メディア論の視界:コミュニケーションとテクノロジーの向かう先

 マクルーハンは忘れられた孤島なのかもしれないと思う。
 「メディア論」の著者のマーシャル・マクルーハンの話だ。
彼はメディアはメッセージであると言い、またメディアは人間の身体の延長であると言った。
 
 メディアとはここでは道具全般を指す。道具を利用することによって、人間は逆に何らかの影響を受ける。その影響の事をメッセージと言うのである。

 人間の延長とは、人間の能力が道具によって強化されることを言う。車輪は脚力の延長であり、文字は記憶力の延長である、と言うように。

 何の検証もしていない主観だが、最初のパソコンブームから初代ファミコンの登場当たりの時代に大人だった人たちが、よくマクルーハンの引用をしていたように思う。
 今では、メディア論と言っても通じないことのほうが多い。
 

 これに従うならば、現代のテクノロジーは人間の知覚や思考までをも延長している。
 人間はこれまでと比べようもないほど強力な情報活動を行うようになったが、それと引き換えに、コミュニケーションや思考に関する身体能力を失っている。文字の普及によって古代人が、先祖たちの名前を暗唱できなくなったように。
 
 そしてもう一つ、道具が人間の感覚の延長であるということは、人間のインターフェース部分に道具が装着されることでもある。
 仕事のコミュニケーションで、電話やネットを介さずに相手と直接やり取りする割合はどれくらいだろう。何年も対面することなく仕事を続けている相手がたくさんいるだろうと思う。
 私生活でもこの傾向は強まる。
 今の子供たちはクラスごとに表のLINEグループと、より私的な裏のLINEグループを持っていたりするという。実際に会いに行くことなく、たくさんのコミュニケーションをとることになるだろう。そして一方で、SNSを介して面識のない子供や大人との接点も生まれる。
 共有される情報空間が巨大になるにつれ、身体を伴うコミュニケーションの割合は小さなものになっていく。

 これは簡単な予言だが、将来、直接身体を見せ合うコミュニケーションは不自然な、羞恥を伴うものになっていくだろう。
 我々がごく親しい相手でなければ裸を見せることがないのと同等程度には、顔や身体を隠すことは自然なことになっていくだろう。
 いよいよ少子化が進むというものである。
 
 道具の発達によって、人間のあらゆる行動に道具が介在するようになる。人間同士で問題なく可能なはずのコミュニケーションにまで道具を用いることが一般化するのは、隣人同士が神を介して平等に結びつく一神教的な世界
のようで、いささか気味悪くもある。
 全身を道具で固めた潜水服のような姿の人間が、なんとかコミュニケーションを取ろうと悪戦苦闘する姿はこっけいでもある。

 人間の思考や表現までも道具が代替する状態はまた、別な異様さがあるが、それはまた稿をマクルーハンは忘れられた孤島なのかもしれないと思う。

 「メディア論」の著者のマーシャル・マクルーハンの話だ。

彼はメディアはメッセージであると言い、またメディアは人間の身体の延長であると言った。 

 メディアとはここでは道具全般を指す。道具を利用することによって、人間は逆に何らかの影響を受ける。その影響の事をメッセージと言うのである。

 人間の延長とは、人間の能力が道具によって強化されることを言う。車輪は脚力の延長であり、文字は記憶力の延長である、と言うように。

 何の検証もしていない主観だが、最初のパソコンブームから初代ファミコンの登場当たりの時代に大人だった人たちが、よくマクルーハンの引用をしていたように思う。

 今では、メディア論と言っても通じないことのほうが多い。 


 これに従うならば、現代のテクノロジーは人間の知覚や思考までをも延長している。

 人間はこれまでと比べようもないほど強力な情報活動を行うようになったが、それと引き換えに、コミュニケーションや思考に関する身体能力を失っている。文字の普及によって古代人が、先祖たちの名前を暗唱できなくなったように。

 

 そしてもう一つ、道具が人間の感覚の延長であるということは、人間のインターフェース部分に道具が装着されることでもある。

 仕事のコミュニケーションで、電話やネットを介さずに相手と直接やり取りする割合はどれくらいだろう。何年も対面することなく仕事を続けている相手がたくさんいるだろうと思う。

 私生活でもこの傾向は強まる。

 今の子供たちはクラスごとに表のLINEグループと、より私的な裏のLINEグループを持っていたりするという。実際に会いに行くことなく、たくさんのコミュニケーションをとることになるだろう。そして一方で、SNSを介して面識のない子供や大人との接点も生まれる。

 共有される情報空間が巨大になるにつれ、身体を伴うコミュニケーションの割合は小さなものになっていく。


 これは簡単な予言だが、将来、直接身体を見せ合うコミュニケーションは不自然な、羞恥を伴うものになっていくだろう。

 我々がごく親しい相手でなければ裸を見せることがないのと同等程度には、顔や身体を隠すことは自然なことになっていくだろう。

 いよいよ少子化が進むというものである。

 

 道具の発達によって、人間のあらゆる行動に道具が介在するようになる。人間同士で問題なく可能なはずのコミュニケーションにまで道具を用いることが一般化するのは、隣人同士が神を介して平等に結びつく一神教的な世界

のようで、いささか気味悪くもある。

 全身を道具で固めた潜水服のような姿の人間が、なんとかコミュニケーションを取ろうと悪戦苦闘する姿はこっけいでもある。


 人間の思考や表現までも道具が代替する状態はまた、別な異様さがあるが、それはまた稿をあらためて描こう。本稿はこれまで。
 
 

いいなと思ったら応援しよう!