嫉妬/羨望
今心理に関する本に携わっています。普段はあまり関わらないジャンルなので、専門家の交わす言葉を調べて頭を悩ませながら過ごしているのですが、心や脳に関するお話の中では、時に「嫉妬」や「羨望」について出てきます。私は心や脳の専門家ではないのですが、人間誰しも向き合うテーマでもあるので、日頃思っていることをまとめておきたいと思います。
前の職場を退職後ここ5年間ほどは悩み苦しみつつも「やりたいことをやろう」と駆け抜けてきました。今あえて無職モードにしていて、やりたいことの集中期間にしています。(いくつかの仕事を売却・譲渡して、実験的な仕事をいくつか手掛けています)仕事の独立直後、以前も書いていたのですが30年の付き合いがあった友達と疎遠になる道を選びました。最後はどのような意図があったのかわからないのですが「昔からかしこぶっていた」と言われたんですね。この言葉をきっかけに、深く意味を考え、彼女とはもうかかわらないことにしました。馬鹿なフリをするのは簡単です、賢くあろうとするとき努力が必要になります。私は無知ながら法律の分野で働くと決めており、最前線で最善策を繰り出す弁護士の仕事に触れる時、なんてカッコいいんだろうと思っています。先日もある判例を読んで、深く感動しました。私の敬愛する作家が、本物になろうとするとき、人は厳しい方へ自分を追いやるはずだ(つまりそうじゃないなら別に本気じゃないでしょ?という意味でしょう)と言っていたので、それもそうだな、無知でも行くしかないなと決めてしまったので、今後もかしこぶっていくしかありません。
無職って楽しいんですよ。日向ぼっこをしながら古くて手触りの良い毛布にくるまっていたり、映画を観たり本を読んだりし、心に芸術をストックしていくと意外な場面でひょいと素敵な言葉が出てきたりします。私は退職慣れしているので目先のお金の不安はすでに何回か経験していますしね。生活をミニマルにしておくと、口座からあまりお金は落ちません。
さて、彼女は私に嫉妬や羨望の眼差しを向けていたんだと思うよ、他人から言ってもらったことがあります。ただ、私はそうではないと思っています。正しくは彼女は自分に怒っているのでしょう。嫉妬も羨望も厄介なもので「自分にもできそうで、できないから」生まれる感情だと思っています。私にもできそうなのに、できない自分に怒っているのです。彼女と距離を置いたのは、不特定多数の異性と寝ることについてリスクを含めて咎めたのですが、私の名前をその中の1人に伝えたからでした。
申し訳ないですが彼女に私の道は歩めません。私と彼女の共通点は、ただの同級生である、それだけなのです。できそうですらありません。私はここに来るまでに自分でそこそこのコストも払いましたし、何度か覚悟もしています。会社も何度も辞めていますし、褒められた人生ではないでしょう。誰にでもできることではありません。これからも彼女は自分ができることはやっていくでしょうから、それで良いと思います。私を見て、自分にもできそうなのにと苦しむことはもうないでしょう。
嫉妬や羨望は、自分を甘く見積もっている証拠だと思っています。私は物を書く上で、今はもうない原美術館でソフィ・カルの展示を見た時、心底悔しいと思いました。
あのような言葉を刺繍にする胆力。
こんなこと想像したことがなかった。
自分にはないアイデアだ。
今自分は何を見せられているのか。
こんな本物があるのか、凄まじい。
羨ましい、これが才能か。
その時、刺繍も、言葉を紡ぐことも、自分でアイデアがあればできることなのに、浮かばなかった自分を見つけたんですね。アイデアさえあれば自分もできると思ってしまったんです。
でも浮かばなかった。それが実力です。私に時間とお金を与えても、ソフィ・カルのように美しい情念が込められた、あのような作品は作れません。
誰にでもできることではないのに、一瞬できそう、と思ってしまいました。悔しいと思うなら、やることやれよって話なんですね、つらいけど。今も時々、あの時抱えた悔しさや憧れ、嫉妬や羨望を糧にしています。自分を甘く見積もるな、アイデアなんて待ってても棚から落ちてはこない、静かに静かにやるしかない。100歳になっても到達しないかもしれないが、と。無職になると、あの時のことを思い出せるので良いものです。街角で写真を撮ったり、1000円予算で古書を買ってきて縁側で読む私を見て、やっぱりあなたは時々無職に戻ってくるといいねと家族も喜んでいました。(家族は私に余裕がなくなると注意してくる)
自分の書いた記事が結構な反響を得られているのを見ても、私はあんまり納得できなかったんですね。作品とWEBで流れていく記事はやっぱり違うものです。バズなんて、下請けのライターが大手の看板で書いてるだけかと。仕事なので、反響自体は嬉しいですし得られる報酬にも少し影響しますが、まぁ仕事は仕事です。誰でもできることではあります。色々模索しながら楽しく次の目標を目指そうと思います。
