はるをみはる
タイトル:はるをみはる
文字数:9971
一言紹介:アール・ド・ヴィーブル主催のワインパーティー(@Standing BAR PETIT Konishi)に於いて朗読された作品です。2005年2月26日。書き下ろし。朗読はパーソナリティの齋藤美絵さん。
自分ちじゃない台所はよそよそしく見える。どこに何があるかわからないから、不親切な感じがする。たとえ、よく知ってる人の台所だろうと。
で、あたしはやっぱり、歯ブラシの替えを見つけられなかった。初めから期待はしてなかったけど。窓から入ってくる光が目に痛い。すっかり朝だ。時計はどこだろう? もしかするともう昼前かも知れない。はぁ、と思わず息を吐く。
台所の磨りガラスの向こう側に、淡いピンク色が広がっているのが見えた。なんだろう? サッシ窓の鍵をパチンと上げて開けてみると、ツツジだった。生け垣のなかに、花がいくつも、競うように咲いている。ここは一階なんだ、と思った。なぜだか二階だと思い込んでいた。酔っぱらっても記憶を失ったことがないのが自慢なのに、ゆうべのあたしは不甲斐なさすぎた。だけど、ぜんぶ裕美(ひろみ)のせいだ。あのバカ女があたしにからんできて、おかげで呑まなきゃやってられなくなった。思い出すと頭に血が上ってきて、こめかみがズキズキする。ああイヤだ、もう。群れ咲く花に目をあてて、痛みがやわらぐのを待った。
ツツジは、このアパートのそばにだけあるんじゃなかった。きれいに舗装された道沿いに、ずっと並んで咲いているのが見える。ありふれた住宅街だけど、なんとなく品がいい。いかにも彼が選びそうな町だな、と思った。
背中の方でもぞもぞ音がした。
「おはよう」
部屋の主が起きる気配がしたので、あたしはわざと元気よく声をかけた。気恥ずかしい。どんな顔をしたらいいのか判らない。
望(のぞむ)くんの部屋に泊まったのは、もう終電が終わってたからだ。しょうがなかった。望くんを信用してなかったらこんなことはしなかった。
思った通り、彼は襲ってきたりなんかしなかった。それどころかせいいっぱいの快適さを提供してくれて、ご覧の通りあっけなさすぎるぐらいの爽やかな朝だ。テレビの上に時計を見つけた。九時過ぎ。ぎりぎり朝と言える時間だった。なんだかほっとした。
「あ、お早うございます。ちゃんと眠れました?」
声は礼儀正しいけど、まだぼやっとした感じなのが可愛い。奥のベッドから身を起こして、望くんは女みたいに長い髪をかき上げて顔を見せた。顔も女みたいに細くて端正だ。
「ええ、おかげさまで。ほんとありがとね、泊めてもらっちゃって」
ゆうべはベッドを使ってとしつこく言われたけど、あたしはすぐ床に伸びた。実際、眠たかったのだ。目が醒めたらタオルケットが身体にかけてあった。身体の下には、座布団まで敷いてあった。有り難くて、なんだか情けなかった。
常識をわきまえたいい先輩を演じるのは、時々ものすごく疲れる。うまくやってきたつもりだったけど、ゆうべはとうとう地が出た。お里が知れるってやつだ。裕美たちとケンカ別れしたあとも、望くんだけはあたしのそばを離れないでいてくれた。あたしがヤケ酒喰らうのが判ったんだろう。
でも、望くんがいたから安心して酔っぱらえたんだとあたしは思う。
「なんスか? なにか探してます?」
「ううん、歯ブラシ。でもいいの、もう帰るから」
「あ、朝飯ぐらい食ってって下さいよ。おれすぐ作りますから」
血圧が低そうなのに、望くんは意外に元気だった。あたしに気を遣って無理してるのか。ベッドからでてきた彼はよれよれのトレーナーを着ていた。そのまま台所まで来て、冷蔵庫を開ける。着替えをするつもりはないらしい。
そういえば広基(こうき)は、望くんが料理がうまいって言ってたっけ。卵とレタスを取り出して支度を始める。手慣れてた。この分じゃあたしよりうまそうだ。それもそうか、あたしは料理を面白いと思ったことがない。広基にご馳走してあげたことなんかわずか一回。
そう、それがあたしと広基の関係性を象徴してる。いま思えば。あたしからしてあげらることなんて、なにがあっただろう。たとえばヴァレンタインデーにだってチョコをあげたことがない。あたしがそういうのが嫌いな天の邪鬼だってことを承知の上で、広基はこの二年、毎日のように一緒にいてくれた。
だから、きょうも明日も広基と会う予定がないってことが、あたしはまだピンときてない。これからもずっーと予定はない。望くんの隣で、あたしは手伝いもしないでぼんやりしてた。
