ルール・ブルー
まだ真夏でもないのにアスファルトの上で陽炎が発生していた。
プールの水面は眼を刺すほどに輝いている。
こっくりとした水色のペンキ、光はとても白い。
眼を閉じると瞼の裏に残像が残るほどに。
背中を汗が伝う。
ようやく校舎にたどり着いた。
靴箱から上履きを出して履き替える。
あまり学校に来ないからか、少し埃っぽい気がした。
私の学年は青いラインが入ったものを身につける。
この上履きにしろ体操服にしろ、集団として意識せざるおえなくなるので好きではない。
だからといって不良のようにペンで塗り潰すのは格好が悪い。
結局そのままの状態で履くしかないのだ。
ローファーをしまって、改めて玄関ホールを見渡した。
とても広い。下校時刻に混雑しない程度には空間をたっぷりと取ってある。
沢山の靴箱を抜け、ロビー、そこからなる螺旋階段。
ここから4階まであがれば図書館だ。
ステンドグラスの光を浴びながら読書ができる。
幅の広いゆるい高さの段差。慌てずにゆっくりと進む。
手すりのプラスチックの冷たさが何となく手に馴染む。
2階。
休み時間だけ開く購買。そして教室と大ベランダ。
ここには用はない。
もっと早い時間なら廊下に射し込む朝日が綺麗なはずだ。
それだけのフロアである。
3階。
美術室、音楽室、理科室が並ぶ。
本を読んだら美術室に行こう。
この前の続きを進めなければいけない。
ついに図書館。
凝った植え込みのように、一定のルールで並ぶ本棚。
胸までの高さ、腰までの高さ、円柱を囲むように取り付けられたもの。
大賞や話題作、教科書に載るものなどはわかりやすく、人気が偏る難しいものは男性の背丈ほどの高さの棚に並べられている。
きっと上から見ると扇状に広がっているのだろう。
この場所自体が半円なので、造形美すら感じられると思う。
そこにステンドグラスが嵌め込まれた細い灯りとりが2つ。
普通の窓もいくつか。
貸し借りのカウンターは扇の要部分、読書スペースは扇面に沿ってぐるりと並んでいた。
読書スペースの端は私のいつもの場所だ。
そこに差し込んでいる色ガラスの光が、夕方が近付くとこの場所から外れる。
時計を気にする必要がなくなるのだ。
本を選ぶ。しっとりとした手触りと重さ。
ハードカバーを堪能できるのは図書館ならではだろう。
薄く積もった塵に日焼け痕。これは話題の装丁だったのに。
見た目も含めて、本が好きなのだ。
伸びすぎた髪が、風に遊ぶ。
少女は全く気に留めないようだ。
黒い絹糸が肘や手首に舞うと余計に肌の白さが強調されるようだった。
時間がどの程度過ぎたのだろう。
静かな空間に寝息が聞こえ始めた。
私は歌を歌うのが好きだった。
あの時は合唱部に所属していた。
いつもの3人で自主練だといっては大ベランダの端でひたすら歌っていた。
重なる声が友情を育んでいるようで、大好きな時間だった。
あの歌はどんな旋律だったか。
合唱部がない時は美術室に篭って絵を描いた。
水彩画が好きで、毎日水貼りキャンパスを作っても足りなかった。
頭の中からイメージが次々湧いてきて、いくらでも描ける気がしていた。
あの時描いていたものは。
帰宅時刻にはテニス部の幼なじみが声をかけてくれた。
私たちは恋人だった。
大した青春エピソードなんてなかったけれど、人への思いやりを教わった。
名前は・・・
懐かしい夢を見ていた。
読みかけの部分に栞を挟み込む。
もう外は黄昏時を越えようとしていた。
蛙と虫の声が聞こえる。
窓を閉めつつ、外を見た。
テニスボールの痕を沢山つけた壁。
その向こうから彼が出てくることはもうない。
帰ろう。
色んな生徒の残像。
沢山の思い出が交差する。
その中を振り切るように螺旋階段を駆け下りた。
フローリングの香りを突き抜けて、外に向かう。
今が私の1番好きな空模様。
ルール・ブルーと言うらしいよ、と博識な友人が教えてくれたことがある。
自然は美しい。
星が目覚め始める時間。
一等星が初めに目を開けた。
雲一つない今日は最高のロケーションのはず。
山が影絵のようになり、空だけがくっきりと浮かび上がっている。
これは黒く縁取りされた絵画だ。
太陽の後を追った名残の明るさ。淵へ淵へと濃くなる色合い。
スピカを見つけても知らせる人などいない。
鬱蒼とした草。
川の水面は紺へのグラデーションを映し出す。
まるで360度、青に囲まれたようだ。
足元で蛍が光り始めた。
ランタンのように浮かび上がる。
もし願い事をしていいと言われたら信むことはただ1つ。
それは叶わないことは知っている。
余計に青が身に染みる。
私ばかりが残された世界。
ここはたった1人の美しい世界線。
自分だけが歳を取らず、全てが朽ち始めているのを感じる。
自然に侵食されゆき原型がなくなるまであとどのぐらいだろうか。
校舎も道も、振り返れば随分と古くなっている。
まだ思い出せるうちに、この風景をキャンバスに閉じ込めたい。
この一瞬の時間。暗闇に溶けそうな儚さ。
置いていかないで。と思わず唇が動いた。
ルール・ブルー。
仏:I`heure bleue
別名ブルーアワーとも言い、日の出前日の入り後に発生する濃い青色に染まる時間をさす。
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