もののけ姫を23年ぶりにスクリーンで見てきた
きっかけ
「映画館で昔のジブリ作品をやるらしい」と聞いた。
http://www.ghibli.jp/info/013278/
コロナの影響で新作の映画の上映もあまりない中、せっかくなので見に行ってみようと思った。
上映されているのは
『風の谷のナウシカ』『もののけ姫』『千と千尋の神隠し』『ゲド戦記』
の4作品。
今回は特に理由もなくもののけ姫を見に行ってみた。
23年前の思い出
もののけ姫が公開されたのは1997年。今から23年も前のことだ。
当時すでにスタジオジブリや宮崎駿の知名度は全国に知れ渡っており、大々的な宣伝がされていた気がする。
当時は「もののけ姫で宮崎駿が映画制作から引退するらしい」という噂が流れており、母親から
「引退作品だから見にいこう」
と言われたのを覚えている。
なお、実際には宮崎駿は引退することなく23年たった今でも現役バリバリで映画を作っている。
当時の僕は小学校に入学して間もないころだったが、ジブリ作品は大好きだった。
ジブリの中でも僕は特にラピュタがお気に入りで、VHSを擦り切れるまで何度も何度も見ていた。
ラピュタの魅力はなんといっても圧倒的な「ワクワク感」だろう。
少年が空の上に浮かぶ天空の城を夢見て、ヒロインと共についにラピュタを発見する。ムスカというわかりやすい悪役と戦いながら、最後は「バルス」でやっつける。
わかりやすく、爽快だ。
空に浮かぶラピュタ、ラピュタ内部の建物の造形。どれをとってもわくわくする。
もちろん、今見てもだ。
もののけ姫は怖かった
そんなわけで僕はラピュタやトトロのような物を期待して見に行ったので、当時見たもののけ姫の感想は「怖い」「なんだかよくわからない」に尽きる。
冒頭は気持ち悪い呪われたイノシシが登場し、主人公のアシタカが腕を呪われる。
「うわぁ、なんだこれ、気持ち悪い」
呪われたアシタカは村を出るのだが、いきなりアシタカが弓矢で侍の腕や首をぶっ飛ばすシーンがある。
これがなかなかにグロい。
隣で見ていた母親がとっさに見ないように僕の目を手で覆ったのを覚えている。(見えてたけど)
なんやかんやあってアシタカはタタラ場という鉄を作る街にたどり着く。
幼い僕はこの頃こう思っていた。
「サンはまだ出てこないの?」
事前の情報でヒロインの名前がサンだということは知っていた。
てっきり序盤でアシタカと出会い、二人で悪い奴と戦うのだと思っていた僕にとって、序盤の展開は退屈だった。
ようやくサンが出てきたと思ったら、サンは山犬と一緒にアシタカが滞在していたタタラ場を襲撃する。
「なにこれ、この子ヒロインじゃないの?」
その後最終的にはアシタカとサンは二人で行動するようになるわけだけど、どうにも序盤はヒロインには見えなかった。
あと、エボシというタタラ場のリーダー的な女性がいるのだが、この人もいい人なのか、悪い人なのかよくわからなかった。
エボシはサンや山犬をはじめとした森の動物からは憎まれていた。
森を破壊する最低な人で、銃を打ち込んでイノシシを祟り神にした元凶なのだ。
一方で彼女はタタラ場の街の人からは非常に慕われているのである。
彼女は街の人々の暮らしのために森と戦い、社会的弱者である女性や障害者を積極的に採用している人格者として描かれている。
このように、もののけ姫においては明確な「善人」「悪人」が存在しない。
そのため、幼い僕は誰に感情移入して見れば良いのかよくわからなかった。
話の中心になっているっぽいシシガミ様も最後まで何なのかよくわからなかった。傷を治してくれると思えば命を吸い取ってしまったりする。
そもそも作中でシシガミ様のセリフは一切ないので、このキャラクターに感情移入するほうが無理な話だ。
帰り道、母親が
「なんか思ってたのと違ったね」
みたいなことを言っていたのを覚えている。
23年ぶりに見たもののけ姫
そんな訳で実に23年ぶりにスクリーンでもののけ姫を見ることになったわけだが、映画から感じる印象は当時とはまったく違うものとなった。
端的に言えばものすごくよかった。
良かった点をいくつかあるが、その中でも特に良いと感じたのは「生きろ」というメッセージ性の強さである。
