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『Fantasia for the Girls』イベ感想──必ず終わりが来るものについて

 ここまでやるのか。

 FftGのイベコミュは素晴らしかった。感心もしたし、驚きもした。これほどストレートでセンシティブなテーマに踏み込んでくるというのはなかなかできないことだし、それだけのことをやる意味があった。
 FftGは、「必ず終わるとわかっている世界をどうやって生きていくか」という話だ。それはゲームの供給の話でもあるし、フィクションの限界の話でもあるし、わたしたちの人生の話でもある。

 灰に覆われて滅びゆく世界で、それでも諦めずに戦い続ける少女たち──彼女たちは「灰被り」と呼ばれていた。彼女たちは廃墟と化した王都へと向かい、世界の真実と対峙する。

 ※以下、イベントコミュのネタバレを含みます。

 FftGで描かれるのはいつものデレマスの世界ではない。剣と魔法のファンタジーの世界だ。登場する人物たちも、お馴染みのアイドルたちと同じ顔、同じ名前を持っているが、かれらの立場はアイドルではなく「灰被り」だ。灰に覆われた世界とはなんなのか、現実世界とはどう繋がっているのか、そうしたことがまったく明かされないまま、話は進んでいく。
 全貌が明らかになってくるのはコミュ第5話だ。「灰被り」のハヤテは〝真理を知る者〟から、「これまでも無数の世界が隆盛しては滅び、この世界もやがては同様に滅びて忘れ去られていくのだ」と告げられる。FftGの世界は、無数にある並行世界のひとつであり、そして他の世界同様に近い将来の「終わり」が運命づけられているのである。

 この対話が2023年3月にサービス終了したモバマスの暗示──さらにいえば、サービス縮小が宣言されたデレステそのものの暗示でもあることはほとんどのひとが気づくと思う。それくらい直接的な表現だった。
 FftGのイベコミュは、一度終了したモバマスをどのように位置づけるか、あるいは今後のデレステをどのように取り扱っていくかという「捉え直し」の物語だ。そして、そこで語られているテーマはただデレマスというコンテンツだけの話に留まらない普遍的なものにまで飛躍していく。

 「終わりの時」は必ずやってくる。
 小説を開けば必ず閉じなければならない時が来るし、腰を据えて映画を見始めても必ずいつかは席を立たなければならなくなる。そのことはあまりにもあたりまえのことで意識するまでもない。
 スマホゲームとかメディアミックスとかが普及して、物語の外枠が曖昧になった今日においても、やはりその時はやってくる。オタクなら誰しも、好きになった企画や応援していたコンテンツが息を引き取る瞬間を味わうし、これからもそれを避けることはできない。むしろ、外縁が曖昧になり、物語の完結が引き伸ばされ続けることで、「終わり」の残酷さはいっそう増したようにも思える。

(イベコミュ第5話)

 恥ずかしながら、私自身はモバマスをまったく通らずに来た人間なので、それに関してあまり偉そうなことをいえる立場ではない。それでもデレマスは好きだし、どういう形であれ供給は続いてほしいと願っている。
 とはいえ、長く続けば良いという単純なものでもないと思う。
 私は買い切りゲームだって、ノンシリーズの小説だって好きだ。それらの作品が、連綿と続く長寿作品より劣っているとは思えない。
 いつか終わりの日が来ても、楽しかった日々はなくならない。

 それにフィクションの良いところは、たとえ終わりがきてもお別れする必要はないということだ。読み終わった本をまた最初から読み直しても良いし、聴き終わったCDをまた再生しても良い。
 もちろんアイマスは現実と地続きなところがあるから、完全なフィクションではないけれど、私はアイドルがフィクションでいてくれることが好きだ。FftGにしても、現実世界、いつものデレマス世界、そして「灰被り」の世界という三つのレイヤーが存在していて、それらがイベントやLIVEで交差している。人間は現実と虚構を等価に感じられるから、ふだんの久川颯の物語も、FftGにおけるハヤテの物語も、現実と同じように価値があるし、意味があると思える。
 颯と奈緒の特訓エピソードでは、ハヤテと颯、ナオと奈緒が交差する。イベコミュ自体は夢オチで終わるものの、「灰被り」たちは並行世界にたしかに存在して、かれらの物語とアイドルたちとが共鳴する。どれだけ世界が隔たっていても、本質的なものは同じなんだと思わせてくれる描き方がありがたかった。

瞬瞬必生ってやーつ?(イベコミュED)

