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深い話・浅い話 どう違うの?

聞いて・話して・考える ここから始まるテツガク
丸亀市生涯学習センターにて
2020年1月26日(日)

 10代から80歳近い方まで、11名の皆さんと「深い話/浅い話」とは何だろうかというテーマで対話を行いました。
 哲学対話は生きたその場の対話です。理路整然と議論することは、あまり求めていません。まずは、身近な出来事や自分の考えたことを言葉にすることから始めます。ちょっとテーマから逸れてしまうこともありますが、それもまた、生きた対話の醍醐味です。

 数学の話、宮本武蔵、「美」について、テレビのタレント同士の中でも交わされていた言葉のやりとり、村上春樹の小説、感動の深さの違い、「真実とは何か」について、沢山の話題が出てきましたが、全ては書ききれず、ざっくりとまとめてみます。

 さて当日の皆さんの発言では、「深い・浅い話」だと感じた具体的な事柄や、どんな風に「浅い・深い」という言葉が使われているのかというお話から始まり、話が深まるとはどういうことなのかということへ少しづつ近づいていけたような気がしました。

以下に、参加者の皆さんの発言を振り返りながらまとめてみました。

 当たり前のことだったことが、当たり前でなくなるような「意外性」「発見」に出会い、それらを驚きをもって迎える時、人は「深いなあ」と感じるのかもしれません。
 よく分からないから右から左へ通り抜けて行ってしまう時には「浅い話」として終わってしまうかもしれない、ということがあれば、一方でよく分からないけれど、ずっと頭の片隅に、そして心の中に焼き付いている、という場合もあるようでした。時間が経っても忘れられないということは、「深みがある」ということと関係しているのでしょうか。
 例えば、右から左へ通り抜けてしまう話の例で、10代の方が次のような体験談をお話しされました。
 授業を受けてて、発見のある話は面白くてもっと聞きたいと思うけれど、難しい単語ばかり出てくると、よく分からなくて、興味が持てないし、ただ退屈だなって思うのだそうです。
 これに、よく分からない話というのは「自分に理解する能力がないか、相手もよく分からずに話しているかのどちらかだ」と思っている、という意見も出てきました。
 もっと聞きたいとか、もっと知りたい思うことによって、理解が「深まる」のかもしれません。深い話は、理解の深度とも関係するのでしょうか?
 
 他に、よく分からないけれど心に残っている言葉の例として10代の方の発言に次のようなものがありました。某有名バンドが音楽づくりに「良い違和感」を大切にしていると話しているのを聞いた時、「深いな」と感じたのだそうです。
 「違和感」というのは普通あまり良いイメージで使われないような気がしますが、そこに「良い」という言葉がくっ付けられて、一見すると矛盾しているような印象さえ感じてしまう「良い違和感」という言葉。なんだかよく分からないけど深そうですね・・・。でもなぜそう感じてしまうのでしょうか?

 伝える側、受け取る側、という表現が的確かわかりませんが、双方の在り方・状況などに何か関係があるのかもしれません。 深い話になるには、どこか底の方で共有や共感、相互理解が必要になるのではないかという意見がありました。

 もちろん、何をもって「浅い・深い」と感じるのかは、人それぞれ違っていてるので、これといったものが有るとは言えないのではないかという意見もありました。

 他方で、深い話というのは「真実に近づける雰囲気があるかどうか」ではないかという意見がありました。「真実に近づける雰囲気」とは、次元の違う話が多く重ねられたかどうかであり、同時にそこには多様性があるということです。一元的な次元だけでは真実に近づけないというお話が続きました。
 そうすると、その場合は、支離滅裂で噛み合わない違う話を好き放題にするということでは成り立たないのかもしれません。多様な次元から迫るためには、何かどこかの点で共通の理解や共有するものが前提になければ難しそうですね。

 もちろん「真実」は存在するのか、という問いかけもありました。それについては、時代によって変わるかもしれないけれどその底には、何か共通の意識のようなものが流れているのではないか、という意見と共にいくつか例があげられました。


 私たちは、いつも自分が意識していなくても、それぞれがどこかの立場に立って物事を考えていると思います。一人が全ての立場に立つことはなかなか難しいことです。想像力を働かせても限界があるかもしれません。哲学対話の中で「深い話・浅い話 どう違うの?」をテーマに、それぞれの参加者が、それぞれの視点で言葉を交わすことによって、多様な次元から問いに迫ってゆくということが今まさに行われているのではないか、と感じました。哲学対話では、最初はたった一人の発言から始まり、その発言についてまた別の方が考えを述べられる、というやりとりが織り成されているいます。まさにその最中に「あれ?今少し深い話になっているのでは?」と感じさせられたのです。話の深度は、対話や相手と向き合う在り方や場の中で変化してゆくのかもしれません。
 また、対話のみならず、音楽や芸術、文学から受け取る「深いなぁ」という感じもあります。この時、私たちのなかで何が起こっているのでしょうか。

おまけ

 哲学対話へ参加してくださった10代の方々へ
 私たちは普段、親と子として、先生と生徒としてという立場を超えて、対等にあなた方の意見や考えを聞く機会が、あまりありません。若い方とじっくり話す機会や接点すらなく、10代の皆さんがどんな考えを持っているのか分からないという大人の人たちもとても多いと思います。そんななかで、哲学対話にみなさんが参加してくだっさることに、大人の方々から喜びの声が上がっています。哲学対話へさらなる豊かな多様性をもたらしてくださった10代の参加者の方々、改めてありがとうございます。


深い・浅い話 違い-1


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