ぼくはドイツ語ができない
ドイツ語ができない、ああ、できないなぁ、と思う瞬間は、はじめにドイツに来てから7年経った今でも絶えずやってくる。その間ずっとドイツにいたわけではなく、さらにいえばイギリスの大学院で英語しか使っていなかった時期もあるので、そもそも場数が足りていないのかもしれない。現状を打ち破って飛躍するには、ドイツで大学に通って強制的なドイツ語漬けにでもならないと難しいような気もする。それをしても —— それをしても果たして、自分の満足いくような語学力が手に入るのだろうか? 名詞の性に頭を使わなくて済む日が来るのだろうか?
その実現はそもそも不可能か、やって来ても何十年後かになりそうだ。だからこの不十分な語学力のまま目下生きるしかない。そうして生きてゆくことが決まったとき、自分のその不自由なドイツ語が、それでも/それだからこそ、社会の役に立ってほしいと願いはじめた。
ぼくが外国語としてのドイツ語を懸命に話している様子を見て、誰かがこれから外国人に対して敬意を持ってくれるかもしれない。普通ではないコロケーションを口にしたとき、誰かが面白がってくれるかもしれない。聞き間違えたとき、誰かがゆっくり話すことの大切さに気づいてくれるかもしれない。不完全なドイツ語の存在が、ドイツ社会をより良くしていく Bereicherung(豊かにするもの)として機能してくれれば嬉しい。そう考えると、外国人としてここにいてドイツ語で暮らしていることそのものが、小さな社会運動のように感じられる。
ドイツ社会の中で、外国語としてドイツ語を使う人、とりわけドイツ語から遠い言語圏からの非母語話者の影響力が少しでも増えてほしい。「緩めのドイツ語bot」は、ドイツ語を頑張って使いながら当地で生きようとする人々に対して、こんな願いのもとで運営しています。(初回投稿、最後ちゃんとまとまった!)
ドイツ語の教材は英語に比べてとても少ないので、補助となるべくTwitterの運営を頑張っています。もしよければぜひご支援をお願いいたします!喜びます!🥺