「シャワー浴びます? 遠慮しないでどうぞ」
望くんはどこまでも親切だ。いいのいいの、あたしは手を振った。シャワー浴びたって酒臭さが消えるわけじゃなし。またお母さんや妹から嫌味言われるかと思うと、家に帰りたくなかった。どこかのサウナでアルコール抜いてから帰ろうかな。お風呂場の前まで行ったけど洗面所で顔を洗うだけにした。たとえシャワーを浴びるためでも、望くんの部屋で服を脱ぐのは気がひける。
望くんには、大事にしてる可愛い彼女がいるから。小財(こざい)エリナちゃん。彼の同級生。家族ぐるみでカナダに行ってるらしくて今はたまたま東京にいないけど、二人はすごく仲のいい、見てる方が顔がほころんじゃうような、可愛いカップルだった。
望くんはもともと親切な人だけど、あたしにこんなにも親切なのはやっぱり、あたしが広基の彼女だからだと思う。望くんは、広基とは高校からの先輩と後輩だ。あたしは、初めて遭ったときからふたりが似てると思った。見た目は全然ちがう、逞しい体つきの広基に比べて望くんは殴ったらポキッと折れそうなくらい細いけど、ふたりはちょっと気持ち悪いくらい息が合ってる。なんと言ったらいいのか、同じ系統の人間なんだな、と感じる。自分の信じる「筋」をきちっと持っていて、そこから絶対に外れない、っていうような。
こういう男はコソコソ浮気なんてしないだろうから、おおかたの女の子にとっては大歓迎だろう。だけどあたしはなぜか、すごく苛々することがある。ときどき、広基の言うことに拒絶反応を起こしてしまう。「バカな真似はよせ」とか「大人になれよ」とか言われると決まって我が儘をやってしまう。広基が困った顔になるとあたしは後悔するけど、腹の底ですごく満足を感じてる自分がいる。
ご馳走になる前に、せめて念入りにうがいした。台所に戻ると、手際よくレタスをちぎって皿に並べながら、望くんは笑顔だった。
「それにしても裕美さん荒れてたっすね。あんなことよくあるんすか」
「ほっとこうよあんなバカ」
あたしはまたぞろ腹が立ってきた。
「偉そうに説教垂れちゃってさ。自分がもてないからってなんであたしにあたるのよ」
「でも、広基さんと別れたのはおれもびっくりでしたからね」
「だからってなんで、あいつに怒られなきゃいけないの?」
望くんはうーんと言って笑ってる。頭をかくと、彼の健康な髪があっちこっちに跳ねる。若いな、と思った。あたしとふたつしか違わないのに。
身体が近い。
抱き締めて捕まえてしまいたくなる。もし手を延ばしたら、この子はどうするかな、と思った。ゲームみたいに。本気じゃない、仲睦まじいカップルにヒビを入れたりしたらバチが当たるから。エリナちゃんはちょっと不思議ちゃん系で、筋の通ったことを喋るのが苦手で、笑ってるか眠たそうな顔してるかどっちか。あと、ちょっとしたことでよく泣く。しかも声も出さず、さめざめと。望くんに裏切られたりしたら自殺しちゃうかも。
あたしは望くんから離れて、ベッドの横のちゃぶ台まで行って座った。
「伊津子(いつこ)さんと広基さんは、おれらの中心じゃないですか」
望くんは、ボールに箸で卵をチャカチャカかき混ぜながらあたしに言った。
「二人が仲悪くなったりしたらおれらも気軽に集まれなくなっちゃう。そのへんは、おれも困ったなあって正直思います。裕美さんも、それを心配してたんじゃないですかね」
そうだろうか。
あたしには、あたしを責めたくてわざと酔っぱらったようにしか見えなかった。「広基さんは間違ってない。ぜんぶ伊津子が悪いのよ。」酔わなきゃ本音が言えないなんて最低。あたしと広基のことなんかよく知りもしないクセに勝手なことを言うのが我慢ならなかった。だからあたしは言ってやった、裕美がいちばん言われたくないことを。「そんなだからいつまでも男ができないのよ!」すると裕美はあたしを引っ掻いた。爪立てて、ほんとにあたしの目を狙ったのだ。野良猫みたいに。
あんなやつもう親友じゃない。
「派閥を分けたらいいのよ」
あたしはわざと真剣な顔で言った。
「望くんはどっちにつくの? やっぱ広基か」
「えッ」
彼の顔が初めて、ちょっと歪んだ。
「……どっちでもないですよ」
あたしはあわてて言った。
「ごめんね馬鹿なこと訊いて。悪い冗談だったね」
「エリナも心配してますよ。ゆうべ、心配で電話くれたくらいなんですから」
「え、そうなの?」
全然知らなかった。あたしが寝たあとの話だろうか。わざわざカナダから?
