「かわること」と「覚悟」について。
24歳のおれは会社を「えい」っと勢いで辞め高円寺のアパートを出た。
それから友達が小岩でシェアハウスをしていた一軒家に転がり込んだ。
今もそうだといえばそうなのだが、その頃のおれは迷走しながら自分というものとの付き合い方を模索していたと思う。
いろんなことに無防備過ぎたせいで一度深く傷付けてしまった自分の心や身体を回復させている時期でもあった。
このときに聴くようになったのがカネコアヤノさんの音楽だった。
シェアハウスの友達が掛けていた曲がやたら良くて、「なにこれ?」と聞くとカネコアヤノさんの『光の方へ』だと教えてくれたのだ。
ライブで演奏するカネコアヤノさんの動画をYouTubeでいくつか見つけた。
恋や生活の歌なのに何かに憑依されたようにブチギレながら歌っていたのが衝撃的で最高で、おれはもう完全にやられてしまった。
ステージの上の彼女は、この世の誰よりもかわいかったしカッコよかった。
何度も繰り返し観ては彼女の声や表情の全てに「表現〜〜〜!」と興奮した。
芯があるところも好きだった。
それからおれは彼女の曲を片っ端から聴き漁った。
カネコアヤノさんの音楽の世界観にはいつも「生活」とか「日常」があった。
それは当時の自分にとって必要なものだったのだと思う。
こういう風に出会うべきタイミングでバチっとその音楽に出会えることは、人生の中でもわりと大きな幸せの一つかもしれない。
それはたまにしか起こり得ないので、その時を逃さず噛みしむべきだ。
おれは近所を散歩しながら、彼女の曲たちを聴いた。
重くなってしまった自分をゆっくり癒してくれた。
小岩のなんでもない住宅街、太陽が肌に当たる感覚、空気、手を繋いで歩く老夫婦の後ろ姿、2畳くらいの芝生しかない誰も使うことのない謎の公園。
それらの記憶とカネコアヤノさんの音楽が結びついている。
中でも1番よく聴いたのが『とがる』という曲だった。
という歌詞から始まるこの曲は、素直に聴けば「恋」の歌だろう。
でもおれはこの曲を恋の曲というよりは、「夢」についての曲として聴いていた。
音楽の正しい聴き方もカネコアヤノさんがこの曲に込めた真意もおれは知らないので、自分なりに勝手に解釈して聴いていたのだ。
夢と言ってもスヤスヤ寝ているときに見る方の夢ではなく「ああなりたい」、「こうなりたい」の方の夢である。
そしておれにとって夢とは「マンガ家」になることであった。
カネコアヤノさんはこの曲の中で、「だれか」がひそかに燃やす想いを花に例ている。
そして何度も繰り返される「かわる」というワードはこの曲の大きなテーマだ。
その花を絶対に枯れさせないし、わたしは変わっていくんだという強い気持ちを歌っている。
それを恋ではなく、夢のことだと感じたのだ。
夢を恋に比喩している曲。
あるいは夢と恋を重ねて歌っている曲。
それがおれの解釈だった。
そして後半にこんなフレーズがある。
「かわってく覚悟を持て」とか「かわってく覚悟を決めろ」とかいう言葉はイメージとして世の中にすでにあると思う。
でも、彼女は「かわってく覚悟はあるはずだ」と高らかに歌っていたのだ。
スゴい人だと思った。
そしてこのフレーズを聴くとおれ自身が「お前にはもうすでにかわってく覚悟はあるはずだろ」とこの曲に言われているような感覚になった。
当時のおれは変わりたいと強く願っていた。
どうにもうまく変わることが出来ずに苦しかったからだ。
何かになりたかったが、おれはまだ覚悟の決め方というものを見誤っていた。
それが自分を余計にしんどくさせた。
逃げ出したい気持ちもあったけど、逃げ出したくない気持ちが勝ったので、マンガを描くことを続けた。
現実の中で何かを手に入れて、変わること。
おれはそれを強く求めていたし、たぶん今も求めている。
夢でも恋愛でも、「願う」ことと「叶える」ことは全く違う。
叶える為には変化が必要になってくる。
叶える過程で変化しなければいけないこと。
あるいは叶った先で、自分や周りなどあらゆることが変化していくこと。
そしてその変化には大概「痛み」が伴う。
変わるということは、もしかしたら1番こわいことかもしれない。
変わらないことは、居心地が良い。
でも、変わりたい。
変わることは1番気持ち良いことだからだ。
困ってしまうがこれが人間というもので、自分というものだ。
おれはこの『とがる』に何度も励まされてきた。
自分に言い聞かすように何度もこの曲を聴いた。
すると変われない自分だって何かになれるような気がした。
それは自分の中にある不確かな覚悟をその度に確認しては安堵する為の作業だったのかもしれない。
今でも思い入れのある好きな歌だが、あの頃のように毎日何回もリピートして聴くようなことは無くなった。
たぶんポジティブな意味で必要なくなったのだ。
それは『とがる』の哲学がサブリミナル的にすでにおれの血肉や骨になってくれたからかもしれない。
だから思い出してたまに聴きたくなったら聴きにいくというのが、この曲と今のおれの付き合い方だ。
あれからいくつか歳を重ねた今、『とがる』という曲を書いたカネコアヤノさん自身も(おれと同じように)かわることを望みがらも同時にそれが怖かったのではないかと思うようになった。
怖かったからこそそれを跳ね除ける為に、何度も繰り返し「かわる」と歌う必要があったのかもしれない。
だからこそ当時おれはこの『とがる』という曲に強く惹かれたのだと思う。
怖さがあって初めて覚悟と言えるのかもしれないし、覚悟があるからこそ怖いのかもしれない。
そう考えると、この厄介な恐怖心すら愛していけるはずだ。
覚悟はもうすでにおれの中にあるのだから、あとはやることはもう一つだ。
最後まで読んでくれてありがとうございます! ふだんバイトしながら創作活動しています。 コーヒーでも奢るようなお気持ちで少しでもサポートしていただけると、とっても嬉しいです!