
『Fin[e]〜美しき終焉〜』イベ感想──おかしな考えを抱くとき
ああ、何もかもが俺から逃亡していると思った。もう二度と決して戻って来ない妙に太々しい遠ざかり方で、何もかもが私を置いてけぼりにして遠ざかりつつあるようと思った。
インターネットでも話題になった迫力のある警告文といい、かなり踏み込んだイベコミュの内容といい、いろいろと衝撃的だった。直近のストーリーコミュにしてもそうだが、10年目のデレステはシリアスな感じでやっていくということなのか……? 内容に賛否両論があるのも当然かと思う。個人的には「賛」寄りではあるが、いろいろとよくわかっていないところもある。かんたんには割り切れないテーマではあると思うので、すこしでも理解を深めていきたい。
そしてこの感想文も自殺に関する話題を取り上げる。あんまり暗い話はしてないと思うけど、いちおう要注意ということで。
あととうぜんのようにイベコミュのネタバレもします。
自殺未遂事件の動機
なぜ一ノ瀬志希は自殺未遂をしたのか。それがこのイベコミュのもっとも難しいところだ。
本人の告白(イベコミュ5話)によれば、自殺未遂の動機は①人生を楽しいうちに終わらせたいという気持ちと、②志希から離れていったひとたちへの報復だ。①と②の根本には世界に対する退屈・倦怠感があり、これ自体は志希が以前から何度も口にしてきたことでもある。
また、イベコミュの展開からは、志希の家庭環境や、天才(ギフテッド)ゆえの孤独が遠因として描かれているし、直接的には作中劇で自殺に関わる役を演じたことが自殺を意識するきっかけになっている。
いちおう、こうしたものが重なって自殺未遂事件へつながるのだというふうに読み取れるが、それで納得できるかというとそこまで話は単純じゃない。個人的にも志希がそこまで強い希死念慮をもっている人物だとは思っていなかった。

なにがひとを自殺に誘うのか。
志希の心の動きを考えるにあたって、すこし寄り道してとある小説の話をしたい。
井上靖の「ある自殺未遂」(リンク先はNDL-DC)という小説では、入水自殺に失敗した三流画家がなぜ自殺を試みたのかをみずから説明していく。そこでは自殺に至る二日間で、かれが経験するちょっとしたいやなこと、不快なことが綴られていくのだが、どれも他愛もない出来事にすぎず、ひとつひとつは死にたくなるほどのことではない。だが、かれの中のわだかまりは確実に蓄積していき、ついには川で身体を洗おうとして石鹸を水の中に落とした瞬間に、死を決断してしまう。
石鹸を水に落とした瞬間に、主人公はありとあらゆるものが自分から「逃亡」していくことを痛感し、そらならいっそ……と死ぬことを選ぶ。あまりにも呆気ない死の決断だが、その悲痛には実感が籠もっていて共感できる。石鹸が逃げたから自殺しようとしたという帰結だけを見れば冗談のようだが、ひとには小さな出来事の積み重ねや偶然とは思えないような暗合を極端に重く受け取ってしまうことがある。
「Fin[e]」で描かれている出来事も、かなりこの小説と近いところがある。科学者を特集したテレビ番組、幼少期の記憶をフラッシュバックさせる夢、そしてちょっとした傷から溢れた血──。いくつもの小さな出来事が志希の行動の引き金になっているように思われる。それでも、夜の海に入っていった直前まで、志希がはっきりと自殺を決断していたとは考えづらい。というより、海に入っていった時点でも明確に命を放棄する決断に至っていたかは微妙だと思う。
精神科医の春日武彦は『自殺帳』というエッセイの中で、自殺にいたる精神の動きを考察している。連載の第2回(webで読める)では「ある自殺未遂」も紹介され、同作の医者のように小さな出来事から自殺の決断に至ってしまう経緯を「石鹸体験」と名付けている。このエッセイは書き手の思考がとりとめなく綴られていて明確な発見や結論があるわけではないのだが、美学や哲学を振りかざして死のうとするひとびとに対し、ほんとうの動機はもっと卑近なところにあるのではないか?という懐疑を突きつけてくるところが印象深い。
けっきょく、人間が自殺という決断に至る理由は必ずしも自殺に特有の異常なものや、崇高なものというわけではなく、日常生活と地続きの感情や感覚によって発露されるものなのだろう。それがときには「石鹸体験」のような軽微なものであったり、あるいはもっと重大な出来事であるかはひとそれぞれだと思うけど、その判断自体が日常の感情の動きから大きく逸脱したものとは思えない。
アメリカのハードボイルド作家、ローレンス・ブロックの作品に「おかしな考えを抱くとき」という短編がある(『石を放つとき』所収)。タイトルにある「おかしな考えを抱くとき」というのは、ひとが自殺をしようと思い立つ瞬間を意味していて、要するにこの物語も唐突に自殺しようとするひとのことを描いている。
おかしな考えを抱くときは、だれにでも訪れうる。悲惨な境遇や深刻な悩みがなくても、そうした考えが去来することはありうる。「なんであのひとが自殺なんて……」という出来事は珍しくないし、年に数回は著名人のそうした訃報を耳にする。
「Fin[e]」での志希の行動はそういう意味ではリアルだ。ここでの志希の描き方は、「天才」というよりも、その仮面の下にある「年相応の少女」としての志希を見つめているように感じられる。
自殺は止めるべきなのか
自殺が倫理的に許されるのかというのは難しい問題だし、自殺を止めるのが倫理的に妥当なのかもこれまた難しい。世間一般の常識感覚からすると「自殺=悪」であり、とにかくやめさせるべきというのがふつうで、私もこの主張自体に異論はない。
ただ、なぜなのかといわれると説得力のある理由を出すのは難しい。「周りのひとが悲しむから」という理由はそもそも現世から離脱しようとしているひとには無効だろうし、「生きてれば良いことあるよ!」というのは無責任すぎる。キリスト教のような特定の宗教を前提にするなら、神様から預かった命を個人が自由にしてはいけない、というような規範意識が生まれるかもしれないけど、そういった信仰のないひとには通用しない。
そういう意味では、死へ誘惑される志希に対してちとせがとった行動は、過激ではあるが芯を捉えてもいる。ちとせは「そんなに死にたいなら一緒に逝こう」と挑発し、志希の覚悟を問う。そして、畳み掛けるようにちとせがなぜ自殺しようとしているのかを問いかける。ちとせの攻撃的な言葉に引きずられるかたちで、志希はふだんなら言わないようなことを次々と口走りはじめる。