この言葉は作品のキャッチコピーであり、ポスターにもでかでかと書いてある。しかし、23年前の当時はあまりピンとこなかった。
劇中でもアシタカがサンに
「生きろ、そなたは美しい」
というシーンがある。しかし、このシーン自体が唐突だったのと、裏を返せば「ブスは死ね」ともとれるこのメッセージで幼い僕は素直に感動することはできなかった。
それが、23年ぶりにスクリーンで美輪さんのこのセリフを聞いた僕は、意外にも、えらく感動してしまったのである。
なぜ感動してしまったのか、少しずつ紐解いていく。
複雑で難しい設定
この作品の設定は複雑で難しい
まず、この作品は上でも述べたように勧善懲悪ではない。
エボシは人間の世界では人格者でありヒーローであるのとは裏腹に森の動物からは恨まれている。
ここから見えてくるのは「森 v.s. 人間」という利害の対立であり、当時は「環境問題をテーマにしている」とも言われていた。
だが、よく見るとその構図すらも表面的で正しくないことがわかる。
なぜかというと、森側も人間側も決して一枚岩ではないからだ。
例えばタタラ場は鉄を狙って侍から度々襲撃を受けており、人間どうしの殺し合いのシーンもこの映画では度々登場する。
森側に関してもそうだ。
保守的でよそ者が立ち入ることを許さないショウジョウや、全滅覚悟でもとにかく人間を滅ぼしたいイノシシと、サンや山犬たちは対立する。
そして主人公のアシタカはというと、そういった色んな立場に翻弄され続けることになる。
ここから「森 v.s. 人間」だけでなく「森 v.s. 森」「人間 v.s. 人間」の対立も同時に存在している。
物語の構成上「森どうしの対立」を描いたすぐ後のシーンで「人どうしの対立」を描くシーンがあったので、これは宮崎駿の意図した演出なんじゃないかと思う。
というか、この作品においては違う立場に置かれている者はほぼ全員が何かしらの形で利害が対立している。
そこには善悪はなく、立場の違いだけが存在している。
ギスギスした地獄のような世界観で、「これが現実なんだ!」とビンタされているような辛い気持ちになる。
そんな登場人物たちの中で、唯一立場の違いや己の善悪に支配されていないキャラクターがいる。それがシシガミ様だ。
この作品のテーマを探る上でシシガミ様は極めて重要な存在だ。
シシガミ様は何者か
この作品においてシシガミ様は常に話の中心にいる。
そもそも主人公の腕の呪いを解く鍵はシシガミ様にある。
人間側からしてもシシガミ様の首にはすごい効果があるという噂があり、森側からもシシガミ様は信仰の対象となっている。
しかし、最も重要なのはこうした「シシガミ様は何者か」という評価は常に他者からの評価でしかないという点だ。
「人間からみたシシガミ様」「森から見たシシガミ様」「アシタカから見たシシガミ様」
といろいろあるが、当のシシガミ様自体は一切セリフがない。
それどころかシシガミ様が登場するシーンではBGMすら消えて完全な無音になる。セリフもない、音もない、表情もない。
シシガミ様の初登場シーンでは背景も暗くなる。
このような演出は間違いなく宮崎駿が意図してやったものだろう。
シシガミ様の唯一のキャラクター設定は生物の命を「与える」か「奪う」か、なのである。
シシガミ様が十分に生きたと思った生物には死を、まだ生きるべきと判断した生物に生を与える。
それが他者の評価を抜きにした、シシガミ様の唯一のキャラクター性である。
そう考えると、「生と死」というのがこの作品で極めて重要なテーマであることが見えてくる。
生と死
改めて思い返してみると、この作品には全体のいたるところに「生と死」の概念が出てくる。
冒頭は祟り神となったイノシシの「死」からスタートし、アシタカは呪われてしまったことで「死」の運命を逃れるために村を出る。
アシタカは旅に出ることでこの世界の様々な不条理を目にする。
人間のエゴ、森のエゴ、残酷な世界。
その中でもサンはそういった残酷な世界に取り残され、翻弄される人の象徴的な存在として描かれている。
幼いころに捨てられ、人間にも山犬にもなりきれない。
唯一の居場所である森すらも失われそうな状況の中で、アシタカが出した答えが「生きる」ことなのだ。
