わたしのこと。#1 書きはじめ。
noteでわたしから何の話が聞きたいか尋ねたところ、撮影秘話などの類より圧倒的にわたし自身についての質問が多かった。
わたしは今までなるようにしか生きてきていないし、これからもそうなので、人に興味を持たれるような人間だとは思っていなかったのだが。
わたしは何かに逆らったり、闘ったり争ったりするのが好きではない。
これといった反抗期も記憶にない。
めったに怒ったりしないし、強引に何かをお願いすることもない。
強引どころか、お願い事も極めて少ない。
最近では写真家のハービー・山口さんと映画監督の金子修介さんに写真集の帯に載せる推薦文をお願いした。
それから本の作り方などがまったくわからなかったので、写真家のコムロミホさんのところにはずいぶん通って教えていただいた。
これはわたしにとって大きなジャンプである。
助けて、もなかなか言えないマンなのだ。
長女だからかな。人に頼ることが苦手だ。
もちろん嫌そうなら無理強いはしない。
小山薫堂さんには帯を断られた。(笑)
確かに彼は極めて流動的で風のような人だし、誰か特定のひとに加担するようなキャラでもないな、と理解して笑って別れた。ラジオ番組で告知させていただいたことにはもちろん大感謝している。
ひとにはできる範囲、というものがある。
親愛なる方たちとの出会いについては質問ももらっているので、それはまた後日記そうと思う。
「妖精みたいだね。」と昔から言われてきた。
言われすぎて慣れてしまうほど、あちこちで。現在も。
「ちょっと浮世離れしてるんですよ。」と最近もマジなトーンで言われた。あ、そこまで言っちゃう?
たしかに世の中の回転数と合わないことが多々ある。
わたしは自分の身体に入れるものを自分で選んでいるところがある。
そういう意味ではコロナも戦争も、わたしの身体の中には入ってきていない。外のことが原因で自分がどうにかなることはあまりない。
この「どこ吹く風感」が妖精ぽくて好かれたり嫌われたりするのだろう。
でもそれは性分だからしょうがない。
世界にキミの笑顔を変えさせないで。
キミの笑顔で世界を変えて。
と、どこかのネットで見たことばにストンと落ちた。
わたしのなかにはひとつ、小さな光がある。
わたしは決して強い人間ではない。
ダメになる時、理由は簡単だ。
自分が生きていることが何の役にも立っていないな…と思い知らされる時と、「わたしのなかにある小さな光」が脅かされる時だ。
自分の魅力にダメを出してしまうと、途端に崩れる。
わたしは鈍いので、まず違和感だけを察知して、そのあと何が嫌だったかを時間差で理解する。これを瞬時でできるひとがケンカをするのだろう。
このおっとりさが、衝突を避けているのかもしれない。
嫌な感じがしたら、近寄らない、去る。
わたしは感覚だけでものを判断している。
コロナに関して言うと、コロナ自体が、というよりもわたしたちの業界全体が、それどころじゃない、むしろ悪だ、みたいにされる風潮が苦しかった。
なんで生きているのかな、簡単に省かれて、求められてもいないのに。
ずっと一緒に生きてきたつもりでいたのに、突然いなくてもいいという烙印を押されたようだった。魂が浮遊していると思った。
わたしはどちらかというと性善説側の人間で、ひとを疑うということを知らない。ひとが自分を騙すかも…というアイデア自体がそもそも抜け落ちている。無防備は最大の防御なのか、これといって困るということもなく、ごくたまに10年に1度くらいおかしなひとに遭遇してびっくりするくらいである。例外というのはどうしても存在して、特にこのところ露出する機会が増え攻撃されることも若干増えてきており、新たな修行になっている。
人の思考、感情、あとは感想などもコントロールできないので、それによって左右されない自分、という新しいフェーズである。わたしは裸を世に出す時、それを覚悟した。
わたしの根底に流れているものに、「ライフ・イズ・ビューティフル」というのがある。性善に通ずるもので、世界は美しいもので満ちていると本気で思っている。
写真を撮るときは一貫してそれを捉えたいと思っている。
世界の美しさを、願わくば、わたしというフィルターを通してさらに美しく伝えたい、と思っている。それが写真を撮る意義であり、使命だとも思っている。どんな環境にも、たとえ枯れ草の中にも美しさを見つけたい。1枚の隅々まで満たしたい。
緊急事態で仕事がひとつもなくなり、求められてもおらず、いよいよやることがなくなってしまった時、わたしは色々考えた。
今まで大事にしてきた、表現にまつわる色々なことが、はっきりと「いらないもの」認定されてしまったのだ。気分転換に写真を撮りに行くこともできない。
考えた末、今まで、世界を美しく捉えたいと思ってきたことを、自分の姿を使って創造してみようと思いついた。
わたしの手の中には宝物(カメラ)があるじゃないか。
わたしは、アプトプットを、止めることができない。
これは一番痛感したことだ。
何かを生み出すことは呼吸することと一緒なのだ。
それがないと生きている意味がなくなってしまう。
狭い部屋の中でひたすら撮り続けた。
寒かったなあ。暑かったなあ。
誰からも求めれれているわけでもないので、どこに出すとも発表するともわからなかった。でもやめなかった。やめられなかった。
自分に対してコンプレックスがないかといったら、むしろその逆で、コンプレックスだらけだけれど、生み出す世界を自分でも美しいと思ったし、自分を撮ることで存在意義を確認していくような作業だったと認識している。
写真集「Scent of a… 」に収めた作品にはひとつひとつ思い入れがある。
写真のなかのわたしは、静かに息をしている。
そもそもどうしてカメラを買ったのか、どうしてライカまで辿り着いたのか、人との出会い、などなど、まだまだ質問もあるので、こんな感じで書き進めていってもいいですかね?
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