わたしのこと。#8 俳優になるまでのはなし。
なぜ俳優になったのかという質問に、大女優でも有名でもないわたしが大それたことは言えないけれど、ある映画にクランクイン直前の今、思いなどとりとめもなく書き記しておこうと思う。多少ざわついているので、まとまらなかったらごめんなさい。
まずなんというか、周りの俳優を見渡してみて、わたしは女優よ!俳優だ!みたいな人って、あまりいないというか、自分も含めて、わりと普段は控えめなひとが多い印象がある。昔みたいに破茶滅茶だったり鳴物入りだったりっていうのはわたしの周りでは見かけない。各々静かに仕事に向き合っている感じがする。(が、どうなんだろう?)
ベテランの方ほど気さくで面倒見が良く、優しい。これはこの業界に限らずで、とても見習うべきポイントだと思う。
そもそもわたしは人前に出るのが得意ではないし、目立ちたがりでもない。なぜ俳優なのか不思議なくらいだ。わたしがわたしが!というのも好きではない。オレ(だけ)が目立ってやろう!みたいな思考は邪魔でしかないし、そういう人と組んでやるのはチームとして大変、気持ちはいつも作品に帰属しているように思う。役割について考えるし、物語の全体を見て、それを果たしたい。できたかどうかは別として、気持ちはいつもそう。
近頃は全体に関係してくる役をもらえる機会が増えたので、余計にそう思うのかもしれない。舞台など長期間一緒にいる座組ほど、いてくれてよかった、と言ってもらうことが多いのは、そういう訳だと思う。チーム全体を見る能力に長け、作品に帰依する心を持っている。
わたしは器用な方ではなく稽古したい人間なので、整理ができていなかったり理解が追いつかないまま動くのが苦手で、いわゆる天才型みたいな人は心から羨ましいなと思う。なので、たくさんたくさん考える。
緊張は人並みにするが、側から見ると平気そうに見えるらしい。萎縮したりしないからかな。緊張しても、せっかく与えられた機会には堂々としていたい。初主演作「百合の雨音」(金子修介監督)の撮影はまったく緊張しなかったので、わたしにとっては新しい領域だった。キャメラマン上野さんとレンズ越しでの対話も感じていた。忘れたくないなあ、あの感覚。
試写やオンエアを見るのはいまだに苦手だ。ずっと冷や汗をかいていて記憶も薄かったりする。そういう俳優さん、結構多いんじゃないかな。落ち込むからオンエアは一切見ないってひともいるよね。反省点だらけで、納得できるひとなんて居ないと思う。というか、してはいけないと思う。ベストを尽くしたとはいえ、ああできたのにな、っていうのはたぶん一生付き纏うのだろう。そしてテレビや映画は一応観るけれど、舞台のDVDはまず観ない。観に行って、すごい面白かった舞台でさえあれ?って思うのに、自分が出てるのを見る気がしない。舞台だけは生で観にきてくれたお客さんのものだと思っている。
話はさかのぼるが、小学校の文集の将来の夢に「タレント」と書いたことがある。わたしよりちょっとマセた幼馴染のまきちゃんに教えてもらった単語で、当時のわたしのアンテナにビビッときてしまったのだ。ほぼ家ではNHKかサスペンスしかついていなくて、お笑いも見たことがなかったわたしは、タレントという言葉と出会う人生を送っていなかったのだが、「かずちゃんさぁ、タレントになったらいいんじゃない?」っていう言葉には痺れた。なにタレントって!