「あたしが泊まってるってこと、まさか」
「言ってません。なんか、言いそびれちゃって」
「言わなくていいのよそんなこと! よかったわ。女は気にするもんだから。変に疑わせたりしたら可哀想よ。エリナちゃんは望くんのこと大好きで、すごく信じてるでしょ。でも、余計な火種はないに越したことないんだからね」
望くんは素直に「はい」と頷いた。なに偉そうに講釈してるんだろう。あたしがだらしないから迷惑かけちゃったんじゃないか。
何もかも、おとといの晩の別れ話から始まってる。いや、厳密にはあたしがフラれただけなんだろう。
行きつけの沖縄料理の店に一緒に入って、席に着くまではいつもと同じだった。向かい合わせに座って、広基の顔を見てからだ。いつも違う、と気づいたのは。広基はなにか言いだした。曖昧に、遠回しに、なにかを伝えようとしてた。あたしは判らなかった。いや、判らないふりをしていたのか。初めから感じてたのか、その言葉を言われるまで気づかなかったのか、いまはもうよく判らない。
「しばらく離れてみよう」
と広基は言った。
それを聞いてあたしはすかさず、「どうせもう無理。別れましょう」と返した。
あの時は迷いなく言えた。いまも気持ちに変わりはない。
恋人関係というやつは、どこか契約みたいなところがある。「あなたが愛してくれる。だから、あたしも愛します。」そういう条項が歴然と、ある。つまり、相手に気持ちがなくなったらもう終わり。フラれても食い下がる女をあたしは理解できない。契約なんて、相手に結ぶ気がなくなったら終わりだ。このところ就職活動でお互い忙しかった。会える時間は限られてて、どうせこれから隙間風がビュービュー吹くことになる。ちょうどそう思ってたとこよ。
でも、フラれるなんて負けたみたいでイヤだから大急ぎで自分から別れると言い出した。それってただの子供っぽい意地だってことも、分かってるけど。
あれから広基の顔を見ていない。一言も喋っていない。電話も来ない。
広基に他に好きな女が出来たんだったらあたしはわかるし、向こうも正直に言うと思う。そうじゃないのだ。広基の言葉は曖昧だったけど、あるひとつのことを、一生懸命伝えようとしてた。
なにか違うんだ。
あたしもそう思ってた。なんとなく、ね。突きつめて考えてはいなかったけど、考えたくもなかったけど、そう――なにか違う。それが別れる理由だなんて、なんだか淋しいけど。
二十歳(はたち)の頃はあんなに欲しかった広基が、みんなに慕われてて、アメフト本気でやってて惚れ惚れするような体つきで、頭も良くて頼り甲斐があってだれにも獲られたくなかった広基が、いまはどうしてこんなに有難味がなくなっちゃったんだろう。それどころか、そばにいるだけで圧迫感を覚えるようになっちゃったのか。何かあるたびに、ただ黙ってしまう広基が怖かった。口に出さなくてもいろんなダメ出しが聞こえてくる気がする。そんなのもう真っ平だ。
あたしがこんな女だってこと、つき合う前からわかってたはず。あたしは事前にさんざんシグナル送ってたんだから。厄介な女だよ、笑うの下手だし協調性ないよ、好き嫌い激しいし。あなたが好きな人たちをぜんぶ好きになるなんて無理だからね。
そんな伊津子がいいんだ、広基はそんなふうに言ってくれたっけ。調子のいいこと言っちゃって。結局投げ出すんじゃん。
でも、いいんだ。あたしといても、笑顔よりも苦しそうな顔の方が多いんだから。どうせあたしはだれも楽しませてあげられない。サービス精神ないから客商売は無理。就職活動も面接で連戦連敗中だ。男が甘えたくなるような母性なんか、あたしのなかのどこを探しても見当たらない。かといってあたしから甘えるのも下手。可愛くすましてることさえできない。あたしは、自分でも呆れるくらい非・癒し系だ。なに系って言えばいいんだろ、ささくれ立ち系?