さて、嫉妬や羨望はよく恋のお話に登場します。私は高校生の時に強烈な束縛を経験したことがあり、学校の教師や親まで巻き込んで別れる騒ぎを起こしました。スカートの丈をチェックされたり、誰と遊ぶのか報告したり、最後には女の子同士でも遊べなくなり限界がきてあやうく停学処分になるほどの騒動を起こした(私が)んですね。本当に別れたかったんで、騒動の結果別れられてよかったです。あの経験以降は、嫉妬に大変過敏になりました。
自分に魅力がないことを、努力が継続しないことを、他人のせいや自分の環境のせいにする人をなるべく近寄らせない努力をしています。
特に恋愛における嫉妬や羨望は他人に向ける前に自分で立ち止まって、感情の正体を見つめる必要があります。彼は頭の中で、私が別の人とあらゆる出先でセックスをすることを想像し続けていたのだと思うと、その後もしばらく気持ちが悪くて仕方がありませんでした。頭の中がずっとポルノなわけです。脳が気持ち悪い人なわけですね。
私は当時大学進学に向けて進学クラスのカリキュラムをこなしながらバイトで学費を稼いでいましたし、週末は模試とバイトのはしごをしていて、友達とはたまーに会ってしゃべったりカラオケに行ったりする程度でしたから、彼以外とセックスなんてしていません。
百歩譲って誰かと寝たところで、行動を制限されれば彼に長きにわたる愛情でも示すのでしょうか。彼はその後も似たような事件を起こしたと聞くので、あの時必死に逃げて良かったです。
結局のところ嫉妬や羨望は魅力的な人になろうと努力したり、もっと広い場所に出て色んな知識を得ようとすることを放棄している人がするのです。感情の分析をして、「いっけね!今の自分ちょっと気持ち悪い!サーセン!」という余裕もありません。しかも「その嫉妬、間違っているよ」という指摘をしてくれる友人や知人にも恵まれていないわけです。社会性も欠如しているか、周りも変な奴の可能性が高いでしょう。
魅力がない上に、他人が誰かとセックスしてくる想像だけはするので、随分ポルノな脳みそなんですね。もう全くそばに置くべき人ではありません。最近見た嫉妬や羨望では、夫の浮気を疑ってる妻が出先から写真を送らせているのかな、と思う場面があったのですが、そんな人間関係を構築する夫婦に誰がチャンスを与えるのでしょうか。せめて家のことは家でやってくれ、という話です。出先でも夫婦の嫉妬プレイを見せられる他人の気持ちがわからないのでしょう。自分が死ぬ時に彼も殺すそうなのですが、山本譲二のみちのくひとりでも歌ってもらえよと思いました。最後の女だって歌ってもらって泣いたらいいんですよね。
一生恋愛(というかセックス)のことしか考えない人たちは大変ですよ。嫉妬を使って興奮する人というのは、ずっと他人の不幸を願っているので60歳になっても70歳になっても、他人の不幸やパートナーの浮気で脳がいっぱいなのでしょう。会ったこともないのにエピソードで人を不快にする人っているんだなと感心しました。家から2人とも出なければ私はそんな話を聞かずに済んだので、世の中の平和のためにも2人とも外に出なければいいと思います。
面白そうな企画に誘っても、うっかりすると妻は「またよそでセックスしている!」と気色悪い想像をしてくるわけで、まったく関係ない人まで疑われてしまいます。あなたの人生はFANZAなのでしょうか、と誰か言ってあげたらいいのですが、如何せん変な人にはあまり意見を言いたくありませんしね、誰もかかわりたくありません。だってFANZAを脳内再生している人にまともな会話が通じるでしょうか。夫が浮気をしている想像で興奮している人ですからね。
実際に妻が嫉妬を理由に仕事に過干渉な傾向がある従業員に、あまりチャンスを出さなくなった社長を知っているので、リスクヘッジの視点でみても嫉妬や羨望を理由に人を束縛したり、コントロールすることを厭わない人は身近に置けません。夫婦揃ってまともに考えたらわかることが考えられない、という時点で、この夫婦にチャンスは渡せないのです。最近この手の話は、某有名不動産会社の会長も書いておられました。
また、この手の夫側の人は、そういう人を配偶者に選んでいるので、他人の嫉妬を使って自分が向かうべき努力から逃げているのです。成長したくない、何も考えずに過ごしたいからこそ、嫉妬深い人の傍が居心地良いのです。嫉妬や羨望を上手く利用していて、すごくタチが悪いタイプの男性です。妻が嫉妬するからという理由があれば、いつでもだれからでも逃げられます。ちょっと浮気をしても、ちょっと仕事が辛くても、妻に自分の役割をもらっており、妻の名前で逃げられるので中途半端でも許されるし正味楽な人生です。
人間関係は明るくさわやか、責任は一人で真正面から受け止めることがベストです。嫉妬や羨望は糧にするもので、他人に向けるものではありません。束縛したくてたまらない人やその横がベストポジションの人は、もしも自分で自覚ができたら、その次に他人にではなく鏡の自分に向かって文句を言いましょう。
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