聞けばざっくりテレビに出ている人のことらしい。よく意味は理解していなかったが、なんとなくニュアンスがかっこよくて、そのまま受け売りで「将来の夢タレント」と書いた。憧れ、みたいな意味で。まきちゃんはよくわたしを褒めてくれた。とくに根拠もなかったと思うが、できるよ、タレント!みたいなことを言った。
ちなみにわたしのことを「かずちゃん」と呼ぶのはまきちゃんくらいである。小学校から中学3年の6月にわたしが引越して通学路が変わるまで、毎日一緒に通った。何でも話したし聞いたし、ケンカもした。めったにケンカをしないわたしの、数少ないメンバーだ。ちなみにケンカをすると、お互い黙って、でも通学路が一緒だから次第に歩く速度が上がって競歩みたいになって、抜かし抜かされて、そのうちすねが痛くなって、いよいよなんか可笑しくなってしまって、どちらかが吹き出しておしまい、みたいな感じだった。何日も引きずったり、一緒に学校に行かなくなるまでなった記憶はない。部活も一緒だったので、当たり前のようにそばにいた。
これは余談だが、わたしが一番ケンカしたのは妹である。一番近くにいるのに性格が真逆だったりするので、よくぶつかった。大人になって仲良くなれたのはほんとによかった。これからも仲良くしたい。
話は戻るが、タレントに漠然とした憧れはあったけれど別にオーディションを受けたりしていたわけではない。映画館にも数えるほどしか連れて行ってもらったことがなかったし、お芝居もファミリーミュージカルか、学校公演にきてくれる劇団のくらいしか見たことがなかった。タレントと俳優の違いもわからなかったし、田舎っ子にとって憧れは漠然と遠いところにある憧れのままだった。
高校に入り、スポーツ以外で身体を動かしてみたくなり、学校近くのダンススタジオに通いはじめた。わりと大きなステージで踊る機会もあるスタジオで、みなさんが踊る姿はとても素敵に見えた。わたしも出てみたい!とすぐに惚れ込んで、ものすごい勢いで通った。大学を出るまで7年間、受験期を除き多い時は週5回、青春は捧げたと思っている。はじめて本公演に出た時のことは忘れられない。1000人規模の会場で踊る人生になるなんて、想像もしていなかった。いろんな衣装を着たなあ。やがてその中でもテーマパークやインストラクターなど、ダンスを職業にする仲間も出てきて、自分の将来についても考えたりするようになった。でも自分には限界を感じていて、技術的にも身体的にもこれを極めて仕事にはできないなと思った。ダンサーたちはいつも不調を抱えていた。わたしも激しい坐骨神経痛との騙し合いだった。脚は常に痺れていて、整体の先生のところに行くたびに「次はいつ踊るんですか?」「き、今日です。」「そうですか…」とため息をつかれての繰り返しだった。日常生活も辛いくらいだった。
ある時、なんでこんなに身体がキツくて大変なのに、こんな笑顔で踊っているんだろう…と思ってしまいプツッと糸が切れ、スッパリとやめた。よく踊れないと人として認められないようなところや、センターや出番を取ったり外されたり、みたいなところももうしがみつけなくなった。踊れなくても、いや、踊らなくても、わたしは認められる人間だ!と思ったら急に必要がなくなってしまった。人生の中のコミュニケーションから外れてしまったのだ。あんなに打ち込んでいたのに。もう完全に燃え尽きたのだと思う。
それから踊りたいなと思ったことはない。
今でも夢に見ることはあるけれども。
振付を覚えてないのにもう本番だ!とか、衣装を忘れてしまった!とか当時もそんなことはなかったはずなのに、いまだに見る。
大学時代はずっとダンス中心の生活をしていたので、巷の就活のリズムからは乗り遅れてしまい、どうしよう…と悩んだ結果、まだ応募できたジュエリー会社に応募し合格したのだが、とくにそこに夢はなかった。ある時、内定者が展示会を見る機会があったのだが、綺麗な宝石を見ても、テンションが上がらなかった。これはいけないと思った。それからやっぱり土日は休みたいなあ…なんて思ったらもうだめだった。どう考えても頑張れる気がしない…
次の週、わたしは頭を下げ辞退した。卒業の日は迫っていた。
まだ俳優になるところまで書いてないけど3000字だ…
せっかくなので、ダンスをやっていた頃の写真を、画質は良くないけど載せておきます。うわぁ、懐かしいな!
衣装は既製品以外は布を支給されて、各々自分で縫っていました。お裁縫得意なわけじゃなかったので、結構数ある時は大変だったな…
クランクイン前に書けるか、終わってから書くかわからないけど、続きは書きます。
俳優になって、写真もはじめるのは、ずいぶん先の話だけど、わたしが撮ったセルフポートレートの写真集が買えるサイトはこちらです。(笑)
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