一見すると、この「生きる」という答えはこの複雑に設定された問題を解決する上でまったく論理的な答えではない。
アシタカはモロの
「お前にサンが救えるか」
という問いに対し、
「わからぬ。だが、共に生きることはできる」
と答える。その答えを聞いたモロはバカにしたように笑う。
ここでモロに笑われることが重要なのだ。
アシタカの答えは決して褒められたようなものでなく、誰の目から見ても馬鹿げているからだ。
でも、どんな状況でも「生きること」そのものに価値を見出したアシタカはサンにも言うのだ。
「生きろ、そなたは美しい」
これは残酷な世界に支配されるサンの生きることそのものを肯定する、極めて重要なシーンである。
さらに言えば、これまでずっと己を殺して森のために生きてきた、人間であることすら放棄したサンを初めて一人の人間として「美しい」と言ったのがアシタカだったのだ。
この言葉にサンは救われる。
劇中ではここで久石譲によるテーマ曲(米良さんが歌ってるやつ)が流れる。
これで感動しないわけがない。
難しい答えをすぐに出す必要はない、生きていればいいのだ。
エンディング
結局、議論は一周することになる。
死ぬのは嫌だ、生きたいぞ、というところからスタートし、
世界は残酷で、死んだ方がましなこともいっぱいあるという現実、醜い生物のエゴをこれでもかと見せつけた上で、それでも最後に「生きろ」というメッセージが突き刺さってくる。
この映画の最後では森も、タタラ場も全てが破壊された後に再び生命が芽吹き始め、生き残った者が「生きてりゃなんとでもなるよね」というメッセージで幕を閉じる。
全てが計算し尽くされた名作だ。
何が「深い」のか?
「生きろ」というメッセージ性自体はそれほど珍しいことではない。むしろ僕らは小さい頃からそういったテーマの作品に数多く触れているはずだ。
「生きていればいいことがある。死んじゃダメだ。生きようね」なんて小学校の道徳教育で習うことそのまんまだ。
「人に優しくしようね」とか「努力は大事だ」とかいったメッセージ同様の説教くさい言葉だし、言ってしまえばただの綺麗事だ。
ではこういったありきたりな「生きろ」ともののけ姫の「生きろ」は何が違うのか?
それはもののけ姫においては「死」というものがネガティブな文脈では語られていないことだろう。
もののけ姫における「死」は「生」と一体である。
まだ生きてやることがあるから生きる。役割を終えれば死ぬ。そして新しい命が芽吹く。
この作品においては「生」も「死」も極めて無機質なのだ。どちらが良いというものではない。そういった無機質な世界観の中で「いつかは死ぬけど、まだ生きてるんだからできることをやろうね」という意味での「生きろ」なのだと思う。
実際、劇中において「生きろ」という類のセリフはいっぱい出てくるが「死ぬな」というセリフはほとんどない。
終盤にシシガミ様の泉で倒れているモロを発見した時のアシタカの第一声が
「死んだか!?」
である。倒れている人(犬)に向かって「死んだか?」ってなんだよという気もするが、とにかく劇中においてここまでしつこく「生きろ」と言っておきながら不思議と「死」へのネガティブなイメージはなく、「役割を終えた」くらいの文脈で語られるのである。
序盤でも次郎坊の
「人間いつか死ぬ。早く死ぬか遅く死ぬかの違いだ」
みたいなことを語りながら謎の汁(?)をすすっているシーンにもあったように、この考え方は劇中で最初から最後まで一貫していたように思う。
残酷で不条理な世界観と対照的な力強い「生」の肯定。
そういった文脈があるからこそ、僕はこの「生きろ」というメッセージにひどく感動してしまったのだと思う。
余談
今回はこの作品のメッセージ性についてばかり語ってしまったけど、美しい映像や久石譲の音楽が素晴らしかったことは言うまでもない。
今見てもまったく古臭さを感じなかった。
また映画館行きたいなー。
あと、カヨからもらったペンダントをそのままサンにプレゼントするアシタカはなかなか鬼畜だと思った。
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