死へ逃避しても楽しい時間を保存できるわけではないし、物語のような美しい終焉を迎えられるわけでもない。死をもって自分を邪険にした者たちに復讐しようとしても、傷つくのは自分だけ。ちとせは徹底して志希の反論を潰していく。みずからの死を正当化しようとする志希と正面から対峙し、その理論武装に隠された本心へメスを入れていく。
そうした会話の末に、志希がちとせやプロデューサーを大切に思う気持ちを自覚して、ひとまずは現世との紐帯を取り戻す。非常に危ういバランスだけど絶妙な落としどころだと思う。
ちとせの行動は自殺の阻止というより、志希の心の解体に向けられている。自殺者たちは真意のわからないままこの世から姿を消してしまうことが多いが、ちとせは志希が黙って静かに死ぬことを許さず、かなり強引に自分の心と向きあうことを要求する。一歩まちがえれば自殺願望を強化してしまいそうな危険な手だが、そういうことをするのが黒埼ちとせの怖さであり強さなのだろう。
作中劇
天使(志希)は自殺した少女・チセ(ちとせ)と出会い、彼女を救いたいという感情を抱く。天使がみずからを犠牲にしてチセを救うのはまあそうだねという感じだが、いつかの再会へ希望を託すかたちにするというのは意外だった。モチーフはキリスト教っぽいけど思想は輪廻転生っぽいというか……。

天使シキの決断はけっきょく自殺することなんだけど、トクベツになりたくて自殺するんじゃなくて、チセ(チトセ)がトクベツだからこそ自殺して彼女を救うという決断になっているところは美しかった。ここは、「死ぬことで志希にイラナイといった人たちに傷跡を残したい」と思っていた志希と、「たとえまもなく死ぬとしてもアイドルとして自分の生きた痕跡を残したい」というスタンスのちとせの対比にも繋がっているように思える。
ただ、あんまり「自殺して救う」という話を前面に出してしまうと自殺肯定論っぽくなってしまうので、シキとチトセの再会の可能性を残すかたちにしたのかなという印象を受けた。このあたりは本編との兼ね合いもあって難しいですね。
最後に名前の意味を込めるところは……オタクが好きなやつなんだけど個人的にはくどい気もする。公式に言われなくてもそれくらい想像できるし……。ただこれは好みの問題でしょうね。
黒埼ちとせについて
ちとせは志希に暗く惨めな死にざまを見せつける。このシーンは「吸血鬼」としてのちとせが見えて良かった。ちとせは志希に死ぬことができない呪いをかけるのだから、やっぱり吸血鬼なんだよなあ。この感じだと、生きる意味を失っていた事故後の千夜を生かしていたときもこういうことしてたのかな……。

ちとせに対しては、長生きしてほしいという気持ちと病気の寛解というドラマ的には安易な救済が与えられてほしくないという気持ちがあり、心がふたつあるのだが、終わりがくるとわかっても正面から抗っていくというのが「Fantasia for the Girls」のテーマだったし、「Fin[e]」もその話と地続きだと思うので、今度もちとせの病状は完全には解消されないまま、それとどう向き合っていくかという話になるのだろう。

デレステの今後
「fin[e]」は「Life is A Will」に引きつづき非常にセンシティブでセンセーショナルなシナリオで、これをお出ししてくること自体が運営の「試し行動」(ユーザーがどれくらいシリアスに耐えられるか・需要があるか)なのではないかという気もしてくる。たしかにずっとおかゆだけ出されてもしかたないので、たまには辛味とか酸味もほしいんだけど、ここのところ激辛料理ばかり食べさせられてるのでもうちょっとこう手心というか……と思う次第だ。
千夜・飛鳥の「EPHEMERAL AЯROW」も控えているので今後もしばらくシリアス路線が続きそうだが、究極的にはプロデューサーひとりひとりが是々非々の姿勢で望むしかなさそうだ。各位、心を強くもってやっていきましょう。
(おわり)