
桜 守
桜 守
沢村 鐵
○作品データ○
タイトル:桜 守
文字数:32125
舞台:日本
ジャンル:日下慎治サーガ
一言紹介:『十方暮の町』『あの世とこの世を季節は巡る』の主人公・日下慎治の物語です。
いつから、憶えているのだろう。
わからない。
桜の木のそばに佇む青年。そして、少女。
薄暗がりのなかで、その二人を万里子(まりこ)は見つめている。ただじっと。
もうすっかり春なのだと思う。絶え間なく、花びらが散り続けているから。
時刻は夜、それとも明け方かも知れない。甘い匂いを含んだ風が、微かに、万里子の鼻先をくすぐる。でもその匂いは、自分があとから付け加えた記憶かも知れない、と万里子は思う。
青年と少女が立っているのは、万里子の家の庭。
ふだんはだだっ広いだけの庭が、桜の季節だけは様子を変える。代々小嶋家を見守ってきた江戸彼岸が満開の花を咲かせるからだ。樹齢二百年の老木が律儀に肌身を散らす姿は、いくつになっても万里子の胸を締めつける。
桜の木の下の少女は、とても小さい。その分、痩せた青年の背が高く見える。
ふたりはただじっと立っている。身じろぎ一つしない。まるで時間が停まってしまったみたいに。花びらははらはらと散っているのに…………
ふたりの表情は判らない。顔が見えない。話しかけられない。そばに行くことさえできない。万里子はいつも遠巻きに見つめているだけ。
いつから憶えているのか、分からない。
遠い昔に見た光景なのか、夢で見たのかだれかに聞いたのか、映画で見たのか――それさえも。
幻のような思い出は、夢のなかでも、起きているときも、ふいに浮かび上がってきては万里子を捕まえる。花の匂いが溢れる季節になると、毎日のように浮かんでは眩暈を起こさせる。そんな記憶。
今年も、庭の桜は静かに花を散らしている。
静かな夜――
彼はやって来た。
一 満開の下
ここから先は
¥ 350
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?