裕美の方がよほど癒し系だった。好きな男へのつくしかたは半端じゃない。でもそれが裏目に出てばっかりなのが可哀想だけど。甘えるだけ甘えられたあと、結局重いとかウザいとか言われてフラれるパターンだった。
「伊津子はかっこいいと思う。だれにも媚びないから」
そんなことを言ってくれたこともあった。去年か、もっと前だったかも。
「だけどあたしは、伊津子の真似してたらだれも相手にしてくれないからね」
裕美はバカじゃない。あたしが持ってないものを持ってる裕美を、あたしは素直に尊敬してた。なんでも話せる友達ができたのは生まれて初めてだった。生まれつき棘だらけの女なんか相手にしなきゃいいのに、ここまで腰を据えてつき合ってくれるなんてよほどの物好きだ。感謝してた。少し前から、裕美にはよく言われた。
「伊津子は変わったよ。広基さんとつき合ったのがよかったんだね。顔柔らかくなったもん。昔は、話しかけるの怖いときもあったけど」
ちょっと嬉しかった。たしかに広基のおかげだ。広基のまわりには、自然に人の輪ができた。あたしはできるだけおとなしくして、広基が会わせてくれる優しい顔をした人たちに、せいいっぱいの笑顔を向けてればそれでよかった。こんなに楽しい大学生活が送れるなんて、広基に会う前は夢にも思ってなかった。
力の抜けた笑いが顔にくっついてる。どうすることもできなかった。いままで、裕美は――あたしを誉めてるように見せながら、実は広基を誉めてただけなんじゃないか。そんな気がしてきた。あたしはおこぼれに預かってただけ……
気分はどこまでも落ちていく。そんなことをぐるぐる考えてたら、レタスに載ったスクランブルエッグが目の前に出た。手際がいいなあ。いただきまあす、わざと明るく言ってあたしは食べ出す。甘くておいしかった。インスタントのスープを作るためにガスにかけたケトルが沸騰するのを待つあいだ、望くんは腰に手を当ててあたしを見てた。
「伊津子さんって……」
「ん?」
「いや……なんでもないです」
「なによ?」
訊き返したけど、望くんの表情がなんだかつらそうで、たぶん言いたくないことを腹に抱えてるから、つまりそれはあたしへのダメ出しだから、あたしも聞きたくなかった。
なによ。あんたはエリナちゃんに癒してもらってりゃいいじゃない。あの子にだったらあたしだって癒されたいぐらい。ああいう女の子には、どう転んだってなれない。いっぺん死ななきゃ無理だろう。
あたしの心が、鬱憤を溜めてる。ストレスがかかってる。そう、他人事のように思った。ふっと目を上げると、望くんは目を閉じてた。顔がまだ眠そうだ。
こんな虫も殺さないような顔をして、この部屋であの子とやることはやってるんだろうな、と思うと大内刈りでもかけて突き倒したい気分になる。もっとも、広基に技を習ったとき、大内刈りは一度としてうまくやれなかったのだけど。広基は高校時代は柔道をやってた。アメフトは大学に入ってからだ。でも、柔道の技を習うのは楽しかった。だれもいないときのあたしの実家の居間で、それから、みんなといっしょに温泉旅行に行ったときも旅館の大部屋で、教えてくれた。足技や投げ技はいいんだけど、広基はなぜか締め技を教えるのをいやがった。そんな、どうでもいいことを思い出す。
でも、望くんとエリナちゃんが絡み合ってる画はきれいだろうな、と思った。見れるものなら見たかった。エリナちゃんはすごく見事な髪をしていて、長さは腰ぐらいまである。で、肌が抜けるように白い。あの子の裸はきっとすごくきれいだ。締め技なんかかけたらすぐ失神しそうだけど。
「伊津子の態度は、納得いかなかったよ」
