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「極夜」Outtakes Part 1 “鮎原×唯”
シリーズ完結篇『極夜3 リデンプション 警視庁機動分析捜査官・天埜唯』、発売となりました。
『極夜』シリーズには、本編に入れられなかった幻の場面がいくつかあります。それをここで、特別に公開します。『極夜』の作品世界を愛してくださった皆さんへのささやかなプレゼントです。
・Part 1 “鮎原×唯”
鮎原康三総括審議官と、天埜唯の会話シーンは、シリーズ内では1カ所。
『極夜2』のラスト、協倫堂病院でのみです。
しかし二人は、もう一度だけ対面し、もっと内面をさらけ出していました。
これは再び、病室でのやりとりでしょうか。
それとも、地の果てでの出来事でしょうか。
「天埜。傷は痛むか」
そう問う私は、未練を覚えているのだろうか。
鮎原康三総括審議官は自問した。私の眼差しも、口調も落ち着いているはずだ。だが、いったん去ったと思わせ、ここに舞い戻ってきた。話し足りないと感じたのだ。
そして、自分がここを二度訪れることができるとは限らない。
「鮎原さん。クリーナーの後ろ楯は、あなたではありませんか」
前置きもなしに、天埜唯は反問してきた。いまここでは二人きり。だれ憚ることなく訊ける。
「……答える必要があるか?」
鮎原は笑みを浮かべて見せた。狼狽してもおかしくない場面だ。だが鮎原はむしろ、天埜の賢さを誇らしく思った。
「では、あなたがクリーナーの指揮者であるという前提で、話をさせていただきます」
天埜は宣言し、先を続けた。
「あなたが、極左テロリストのような人物とは、理解していませんでした。目的のためとはいえ、裏から、破壊活動を統括するとは」
「お前は、どこまで人間になった?」
我ながら愛しげ、とも言える調子で鮎原は訊いた。感傷を覚える。自分らしくないと自分で思った。
「お前にはもう、理解できるのか。人道というやつを」
今度は、天埜唯が口を噤む番だった。
「私は、権力の階梯の高みにあって、なお囚われた虜囚だ。お前も、そんなことぐらい知っているな」
天埜は、訝るように瞳を覗き込んでくる。かつてよくそうしたように。
「頂点にいない限り、すぐ上の人間に恭順する。それが権力への道というものだ。天埜。私は、自分が生まれた時代を恨んでいる」
鮎原は無防備に心中を吐露し続けた。壊れたジャックポットになった気がした。
「権力の階梯を上った末に、私は――人民の敵を発見した」
天埜は微かに頷いた。
「お前ならどうした? 私の立場だったら」
天埜は今度は、微かに首を傾げた。
「難しい問いだな。当人の私ですら、しかとは答えられないのに、人間になったばかりのお前に問うてもな」
すると天埜は、はっきりと首を振った。
「殺してはいけない」
「お前が言うか!」
鮎原は苦り切った笑みを返した。それから首を傾げる。
「ドクを殺したお前の中に、ドクは残っていないのか。完全に殺したのか?」
天埜は再び黙った。
「天埜唯は殺人を許容しない。それは知っている」
鮎原は物わかりよく言った。そんな自分の物わかりのよさを笑うように、かすかな嘲りを口許に漂わせる。
「だがお前は、ドクをどう断罪したのだ?」
すると天埜は、目を見開いた。
その瞳に美しさを感じた。それがただ見た目だけのことなのか、それとも、天埜の内面を反映したものなのか、いやむしろ鮎原の内面が投影されたせいなのか。鮎原には分からなかった。見当識を失っている、とますます嘲笑う。天埜唯が罪人なのか聖者なのか、人形なのか死人なのか、自分にはまったく見当がついていない。だがそもそも自分が天埜唯を捕捉できたことがあっただろうか。
自分はなんというものを、世に放ってしまったのか。
「お前は殺人を許容しない。それが、お前が自らにかけた封印。いまやお前の、レゾンデートルだ」
天埜は瞑目し、肯とも否ともしなかった。
「だが、私は――お前とは逆に、封印を解いた」
鮎原は言い切った。
「手段は選ばないと決めた」
「それは、自供と捉えて良いのでしょうか」
天埜は刑事の顔を見せた。鮎原は感心する。明らかに、自分の心の底から悦びの感情が湧き出ている。
