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種を蒔く

吉田松蔭の『留魂録』 死生観について

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十歳で死ぬ者には十歳の中におのずから四季がある。二十歳にはおのずから二十歳の四季が、三十歳にはおのずから三十歳の四季が、五十、百歳にもおのずからの四季がある。
十歳をもって短いというのは、夏蝉を(長命の)霊木にしようと願うことだ。百歳をもって長いというのは、霊椿を(短命な)蝉にしようと望むようなもので、いずれも天寿に達したとはいえない。

私は三十歳で、四季はすでに備わり、花を咲かせ実をつけているはずである。それがもみ殻なのか、よく実ったものなのかは、私の知るところではない。もし同志の中に、私の真意をくみ取って、それを受け継ごうという人がいるなら、それはこの後もまかれた種子が絶えずに、収穫のあった年にも恥じないことになろう。同志よ、このことをよく考えてほしい。

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私が吉田松蔭の死生観について知ったのは、父親を看取った後。40代も近かった頃。

心に『ストン』と落ちた。

父は一度危篤に陥り、覚悟して下さいと医師に告げられた。その後、病気は治癒はしなかったが、日常生活が送れるくらい元気になった。そして一年後に亡くなった。

余命宣告された時も、死の直前も母や家族はまさかという感じだった。私だけが、危篤の時から死を覚悟していたと思う。(父の心中はわからない)

だから、私は最期の一年間、父と過ごせる日々を大切に過ごした。一日一日有難いと思っていた。欲を言えばキリが無いが、自分の出来ることは出来たと思うので悔いはない。

愛情も思い出もたくさん残してくれたけど、何より父の死は私に大切なことを残してくれた。

種を蒔いてくれたのだ。

あとの人生どのように生きようか、何を大切に生きようか 私はどんな種を蒔けるのだろうか…

人は何も持たず、一人で死ぬ…

生きることを考える、大切な種だった。

それを人生の折り返し地点の年齢で気づけてよかったと思っている。

今も何か先のことを考えるときの、私の軸だ。

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時々考える。

自分は今、松蔭の言う四季ではいつなんだろう。

春 夏 秋 冬

みなさんも一度考えてみてはいかがでしょうか。

私の感じた死生観。             読んでいただきありがとうございました。








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