこそ今がある」
と言えるように、
これからの社会人生活を送っていきたい。
最後にこれまでにサッカー通してお世話になった方々に感謝を伝えて、このブログを締めくくろうと思う。
【両親・弟】
まずは弟。
小・高は一緒のチームでプレーして、自分と比較されたりして大変だったと思う。
でもその陰で人一倍の努力をしていたことを知っています。
結局サッカーでも勉強でも君には負けてしまいました。これからも自分の道で頑張れ。
そして両親。
何不自由なく自分がサッカーを出来たのは2人のお陰です。
特に精神的にたくさん支えてもらいました。
言葉では伝えきれないぐらい、たくさんの愛をありがとう。
これからは恩を沢山返していきます。
【蹴球部スタッフの皆さん】
社会人に近づくにつれ、蹴球部のスタッフの皆さんが自分の時間を犠牲にし、僕たちがサッカーに集中できる環境を整えて下さっていることの凄みをきちんと理解できるようになり、本当に感謝してもしきれません。自分の力不足で、プレーで貢献することができず大変申し訳なく思っています。4年間本当にお世話になりました。
【先輩・後輩】
数多くの先輩方にピッチ内外問わず、本当にお世話になりました。頑固でつまらない後輩でごめんなさい。またごはんに連れて行ってくれると嬉しいです。
そして多くの後輩達にも感謝してもしきれません。誰しも浮き沈みがあるとは思うけど、最後までぶれずに頑張ってほしいです。関東リーグでの活躍を期待しています。
【同期】
1年生の時は、卒業がこんなに惜しいものになるとは思えない程、仲の悪い学年だったね。
今ではそんな当時の状況は考えられません。
実力的に厳しいと言われ続けた世代。
そして、TOPでスタメンを張る選手が少ない世代だったけど、みんな一人一人の想いの強さや小さな行動が積み重なった結果、関東復帰を手繰り寄せたのだと思います。
あまりみんなと同じピッチで試合に出ることが叶わなかったことが、数少ない心残りです。
みんなの同期でいられたことを誇りに思います。伝えたいことはたくさんありますが、長くなりすぎてしまうので、また今度の学年会でゆっくり語りましょう。
社会人になっても仲良くしてね。
ごはんに誘って、渋いから来れないとか言わないでね、野﨑輝くんとか特にね。
サッカーを通してたくさんの人々と出会い、出会いを通してサッカーを始めた頃から想像できないぐらい、何倍も成長することが出来た。
サッカーと出会って、本気でぶつかって、悩んで、笑って、泣いて、色々な感情を経験できて本当に良かった。
勝ちも負けも全て噛みしめて次のステップに進みます。
最後に、サッカーありがとう!
明日の卒業ダイアリーを担当するのは原田創太君です。
彼とはカテゴリーも学科も、ゼミまでも一緒で、多くの時間を共に過ごしました。
普段は口数の少ない創太ですが、内にはいつも熱い想いを秘めていることを知っています。
また、彼は卒論の一環として半年以上、インボディや摂取した水分量を測定するストイックさも持ち合わせている男です。
そんな創太がどんなことを考えてサッカーをしていたのか、皆さん乞うご期待です!