「好きに取るがいい」
鮎原はあえて淡々と続けた。
「自らの人間性を捨て、あの男に従うことも考えた。だが、無理だった。ははは、私は自分で思っていたよりも、血の通った人間だったらしい。冷血だと思っていたが、本物の冷血に出会えば、自分の温もりを意識せざるを得ない」
「鮎原さん。蘇我ですね? あの男のことを、語っておられる」
「俺は注釈はしない。好きに受け取れ」
自分の笑みは乾き切っており、自分の頬に突き刺さりそうだと感じた。
「あの男と同じ時代に生まれてしまった。ああ、この運命を呪う。私ではない、だれかにやって欲しかった。だが、見当たらなかったのだ。あの男を殺せる者を」
「鮎原さん」
その天埜の声には、一滴の情が沁み込んでいる。
鮎原はそう感じ、自分に驚いた。
「皮肉だな」
自分の喉から出る声の響きも、意外だった。まるで感極まっているように聞こえる。
「唯。私を、育ての親の一人と思ってくれるなら……哀れんでくれ」
言葉の内容にも呆れた。こんな台詞を吐くまでに堕ちるとは。
「お前が、長い時間をかけて殺人を克服した、その年月だけかけて、私が……自分を、殺人者にしたのだとしたら? お前の感想はどうだ」
「鮎原さん」
もう一度、名を呼ぶ。その響きに、鮎原は腹の底から満足した。
「これはいったい、どんな因果だろうな。いつの間にか、互いの立場が入れ替わるとは」
「津田さんのことも、考えてください」
思いがけない角度から言葉が刺さってきた。
「……どういう意味だ?」
「最も衝撃を受けるのは、私ではない。津田さんです」
自分の顔から、苦し紛れの笑みさえ消えたのが分かった。
「急所を突かれたな」
率直に認めるしかない。鮎原は頭を垂れた。
「淳吾はまさに、人道に殉じる気だ。だからお前のケアも買って出た……真実は知らせられなかった。お前と淳吾には」
鮎原は妙な感慨を覚えた。自分が、どんな他人に対しても、これほどの本音で語ったことがあっただろうか?
「遠ざけるしかなかったのだ。好都合だった……お前が、私の元を離れたのは」
いまさらの自己分析だった。人道を守るために、人道を踏み外した自分。そんなものに向き合いたいはずがない。気づきたくなかった。
「お前と話せなくなった。許せ」
人に許せなどと言ったことはない。生まれて初めてだ。
「私のことなど、構わなくてけっこうです」
温度のないその声が、だれより優しく感じられたのは、自分の精神の皮膜が破れそうだからか。
「津田さんのことを考えてください」
なんと正しいのか。この傷だらけの女は。
「だが……手遅れだ」
我ながら、声が掻き消えそうだった。
「あいつには、会わずに帰る。見せる顔もない。会えば余計なことを喋ってしまいそうだ」
「鮎原さん」
「お前から、好きに言ってくれ。私は構わない」
「蜂雀に会わせてください」
天埜は言った。
「あの子には救いが必要です」
この女には、他にも優先事項があった。鮎原は目を開かされた。
「蜂雀か」
負け犬の声だと自分で思う。自分の足跡を振り返れば、全ての足形にはっきり罪が刻印されているに違いなかった。
「そうか。ある意味、淳吾より切実だな。これからも加害者になる可能性がある」
「その通りです。これ以上、殺させてはならない」
その声に籠もる不動の念。
「無理なのだ」
鮎原は、懺悔しているような気持ちだった。
「私には、連絡を取る術がない。お前が、信じようと信じまいと」
「本当ですか?」
天埜の顔に影が差した。なんと人間的な、と鮎原は感じる。
「本当だ。私は、蜂雀に、会ったこともないのだ」
「しかし……それでは、クリーナーは」
「信じようと、信じまいと。そう言っただろう」
「左右田さんですね?」
確信が天埜を捕まえたようだ。
だが鮎原は、頷く権利が自分にはないと感じた。
「クリーナーの、実質の支配者は、左右田さんですね?」
「ゆっくり休め」
そう言うので精いっぱいだった。
「あとは、私が……なんとかする」
嘘をついた。気の咎めが鮎原の顔を強張らせる。隠そうと顔を背け、そのまま天埜に背を向けた。扉を閉じて歩き出す。しばらくはまともな思考もできなかった。
だが、天埜の前を去ってから、気の咎めを払拭する方法を思いついた。
本当に、自分で、なんとかすればいいのだ。