広基の声が耳に甦った。あれはいつだったろう。珍しく真剣に怒られたから、あのときの顔と声はよく憶えてる。そうだ、あれは……先輩の送別会だった。ある男の先輩が就職で東京を離れることになった。送別会なのに、あたしは愛想笑いひとつしなかった。あたしにとってはどうでもいい人だったのだ。つまらないことしか言えない、取り柄のない人だった。あたしから見たら。だけど失礼なことは言わなかったと思う。なのに、広基にはあたしの態度が失礼に見えたらしい。
あたしは逆ギレして、広基の気に食わないところを並べ立てた。外面がよすぎるとか、イヤなことを我慢しすぎるとか、先輩だってだけでヘイコラするのは体育会系の悪いクセだとか。
広基は、ぐっとこらえるような顔してた。
思えばあのときから、別れは始まってたんだろう。
「もっかい広基さんと、話すことはできないんスか?」
望くんの、控えめな声が聞こえる。彼はすぐに自分の頭をぐしゃぐしゃ掻いた。言ったことをごまかすみたいに。
なんだか胸が苦しくなった。スープなんか待てない。あたしは、息継ぎするシンクロの選手みたいな勢いでベランダに出た。
台所と反対側のこっちからは、満開の八重桜が見えた。濃いピンク色が豊作、って感じで枝にたわわに生っている。春だなあ、と思った。どうしようもなく春なんだな。ぽかーんとしちゃうほど。
陽射しがあったかい。空気は、まるで栄養があるんじゃないかっていうぐらい濃くて美味しい。いろんな花の匂いが溶けているから。
あんなに春が待ち遠しかったのに、来てしまうとなんてことはない。春が来たらいいことがある、行きづまってることもみんな片がつく、なんとなくそう思ってた。就職活動もうまくいくし、お母さんの鬱もよくなるしあたしの冷え性も偏頭痛もよくなる。クサクサした気分もぜんぶ晴れる。根拠もなく、そう決めてた。なのになんにも変わってない。ひどくなってたりする。春なんて、味わって楽しもうと思ったら終わってる。毎年そうだ。
で、この春もすぐ終わる。これがあたしの人生だって気がした。少しずつ失っていく。死ぬまで春が楽しめないんだ。もったいない。バカみたい。
ぺらっ、という紙を捲るような音が聞こえた。あたしは不思議に思って辺りを見た。なにもない。なんだろう。
またぺらっ、と音がした。上を見る。
アパートの上の部屋の人みたいだ。
花を見ながら、読書でもしてるんだろうか。あたしはどうしてもその姿が見たくて、首をできる限り延ばす。でも、ベランダのなかは見えなかった。なのにぺらっ、ぺらっという音ははっきり聞こえた。
捲る音のテンポはまちまちだ。飛ばし読みしているのかと思ったらしばらく聞こえなくなる。じゃあいなくなったのか、と思うとぺらっと聞こえて、相変わらず読んでいるのが分かる。
あたしが読まれてるんじゃないか。不合理なことを思った。上の階の人は男か女かも判らないけど、あたしの人生を読んでるところだ。さぞかし詰まらない人生だなと退屈してるだろう。それでも、春のなかでそれなりに気分良く読書を楽しんでる。
ちょっとぐらい裏をかいてやりたい。お話の最後ぐらい驚かしてやりたい、と思いながら手すりに凭れてじっとしていた。思ってるだけだ。結局なにもしない。できない。どうせ卒業後のあたしも、つまらない道を歩いているに違いない。
現にいま、あたしはどこへも行けない。上にいるだれかはどうしても見えないし、家にも帰りたくない。ここはもともとあたしの部屋じゃなくて、それでなくてもお邪魔虫なんだからいつまでもいられるわけがない。ここに居ればいるほど、あの、人を疑うことを知らないエリナちゃんを傷つけているような気がして仕方なかった。もちろん広基のところへは戻れない。
どうしよう。
ぺらっ、ぺらっと消費されていくあたしの人生。あたしを読んでる人は、読み終わったら捨てちゃってもう思い出しもしないんだろうな。ちくしょう。むかつく。
