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吐き溜め香
嘘袋、というものがあったと陽香さんは話す。
30年ほど前、中学生の陽香さんのまわりで小袋を持ち歩くのが流行った。
3センチ四方の手作りの巾着で、中には綿とかおり玉を入れたものだった。
気持ちが荒ぶる時に、袋に向けて話す。
ストレスの捌け口に使うのだ。
「家も学校も嫌だ」
「あいつが消えればいいのに」
「死ね」
陽香さんはよく、このように話しかけていた。
苛立ちを嘘袋とともにきつく握り込んで、様々なことを我慢した。
なぜか怒っている時はまるで匂いを感じないのだが、言葉をぶつけているとかおり玉の匂いに気づく瞬間がある。
かおり玉の匂いを感じることで、徐々に落ち着きを取り戻していくのだ。
人工的な石鹸の匂いは、陽香さんの精神安定剤だった。
「もう嫌だ。私が死ねばいいのかな」
1人の同級生から始まった自分への無視が、クラスに広がった時の事だった。
最初は周囲に対して怒っていた。
しかし、時間が経つと自分が全て悪いと思えた。
精神状態の不安定さから、家族とも諍いが絶えない日々。
自身が消えることでしか解決できない。
その思考に囚われ、どんどん孤独になっていった。
悲しみに耐えきれず、トイレにこもった時。
思わず手の中の袋に、こう語りかけ始めた。
「私が消えたら、みんなは嬉しいよね」
「お母さんも私がいないほうがラク」
「私なんて何も取り柄ないし」
握り込んだ袋から香りが漂い始めた。
優しい香りに、悲しみ加速する。
この香りは自分を理解してくれる。
抱き締められてるようだ、と思った。
「死にたい」
この一言を放った瞬間、香りが強くなる。
胸焼けを起こすかと思うほどの、気持ち悪い甘さだった。
思わず手の中を見ると、巾着の型を無くした布キレがあった。
握り込む前よりも古く、ボロボロの布。
綿とかおり玉は見当たらず、足元にも落ちていない。
なのに手からは強烈な臭いを放っていた。
ーー気持ち悪い。
吐き気を感じ、布キレを床に叩き付けた。
すると、布は端の方から焼き焦げたように黒くなりはじめた。
それはパサついたカスが千々に散り、消えた。
恐る恐る掌を嗅ぐと、肉の腐ったような臭いがした。
当時、陽香さんには話せるクラスメイトはおらず、この件を誰にも言えなかった。
毎日教室で耳をそばだてても、同じ現象の話はなかった。
そればかりか、袋が『香り袋』と呼ばれていることに気づく。
なぜ嘘袋だと思っていたのか。
なぜ石鹸の香りが甘い臭いになっていたのか。
あの小さい巾着について考えるたびに、むせるような腐臭を思い出すのだという。