「Life is A Will」ストーリー感想──価値・輪郭・名前
ちとせと千夜の供給が急激に増えて嬉しい悲鳴をあげているところですが、ひとまず「Life is A Will」が非常に良かったので安心しています。
デレステのストーリーコミュ第79話の感想です。
ネタバレを含みます
このコミュについて語りたいことはたくさんある。千夜の過去が明確に説明されたこともそうだし、幼いころのちとせと千夜の姿が描かれたことや、千夜の長年のわだかまりが解消に向けて前進したことも大きな出来事だった。ただ、何より個人的に嬉しかったのは、そういう流れがわかりやすい言葉や単純な成長で済まされず、言葉にしきれないような複雑な紆余曲折の中で描かれていたことだった。
この感想でも、そういう言葉にしづらいことを考えていきたい。なかなか難しいけど、向き合っていくのが大切だと思うので。
意味と価値
意味や価値といったものは、人間が世界を認識するために導入された概念であって、ほんとうにそういった実体があるわけではない。野山の草木も空の鳥も、価値や意味などなく存在し、生きている。生きることに意味など必要ないし、裏を返せば生きていることそれ自体に意味がある。つまるところ、意味を見出すかどうかは受け手次第であり、絶対的な価値が存在しているわけではない。
飛鳥は水族館の魚たちを前に、「彼らが、「彼ら」としてただ生きていることに、意味がある」「アイドルも、似た存在だと思わないかい?」という。そして、アイドルは魚たちと違って自らの声で「反抗を叫べる」とも述べる。あらゆる生き物にただそれだけで存在意義があるが、みずから存在証明をできるものは限られている。アイドルはそういう存在なのだと、飛鳥は定義する。
しかし、飛鳥の言葉は千夜には刺さらない。千夜はそもそも「お嬢様」以外のものに意味や価値を見出すことを拒絶している。意味や価値を見出すつもりのないものには、みずからの存在証明など時間の無駄でしかない。だから、飛鳥の言葉は千夜には届かない。
両親を喪い、幸せな時間を奪われた千夜にとっては、今の人生は「余生」でしかない。目的の駅で降りそこねて、寝過ごしてしまった知らない場所。来る必要もなく、意味もない異邦の地だ。
アイドルとなり、「僕」以外の役割を与えられ、「歌」という表現手段を得て、創造的な世界で生きる仲間たちと出会う──しかし、それでもなお、千夜の魂は救われない。彼女が目の前の現実に意味を見出そうとしない以上、渇きからは逃れられない。
千夜はさまざまなものを抑圧して生きてきた。幼少期の幸せな日々や、愉しかったこと、自分の中にあった夢──そうしたものを無意識に追いやって、忘れ去ってきた。
なぜそんなことになってしまったのか。 サバイバーズ・ギルトとか、防衛機制とか、名前をつけようと思えばできるのだろう。ただ、そうした言葉では割り切れないものもある。愉しい日々を思い出せば、それを失くしたことが必然的にリフレインしてしまうからかもしれない。新たに得たものたちを、また失ってしまうのが怖いとも感じている。あるいは、思い出を重ねるほどに、時が過ぎてあの日々が遠ざかってしまうことを怖れているのかもしれない。
いずれにしても、彼女は、自分や他者に価値や意味を見出すことを拒んでしまった。価値や意味を見出して、楽しく暮らすという欲望を完全に抑圧してしまった。
輪郭を見るということ
千夜は自画像を書くことができなかった。自分というものになんら意義も価値も見出だせなかったからだ。
現実世界に「輪郭」というものは存在しない。「輪郭」もまた、現実を認識するために人間が導入している概念にすぎず、その点では意味や価値と同じものだ。絵を描くという行為は、モノに輪郭(意義)を見出して、それを表現するということ。
価値がないと思っているモノの「輪郭」を描くことはできない。
「輪郭」という言葉はちとせのストーリーコミュでも登場する。そこでは蘭子との会話の中で、ちとせが「ステージは立つものの輪郭をすべて描き出す場所」だと気づく。
ステージの上でファンの視線を浴びる中で、アイドルは否応なしに意味や価値を見出され、感動の対象となる。ファンの視線がアイドルの輪郭を作り出す。
白雪千夜ももちろんファンの視線を浴び、輪郭を与えられている。しかし千夜はファンのことを「酔狂」「物好き」としか見ることができない。ファンが見ている白雪千夜の「輪郭」を、千夜自身は見ることができない。
「Life is A Will」では、飛鳥との会話の後、千夜は「鏡」を見て、自画像を描くことに挑む。千夜が自分に意味や価値を見出さないようにしていたとしても、ファンや仲間たちの視線は否応なしに白雪千夜の「輪郭」を作り出してしまう。その現実と向き合わなければならない。
「名前」と意味
人間社会で生きていくということは、本人の意思とは無関係に、その生に「意味」が与えられてしまうということでもある。ましてやステージに立ち衆目を浴びるアイドルならなおさらだ。
千夜自身がどれだけ意味を拒絶しようとしても、彼女が悲劇の日から歩み続けてきた軌跡と過ぎ去った時間は厳然として存在し、そこには意味が発生してしまう。千夜が目を背けようとしても、彼女が「白雪」という名で存在する限り、避けがたく「文脈」が生じてしまう。
この「名前」というのも、「意味」や「輪郭」と同じく世界を認識するために人間が勝手に導入している概念だ。「白雪」と名乗ることにこだわっている千夜は、いくら表向き「意味」を拒絶しようとしていても、けっきょくそういうところから逃れられない。
意味や価値などというものは幻想でしかないのに、私たちは人間であるがゆえに、そうした幻想が湧き出づることを無視できない。
そのことに向き合わなければならない。
時は動き出す
「Clock Hands」の歌詞の中で、千夜は未だに自分の意味や価値を見出だせずにいる。
しかし、時計の針を止めることができないように、人生は移ろい、そこに意味や価値が生ずることは止められない。
千夜は抑圧していた夢を思い出し、自分が実のところ生きたいと願っていたことに気づく。人間の心の中では矛盾しあう感情が絶えず混ざり合っていて、それは本人にもなかなか気づくことができない。ただ、生きている以上はどうしても感情が生まれてしまうし、それが自分の望んでいた感情ではないということも珍しくはない。感情もまた、生きている以上、否応なしに生まれてしまうものだ。
FftGのイベコミュでも、チヨは自分が無意識のうちに「生きたい」と願っていたことに気づく。どれだけ抑圧しても消すことのできない感情と向き合うことで、彼女の時は再び動き出す。
ちとせと千夜
千夜に自分の人生を歩ませるためにアイドルを始めたちとせと、ちとせの思いを叶えるためにアイドルになった千夜。互いを思いながらもすれ違い続けるふたりの自我は混ざり合い、自分自身が何を欲求しているのかわからなくなっていた。
死が二人を分かつ絶望的な予感の中で、彼女たちに己の人生を歩むことを求めるのは酷な話だ。
それでも、彼女たちの人生には意味がある。黒埼ちとせの生には黒埼ちとせの意味が、白雪千夜の生には千夜の意味がそれぞれある。否応なしに「輪郭」を与えられてしまう世界は苦しくもあるが、その「輪郭」を直視することなしにはふたりの魂は救われない。
プロデューサーはちとせと千夜が心に秘めた「生きたい」という願望を見つけ出し、「輝き」に変える。
そんな旅路を経て再びVelvetRoseを見ることができたら──そんなことを願ってしまうのは欲張りすぎだろうか。
(おわり)