やっぱり望くんを押し倒そうかな。それがいちばんイージーだ。味気ない人生にちょっとしたスパイスをまぶすだけじゃない。彼は腕力なさそうだから力ずくでいいところまでいけるかも。
ページを捲る音に、違う音が重なる。
耳を澄ました。電話のベルだ。
かすかに、遠くから響いてくる。携帯電話の呼び出し音とは違う感じがする。
エリナちゃんだろうか。あたしは台所の方を振り返った。
望くんが居ない。あれっ、いつの間に……コンビニでも行ったのかな。だけど声ぐらいかけてけばいいのに。
電話の音はこの部屋から響いてるんじゃなかった。ここには据え置きの電話がない。望くんは、たしか携帯しか持ってない。
てことは、上だ。「読者の部屋」だ。
本のなかの人間が、本の外の世界から聞こえてくる電話の音を意識するわけがない。だからあたしは現実の人間だ、と思った。でも……おかしな頼りなさがさっきからあたしを包んでる。そういえば、ゆうべどうやってこの部屋まで来たか憶えてない。だからここを出ても、あたしは知らない町の知らない景色に囲まれるだけ。どっちへ行けば帰れるかわからない。ぜんぜん別の場所へ連れてこられちゃったのかも。ぜんぜん別の場所って、どことは言えないけれど、なんだかよそよそしくて、不確かな世界。あたしの知らないあたしに関係のない世界。
まもなく上の人は読み終わる。で、本は閉じられる。それでおしまい。あたしは本に閉じ込められて本棚にしまい込まれる。もうだれにも読み返されることはない。
イヤな汗が脇の下から流れる。あたしは動けない。怖いのに、じっと我慢するだけ。動けない? ほんとに? もう時間がない。読み終わったら終わりなのに。あたしは弾かれたようにベランダの柵をよじ登った。向こう側へ行くんだ。このまま閉じられたくない、本の外へ!
柵につまずいた。きゃっと言いながら頭から転がり落ちる。ぐるっと一回転して、腰から道路に落ちた。腰は痛くなかった。代わりに、手が痛かった。
体育座りの姿勢のままあたしは瞬きを繰り返した。裸足が、道路のアスファルトを踏んでいる。ちょっとだけほっとした。足の裏はアスファルトのそっけない感触をあたしに伝えた。そのそっけなさを、鮮やかに。これがリアルってもんよね?
望くんが見えた。あわてて道路を駆けてくる。左手に携帯電話を握ってる。
「なにしてんすか? 伊津子さん」
それはあたしが訊きたかった。
望くんは口を開けてひとしきり呆れたあと、言った。
「電話来たんで。外で話してたんです」
エリナちゃんだろう。気を遣って外へ出たんだ。
そのあいだにあたしはちょっぴり狂ってたってわけ。……お笑い種ね。
いま、あたしにはだれもいない。しみじみ感じた。この地べたの上で、どうしようもなく一人だと思った。広基のでっかい手は懐かしかったけど、あのあったかさはもう味わえない。助けてもらえない。
それでよかった。もう、あたしは柵を越えて外へ出たから。なんだってできる。
地面に尻をつけたまま、あたしは二階を見上げた。
だれもいなかった。
逃げられた。
いや、初めからいなかったのか? もうわからない。二階のベランダには、発泡スチロールの鉢植えがいくつか並んでる。茎が伸びて、豆かなんかが生ってるのが見えた。だれかの生活の気配。どんなひとが、本を読んでたんだろう。あたしが出て来たからびっくりして逃げたのかも。
「電話です」
望くんが携帯を差し出してくる。
「伊津子さんにですよ」
意味が分からない。手を伸ばして携帯をとり、耳に当てた。
「受け身、うまいじゃないか」
聞き慣れた声が聞こえた。
電話のなかと、電話のそとから。
望くんが手で口を隠してる。笑いをこらえるみたいに。
〈了〉
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