 とっ散らかってしまったが、何がいいたいかといえば、「物語には必ず終わりがあるが、終わることは悪いことではなくて、問題はそこにどう向き合っていくかだ」という話だ。なかなかきれいに終われる物語は多くないなかで、今回のイベントは「コンテンツの終わり」というものに真正面から対決して、運命を受け止めつつも抗うかたちで「けじめ」をつけていて、それがほんとうに美しいと思った。

 年老いた不死鳥は、自分の身を焼き尽くして、灰の中から生まれ直す。魔法使いは灰となった世界からガラスの靴を作り出し、シンデレラに履かせる。
 終わりの中に始まりを見出すのは常套句だが、これまでも様々なかたちで言及されてきたシンデレラ、ガラスの靴、魔法使いといったモチーフに、死と再生という方向から新たな意義を与え、「シンデレラガールズ」のなんたるかを定義したのは見事だった。こういうモチーフを再定義するかたちでのタイトル回収が大好きだ。

「シンデレラ」のモチーフはもう使い尽くしたものと思っていたけれど、今回は「魔法によってお姫様になる少女」だけではなくて、「灰に汚れながらも夢を失わず舞踏会の日を待ち続けた少女」というところに力点が置かれていて、だからこそ終わりゆく世界に立ち向かえるという話に繋がっていく(イベコミュ第5話)
そして『あなたとつくるこの世界(スターライトステージ)』でもう一回食らうという……泣いてしまう

久川颯の話

 FftGのハヤテはほんとうに凛々しかった。
 〝真理を知る者〟は、やがて終わりが来て、何もかも忘れ去られてしまうのなら、足掻くことに意味はないと訴える。これはニヒリズムだ。ニヒリズムに対抗する手段はひとつしかない。それでも生き抜くことに意味があると信じて生きる、ただそれだけだ。
 ハヤテが下した決断はまさにそういうことだ。

「こんな世界でもみんなで夢を見て、
 必死に生きて、生きて、生き抜いてやる!」

イベコミュ第5話

 平凡で未完成のアイドルである久川颯──もといハヤテにこの台詞をいわせるというのがまた良い。まだ発展途上で、自分に満足できない彼女だからこそ、明日への希望を繋ぐ役割が似合う。久川颯の魅力は、まさにそうして抗い続けるところだから。

強くなったな([Fantasia for the Girls]特訓エピソード)

 イベコミュのエンディングでは、「灰被り」の夢を見たプロデューサーが、久川颯のオーディションに向かうという衝撃的な場面がある。突然、存在しない記憶が生じている……。
 でも、よく考えてみると、デレマスにおいては190人の中からひとりのアイドルを見つけ出すこと、つまり「世界中の宝石の中からたったひとつだけ選ぶこと」にすごく大きな意味があって、だからこそFftGのラストでプロデューサーが取る行動が「オーディションの中から久川颯を見つけ出すこと」なのは、理に適っている。颯だけではなく、すべてのアイドルにそういう瞬間があって、そこから新しい物語が始まっていく。「終わり」をテーマにしたFftGの物語の最後に新たな出会いと始まりが描かれているのは見事だ。

黒埼ちとせと白雪千夜の話

 チヨとチトセの死別が描かれていたのもすごかった。
 ちとせは、永遠を生きる吸血鬼と、死を待つ難病ヒロインという相反する属性を併せ持つアイドルだ。その根底にあるのは、有限の生を越えて、誰かの心の中で永久に生き続けたいという願いだと思う。まさにチトセがチヨに語る「生きた証」というのはそういうことだろう。いくつ世界が滅んでも、誰かの心が欲する限り生き続ける。
 ちとせがプロデューサーを「魔法使いさん」と呼ぶのは、Pが彼女に「永遠に生きられる魔法」をかけているからだ。彼女もまた、FftGの世界観を体現するアイドルだといえる。

「未来を見られなくなった子供の涙を止めて大好きな笑顔に変える魔法」、まさに〝真理を知る者〟に対抗してPがハヤテにかけたのはそういう魔法……([青き女王の夜想曲]特訓エピソード)
 ところでこの黒埼ちとせを見てください。上位存在(つよ)すぎる。破滅してしまう……。

結びに代えて

 十二時に魔法が消えて、かぼちゃの馬車や美しいドレスが元のみすぼらしい姿に戻っても、ガラスの靴だけは消えない。私たちはガラスの靴を追って何度でもシンデレラたちと再会できる。
 それはきっと、ガラスが再生の象徴だからだ。何度、灰になっても、魔法使いが再生すれば甦る。

 物語には必ず終わりが来る。でも、この魔法には終わりはない。



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